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「英雄たちの夢」 アドルフォ・ビオイ=カサーレス

大西亮 訳  フィクションのエル・ドラード  水声社

オールレヴューの紹介動画を最初に見た

今日、ビオイ=カサーレスの「英雄たちの夢」のオールレヴュー(牧眞司・豊崎由美)の動画を見た。

小説の概要:1927年と1930年のカーニバル。27年の時に若者ガウナが出会った仮面の女、そして3年後、再びカーニバル。

動画で出てきた読みどころ

1、人物の対置、悪の博士に対するガウナの結婚相手の父。ガウナに対するルームメイト…

2、伏線回収。豊崎氏曰く「鋲を撒いたような」リアリズムパートでの伏線を幾つ回収できるかで、読みの深さがわかる
(ただ彼らでも一箇所わからないところがあって、見知らぬ女から電話がかかってきて、街角で30分待ちぼうけをくらうところ。他ではうじうじと考えてしまうガウナが、ここでは素直に?帰宅するのも含め、何も回収しない p53の箇所)

3、1927年と1930年のカーニバルの描写の行き来。30年の時に27年のがフラッシュバックするのはまああるけど、この小説では逆もある。「未来が過去を規定する」(豊崎氏談)。ちなみに1930年のカーニバルは3年後なのに寂れてしまっているという…ここ結構重要ポイントだと直感。
(2022 04/24)

ということで、読んでみた

 ガウナは、住民たちのとがめるような視線を浴びながら仲間たちと一緒に歩いていく自分の姿を外から眺めているような、奇妙な感覚にとらわれた。
(p21)
 馬に関して言うと、気まぐれなイメージがガウナのなかに残っていたが、それはどこまでも鮮明なイメージだった(しかしこれは奇妙な話である。というのもガウナは、馬車の後部座席に座っていたからだ)。
(p38)


上記、牧氏と豊崎氏が「どれだけ伏線を回収するかがこの本読む時のポイントだ」と言っていたので、伏線を列挙してみよう。というわけでこの2箇所。他にもそれらしき箇所はぽつぽつあるが…しかし、この後は伏線だらけで全文引用になりかねない…

 その後のガウナの記憶はゆがめられ、混沌としている。仮面の女はいつのまにか消えていた。
(p41)


ここは、2つの世界、1927年のカーニバルと1930年のカーニバルとの境…なのか?この後、湖のそばの小屋で起きるガウナが描写されるが、ここは1930年?
とにかく、この文章の直前、1927年の仮面の女と湖への散歩(博士が提案するまで)、女のボーイフレンドとの諍い未遂、という辺りが、ガウナの追い求める、小説(本文)冒頭の「神秘を帯びた頂点」に直接結びつく。この第5章はまずは押さえるべきところ。

ここのあと読んでいて、何かこの小説の鍵の一つが、話すことのテーマではないか、と考え始める。修理工場の経営者ランブルスキーニの話を聞くガウナ(p49)、それから博士の歌手の話をする場面(p54)などなど。

それから、次の押さえるべき章の前にもう二点。

一点目。上記牧・豊崎氏の話にも出てきたラルセンという人物。博士の取り巻き仲間の一人で、ガウナに修理工場の職場やそれから博士を紹介した人物なのだけど、仲間の中では冷めているよう。ガウナはいろいろこのラルセンに話そうと考えているようだが…というところから、自分はフォークナーの「アブサロム、アブサロム!」のシュリーヴを思い出した。

二点目、ガウナに競馬の勝馬を教え(ひょっとしてここも伏線なのか、未来から教えていた、とか)たマッサントニオが行方不明に。これにどうやら「神秘を帯びた頂点」体験が関わっているようだ。

魔術師タボアダと仮面の女クララ

というわけで、二点も終わり、次の重要章へ。〈魔術師〉タボアダに仲間と一緒に会いにいく場面(第13章)。実際に魔術師と面会するのは一人ず
ずつ。

 「希望を捨ててはいけません。未来というものは、何でもそろっている世界のようなものですからね」
 「角のお店みたいに、ですか?」ガウナが応じた。「店の宣伝文句にはたしかにそんなことが書いてありますが、何か買おうとすると、もう品切れですという答えがかならず返ってくるんです」
 タボアダはおそらく、抜け目がないというよりも、話し好きな男なのだろう。ガウナはそう考えた。
 「未来においては、われわれの運命は川のように流れています。この地上でわれわれが思い描くとおりに、未来にはすべてがあります。すべてが可能だからです。未来において君は、先週亡くなった。あるいは、未来において君は永遠の生を生きている。
(p59 タボアダの言葉は続いている)


おそらく、タボアダの言う「希望」とは、ガウナが頂点を探しているという階層のもう一回り外側からの「希望」なのだろう。
多くの可能性から何を選ぶか、結びつけるか。それは語り、話すことに直結する。品切れにするか、すべてがあるとするかは、その人次第なのだろう。
この家を出るためにエレベーターに乗った時、停電が起こる。一緒に案内をしていた魔術師の娘クララとの出会い。彼女が仮面の女らしい。

 つぎの日の昼下がり、ガウナは喫茶店〈アルゴナウタス〉でクララを待っていた。腕時計に目をやっては、店内の壁にかけられた時計と見比べていた。あるいは判で押したように同じ動作でガラス扉を静かに押し開けて入ってくる客の姿を眺めていた。
(p89)


この小説のテーマの一つである。さまざまな時間の並行性みたいなものの現れなのだろう。同じ動作の繰り返しのような客の動作も、あたかもそれらの客が交換可能であるあのような印象を(読者は)受ける。そして、それはそのままガウナの印象でもあるのだろう。

牧氏と豊崎氏の指摘のあったハリソン・フォード(この当時にそういう名前の映画俳優がいた)の映画の場面。実は、ガウナが見たのはその映画の終わりの方で、休憩後別の映画を見る。「愛はけっして死なない」というその映画の結末付近・・・

 観客の見ている前で次第に年老いていく彼らは、結末近くで、髪が白くなり、目にも隈ができ、腰の曲がった体を杖で支えながら、雪の降り積もる墓地に集まった。どこまでも善良な人物がいるかと思えば、どこまでも悪辣な人物がおり、このうえなく無慈悲な運命の仕打ちが描かれていた。
(p101)


戯画化したようなこれまた繰り返しのイメージの例のような、この映画の一場面。これも映画という鏡に繰り返し映っていた場面であるのだろう。そして同時にこの「英雄たちの夢」という作品の象徴を映し出しているともいえると思う。善良な人物が魔術師とかラルセンとか、悪辣な人物が博士、とか。
とりあえず、今日は第23章、p123まで。
(2022 05/05)

正月の暑いピクニック

今日は小進行。
自動車修理工場の経営者ランブルスキーニ家のピクニックの章はやや長めの章。この章の前ではガウナはクララを避けていたが、正月(ラテンアメリカではクリスマスも正月も暑い)のピクニックで誘っていないのに、聞きつけて参加していたクララ。ここで気持ちの上でひと段落落ち着いたのか、いよいよ結婚を決めることになる。
引用するのはその合間のところ。

 彼はよく、男が女を愛しながら、女から自由になることをひそかに、絶望的に願うことはできるのだろうかと考えた。
(p141)


ここは最近読んだばかりの、モラーヴィア「倦怠」をどうしても思い出してしまう。「倦怠」の画家よりはガウナはもっと純真だとは思うが、それでも共通する何かがそこにはある。束縛への恐怖心?
(2022 05/06)

タボアダの言葉2つ

 われわれは、現在に対して不誠実であるという犠牲を払ってまで、過去に忠実であり続けることはできないものだ。要するに、自分自身の判断に耳を傾けない人間ほど不幸なものはいないということだ。
(p154)


バレルガ博士たちのグループから離れる、というのが、とりあえずここでの「自分自身の判断」。それを阻害するものこそ、3年前のカーニバルの「頂点」。

 男にとって大切なのは、ある種の哲学的な寛大さ、あるいは宿命論的な諦観というべきものだ。それがあるおかげで、人は中世の騎士のように、いついかなるときにも、すべてを失う覚悟を決めることができる。
(p160)


これはタボアダの最期(自死? ソクラテス?)にそのまま繋がっている。

タボアダの死と回収されない伏線への試論


第31章から第34章までの冬(南半球なので7から9月?)の日曜日は、タボアダの死。第31章では、ガウナにクララから電話(家主?の大工の世話をしている女というのが取り次ぐ)があって、父の具合が良くないけど、そこまで心配しなくてもいいから、夜8時頃迎えに来て欲しい、という。
この空白の時間を例の「頂点」事件の解明に当てようとしたガウナは、湖の小屋の二人(サンティアゴと〈だんまり〉)に会ったり、あの日に入ったカフェ(キャバレー?)に入って女に詰問してたりしているうちに9時半近くになった…

と、待てよ? 牧眞司氏と豊崎由美氏が「回収されない伏線」だと語っていたp53の聞き覚えのない女からの電話の一件は、ここにかかって来ないかな?
p53の整理
水曜日、昼(仕事してるからたぶん)、夜8時半、デル・デハル通りとバルデネグロ通りの交差点の近くの別荘地で会いたいとの電話(ガウナは一瞬、「仮面の女」ではないかと考えるがすぐに否定)…夜9時、ガウナはまだ人気のない場所にひとりで立っていた。そして夕食をとるために帰宅した。
微妙に違うがまた微妙には合っている。

このタボアダの家はデル・デハル通りの近くにあり、ここで9時半近くになる。そして、タボアダの家に行くと、クララ、ラルセンなどがいて、タボアダの死を知らされる。

 娘を少しのあいだ遠ざけておくためにわざわざ電話をかけるように促したことは明らかだった。死ぬところを見られたくなかったのである。父親はいつも、思い出を大切にしなければいけない、思い出こそ一人ひとりの人間にとって人生そのものなのだから、と口にしていた。
(p178)


p180のゴメス氏(なんかこの人の紹介文章もとても気になるけど)の言うように、ソクラテス的な自死だったのかはともかく、ここで開陳される死ぬ時のことが果たして受け入れられるかどうか。普通の人は、身内の誰かに看取ってもらいたいと思うのではないか、だけど、最後の最後ではどうなのだろうか。もし、そこまで意識があった場合。

作者の介入?

 宿命というものは、人間が考え出した便利な発明である。ある出来事のかわりに、まったく別の出来事が起こっていたとしたら、現実はいったいどうなっていただろう? 実際は、起こるべきことが起こるべくして起こったということなのだ。わたしがここで読者諸君に語っている物語のなかで、このつつましい教訓は、目立たない光ではあるが、見まがいようのない光を放っている。とはいえ、わたしはいまも確信しているのだが、ガウナとクララの運命は、〈魔術師〉が他界することがなかったら、いまとはちがったものになっていただろう。
(p182-183)


珍しく?作者の介入。全く別の出来事が起こっていたら、と考えることから物語は生まれる。この小説に多数書かれている、人が語ることへの言及はそれを示している。そこから多くの分岐が生まれる。
ただ、こうした「作者の介入」は、物語の中心にあるものから、読者の視線を逸らすことへの誘導にも使われる、のではないか…

ガウナはタボアダの他界以来、クララにあのカーニバルの日の出来事やその謎を解く計画をおおっぴらに語るようになる。これもまた語りたい欲求であるし、何かの支えになっていたタボアダという存在がなくなったことへの変化だろう。その中で、p186にある「頭の大きな金髪の若者」は、この数ページ前、p181-182のタボアダの死のところでも出てくる。これはページも近いから、結構明示的な伏線。

第36章からは、いよいよ1930年のカーニバル。ガウナはまた床屋(マッサントニオではなくブラカニコ)で競馬の勝馬を教えてもらう。そこには今度は黒服の男が絡んでいる。これは1927年バージョンにはなかったところ。
いよいよまたバレルガ博士らとともに競馬で入った金を使おうと繰り出すところまでで今は留めておく。ラルセンは「やめろ」と言おうとするがガウナは聞かない。すると他の仲間が、ラルセンはエゴイストだ、自分の時間を大切にしている」とか言う。それはタボアダの死の場面と重なり合う。

カーニバルの再現に潜む3つの固執点


というわけで、1927年のカーニバルの再現を求めて、再びガウナとバレルガ博士と仲間達の徘徊が始まる・・・が、完全なる再現ではない。床屋(今回はブラカニコ)は同行を拒否。

 「そんな光景には一度もお目にかかったことがありません。嘘だというならこの目がつぶれたってかまいませんよ。お客さんはおそらく、嘘や作り話を寄せ集めた本でもお読みになったのでしょう」
(p?要調査)


バレルガ博士の昔話に対して、それを否定する老ウェイター。という文脈を外れて、作者が読者に対して語りかけているような、そんな気もする。
p212から214のところは、なんだか1927年のカーニバルの描写が表に出ている気がする。子ども、そして馬、これらに絡んだ1927年の記憶と1930年の現在を行き来しているようだ。

 目覚めた瞬間にはたしかに覚えていたはずの夢がすぐに忘れられてしまうように、ガウナのうちにある記憶がよみがえったが、たちまち忘却の淵に沈んでしまった。
(p214)


(2022 05/07)

p216からp234まで、第42章から第44章まで。ここでは1927年のカーニバルでの三つの出来事をひとつずつガウナが見出していく。
全てバレルガ博士の激昂した?行動。泣いている子どもを別の子どもに殴らせちょうど来た路面電車に置き去りにしてきたこと、盲目のバイオリン弾きに横の子どもが持っていた瀬戸物の容器を無理やりかぶせつけた(この箇所の伏線がp122-123のところに出ていた)こと、そして何回か言及されてきた、馬の件、疲れ切って倒れてしまった馬車馬にこれまた無理やり立たせて進ませようと鞭振るう博士に耐えかねて、アントゥネスが持っていた拳銃を奪って馬を殺してしまう。

 はたして、謎を解明するために、そして、謎が秘める汚らしくも忌まわしい側面を見出すために、この冒険の終局まで、ほの暗い輝きの源まで行き着くべきなのだろうか?
(p229)


どうだろうか?

英雄たちの夢と二人の副人物


1930年のカーニバル2日目の夜は、アラウホという資材置き場の小屋の管理人のところで泊めてもらう。そこで、彫像が並んでいる部屋で疲れて寝てしまった(なので、彫像が置かれているのに気付いたのは翌朝になってから)ガウナはまた夢を見る。
「英雄」たちがカードゲームをしている、そしてこのゲームの勝者は、赤い絨毯に導かれた玉座に座ることができる・・・夢から覚めた朝、アウラホからこれらの彫像はギリシャ神話のイアソン達のものだということを聞かされる。「英雄たちの夢」そのものの夢。彼らバレルガ博士の仲間の行きつけの〈アルゴナウタス〉というカフェの名前もこれに因んでいる。

いよいよ第48章からは、〈アルメンノンヴィル〉(高級サロン)から森の湖での話。作者もいかにも重々しく、物語の筆の進み具合を遅くして、細心の注意を払って語る、とまで前置きしている。さてさて何が起きるのか。
まずは、主要人物ではない(だろう)二人の副人物から。仮面の女を見つけたガウナは、その横にまた金髪の男が現れたことに気づく。1927年のカーニバルでも、タボアダの死の場面でも出てきた金髪の男。ガウナより前から仮面の女(まあ、クララ)を知っていたこの男は、〈アルメンノンヴィル〉に着く直前にこんなことを言う。

 ぼくが興味をもっているのは、もっぱら自動車文学であって、科学に興味があるわけじゃない。最低の文学であることはまちがいないけどね
(p262)


突然、思いも寄らない人物から「文学」という言葉が出てくるので軽く驚く。ひょっとしたら、ここは作者が「ぼくが興味をもっているのは、もっぱら(幻想)文学であって、幻想(それ自体)に興味があるわけじゃない」と茶目っ気で語っているのかも。最低かどうかは別として、諸言であったように、前作で操り人形的な要素もあった人物描写に血を通わそうと、この時期のカサーレスは苦心していた。
(でも「自動車文学」ってのもある意味、この小説の一側面かも。ガウナはは自動車修理工場で働いているし、アルゼンチン国産車の話も出てくるし、「馬車」も含めれば結構本質かも)

続いて、二人目、これはガウナと仮面の女(クララ)と踊ったあと、音楽が転換し、別の仮面の男とクララが踊ることになる場面で、その男から。パリ、コンコルド広場でのこの男のたぶん夢、彼ひとりしかいないコンコルド広場で、たくさんのテーブルに料理や酒が振る舞われ響宴が行われている。ただし会食者は不在。これも何かの暗示、そしてこのチョイ役の男もまた作者(もちろんパリにも行っている)なのだろう。

 ガウナやバレルガ、バレルガの仲間たち、金髪男、仮面の男、誰もがみずからの意志を奪われていた。彼女を除いて、そのことに気づいているものは誰もいなかった。だからこそ彼女は、自分を含め、あらゆるものを外から眺めていたのである。しかし彼女は、これはまやかしにちがいないと内心つぶやいた。彼女は自分の外側に身を置いていたのではない。ほかの人たちと同じように、運命に支配されていたのだ。
(p268-269)


以前から「外から見る」「エゴイスト」とか言及のあったテーマに関わる重要な文章。まやかしだと彼女が思ったのは、「外から眺めているような自分の立場」だったのか。そう考えると、この小説の主要人物のうち「外から眺めていた」のはラルセンただひとりだったのではないか。

種明かしの章


えと、物語の種明かし(謎をたくさん残して終わるのかと思いきや、結構しっかりしたタネが明らかになる)の前に、もう少し細々としたことを。ガウナとバレルガ博士と仲間たちが店の外へ出るのを目撃したクララは、金髪男に彼らを車で追いかけて、と頼む。金髪男は帽子を忘れたから取りに行くと言うが、クララは急いでいるからと聞かずにすぐ車を出させる。ちょっとだけ帽子云々が気になったものの先に行こうとしたら、誰かが追いかけて発進しようとした車に彼の帽子を届けてくれた・・・ここまで、帽子に拘っているならば、これも何かの伏線・・・わからん・・・

ということでやっと種明かし。この日の前にクララの父タボアダの亡霊が来て「三日目の晩は繰り返される。エミリオから目を放すな」とお告げが来る。そこまでにいろいろエミリオ(ガウナの名前)の噂を聞いていたクララは、まずラルセンに頼む、が風邪?をひいていたこともあって(先述の通り)断る。そこで彼女は金髪男に依頼。そっちの方がガウナに見破られず都合がよかった。

ここからは1927年のカーニバル3日目。酔い潰れたガウナを助けようとクララは行動する。なぜかわからないが「このままにしていたら彼は殺されてしまう」と直感したらしい。そこで一緒に来ていた金髪男に頼み込んで、ガウナを森の湖の管理人サンティアゴと〈だんまり〉の小屋に匿ってもらうことにする(この小屋を思いついたのは金髪男)。というわけで、第5章、p42からの小屋の場面は(最初読んだ時に書いたように)1930年ではなく、1927年の描写だった。その直前の夢が1930年の現実になる。

ということをふまえて、1930年に戻る? 湖に着いてガウナたちを探すクララと金髪男。彼もだんだんなんか都合良いように使われているなと思ってクララに言うが、それに対してクララはたぶん一番正直に(でもちょっとの嘘はある(p276))語る。そして二人はサンティアゴの小屋に着き、4人で探すことになる。
一方、ガウナは。

 ガウナは、ついにおのれの運命を取り戻したことを、そして、おのれの運命がまさに実現されようとしていることを悟った、あるいは、ただそう感じた。そのこともまた彼を満足させた。
 人は誰でも、そのようにして初めて、おのれの死を思い出すことができる。
(p279)


「頂点」とは自分の死だったらしい。

その他いろいろなこと。


バレルガ博士がいまいち自分には不明点多し。というか、別室にガウナだけ連れてきて、昔の写真やらなんかのスコップやら見せたあの場面はなんだったのだろう。それにこんなにいろんな悪さをしているのならば、どうして捕まらないのだろうか(そんなにコネとか持っているようにも見えないけど)。確か、タボアダの部屋にもバレルガ博士の部屋にもあった「ウィーン風の椅子」ってのが重要(フロイト? ユング?)かな。

最後の最後、ガウナが死ぬ(バレルガによって殺される)寸前に「クララのことを思い出さなかった」と書いてある(それもわざわざ「たいていの男がそうである」とも書いてある)。そうなのか。そうかも。

それと関係あるのか、この作品は例の?作者ビオイ=カサーレスとオクタビオ・パス夫人エレナ・ガーロとの逢引き中(それも別にもう一人別の女とも交渉していたという、カサーレスの女たらしエピソード。でもパスもまた別の女とも付き合っていたというし)に書かれたという。

あとは、金髪男、結構いいやつ…説。運命に導かれる二人に振り回されながら、彼らのために動く。この作品の後日談として、クララと金髪男は結婚する、というのもありなのでは(元ネタのイアソンの話がどうなっているのかわからないけれど)。少なくとも、予想以上に彼も主要人物と言ってもいいのかも。

そして、(疲れたので解説のもろもろ「メモリアス」にも載っている母親の部屋の鏡のこととか、前の日買った犬が翌日にはいなくなった(母親が処分してしまった)とかは抜きにして)、最後に大胆?な自分の仮説を。この小説の最後は、

 死体は〈だんまり〉によって発見された。
(p279)


となっている。
うーんと飛んだ解釈なのだが、この小説の現実はこの一文だけだった、というのはどうだろう。つまりは全て〈だんまり〉の想像(あるいはアリバイ)だった、とか。
そもそも〈だんまり〉とはなんだろう。それは何か強迫観念に付き纏われているとかではないのか。そこで思い出すのはやはりウィーン風の椅子・・・
まあ、「これがこの小説の隠された意味だ」とも言わないけれど、こういう解釈というか遊びもできるなあ、ということで。
(2022 05/08)

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