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「決闘・妻」 アントン・チェーホフ

神西清 訳  岩波文庫  岩波書店

…まずは釈明。旧仮名遣いと旧漢字もろとも(例:ボオイ→ボーイ)などは自分でわかりやすいように直しています。本物の神西訳はぜひ文庫であたってください。ごめんなさい。

「決闘」

 「君は大きな子供だ、理論家だ、僕は若い老人だ、実際家だ。どうしたって合いっこはないさ。もうやめよう。おい、ムスターファ!」とライェフスキイは大声でボーイを読んで、「勘定。」
(p19)


「決闘」第1章のこのライェフスキイの言葉は、読者にとっては逆に見える。ライェフスキイが前者、サモイレンコ(軍医)が後者。こういうのは作者チェーホフの読者に対する揶揄というサービスだろう。
次はそのライェフスキイの人物評を、若い動物学者のコーレンが述べるところ。

 ところが、談ひとたび雌雄のことに及ぶと、例えば蜘蛛の雌は受胎を終ると雄を食ってしまうというような話が始まると、彼の眼はたちまち好奇心に燃えて来る。
 月と結婚するところとか、警察へ呼び出されて、ギターと同棲を命ぜられるところとか、そんな夢を見るんだ。
(p41)


これより前の若い時代の、チェーホフがユーモア短編を書いてたのを思い出す。チェーホフって普通のイメージよりは結構笑える作家なのでは?
…とにかく、このライェフスキイとコーレンという二人が、決闘騒ぎを起こす、というのがこの小説(チェーホフとしてはかなり長い文庫で200ページ)の内容。
(2021 04/17)

「アンナ・カレーニナ」を下敷に

 暗かった。甃石道にはところどころ、窓から射す蒼ざめた光の帯が落ちていて、それが彼女には自分が蠅のようにインキの中へ落ちたり、また這い上がって明るみに出たりするように思われた。
(p134)

 これは死に対する恐怖ではない。それは、明日の朝早く彼の生活に初めて起こるべき未知の何物かに対する恐怖、また近づきつつある夜に対する恐怖であった。
(p147)


ライェフスキイとコーレンの決闘話が持ち上がるところまで。下の文章はライェフスキイの決闘前夜の精神状態の一部。一方、上の文章はナジェージダ(ライェフスキイの同棲相手)。この主筋の裏で、警察署長?キリーリンと2晩だけ逢引する。その現場をライェフスキイに立ち合わせる男もいて…
列車に轢かれる人妻への言及が何箇所か見られ、「アンナ・カレーニナ」を下敷きにしていることを明確にしている。
(2021 04/19)

決闘の文学

 彼を十字架につけたのは強者じゃなくて実は弱者なんだよ。人類文化は生存競争や自然淘汰の勢を殺いだし、また現にそれを零に近づけようとしている。そこで弱者の急激な増加となり、彼等が強者を打倒することにもなるんだ。
(p154)


コーレンの言葉から。ライェフスキイとコーレンの意見対立…小説読んでる一読者としては、どっちかというとコーレンに傾いている。もちろんコーレンの社会ダーヴィニズムは危険であるけれど。
この文読むと、ニーチェそのものではないか、とも思う。チェーホフはダーウィンだけでなくニーチェも研究していたのだろう。あと…ヒトラーとパウンドとそれからコーレンの三人で居酒屋とか行ったら、誰が中心になるだろう、そして誰か一人はこういう仲間が嫌になって思想から降りそうな気もするけど、誰だろう。
チェーホフの前の作品に似たような対立構図のものがある、というから追い続けてきたテーマなのだろう。こういう対立から決闘という構図は「魔の山」に受け継がれる…決闘が時代遅れの手段というのが、十九世紀のこの時点でも明記されているのにかかわらず…パロディとしての構図なのだろうか。
(2021 04/20)

決闘とケルバライ


決闘ってどう進行するんだっけ…となんだかなしくずし的な始まり方に苦笑…

 「何をお怒りになります?」とケルバライは両手を腹に当てて言った、「あんたは坊様、私は回教徒、あんたは食べたいと仰言る、私は差し上げる。-お前の神はどうの、俺の神はどうのと喧しい事を言うのはお金持ちだけで、貧乏人には何も同じことでございますよ。どうぞあがりなさいまし」
(p189)


決闘がコーレンの弾丸がほんの少しだけライェフスキイの首筋にかすっただけで終わった後、輔祭がケルバライの茶屋に立ち寄る場面。ここは前にピクニックの場面でも出てきたとこ…うーん、貧乏人の方が異教徒とかに喧しいような気も正直するけど、まあここは丸く収まる話と、それからチェーホフを信じましょう…
最終章では、ライェフスキイは真面目にコツコツ働くようになり、船で旅立つコーレンを見送る。

 誰もまことの真実を知る者はない
 そして誰が知ろう、恐らく彼等はまことの真実に泳ぎつくかも知れないのだ…
(p199)


ということで、「決闘」を読み終わり。
(2021 04/21)

「妻」

上の階…夫、下の階…妻
前篇と同じく1891年作。農村を飢饉が襲い、夫はある程度の金額を寄付すればいいという考えだったところ、どうやら下の1階室で夫抜きで救援活動の委員会が開かれていた…という幕開け。

 いつか北海で暴風に逢ったとき、積荷も底荷もないその船が引っくり返りはしまいかと船中の皆が心配した、その時の気持によく似た気持であった。
(p225)

 私は妻の表情にも姿にも、何かしら精神病的な或いは修道院的なものがあるような気がし、古めかしい調度があり、籠のなかで眠っている小鳥がい、ゼラニウムの匂いがし、天井が低くて薄暗くて、そして熱いほど暖かな彼女の部屋部屋は私に、尼院長の居間か、さもなければ信心に凝った廊下将軍夫人の私室を思わせるのだった。
(p225-226)


夫からのイメージ投影は多少あるにしても、この「妻」の性格も伝わってくる。

 だから私は、彼女の唇がぴりぴり顫えていることにも、まるで罠にかかった小さな獣のように、怯えて途方に暮れたように四辺をきょろきょろ見ていることにも、何の意味を付すまいと努力しながら、先を急いだ。
(p244)


19世紀末はまだまだロシアでの女性の立場は弱かった。ここでの夫を差し置いて飢饉にあった農民の義援に乗り出す進歩的な女性であっても、こういう表情。とこの文章は夫側から見ている立場というのがポイント。夫が見たい妻のイメージが投影されているだけかも。
(2021 04/24)

チェーホフ、どこへ行く…


「妻」読み終わり。

 で私は、トロイカがもう平地に出て老いた樅林に入り、その見上げるような樅が四方八方から白い毛だらけの猿背を私めがけて伸ばしていると、ニカノールに叫びかける余裕がなかった。
(p262-263)

 私は思うのだった。ブトィガと私の間には何という怖ろしい差違があることだろうと。ブトィガは何よりもまず永持ちと堅実さとを心がけて物を作り、それを第一義とし、人間の永生に一種特別な意味を附し、死ということは考えず、恐らく死の可能などは碌に信じてもいなかったろう。ところが私は、自分で鉄橋や石の橋を架けたときにも、それが何千年と存続するであろうにも拘らず、『これは永遠のものじゃない。…こんなものは何の役にも立たない』という考えを離れられなかった。
(p265)


ブトィガとは家具とかの職人らしい。ここら辺、アレントの「人間の条件」の労働観を連想させる。

 あの人の所にはまだ時世の移り変わりが来ていないんですな。昔の召使の誰や彼やがああして余生を送っている、何処へ行こうにも身寄りのない孤児もいる、また座り込んでしまって梃子でも動かんという連中もあります。不思議な爺さんですよ。
(p276)


ソーポリ(医師)のイヴァン・イヴァーヌィチ評。「私」は一日このイヴァンの家でソーポリと過ごし、自身との差に考えさせられる。
ラストは「生まれ変わった」ように書いてあるが、さてその後どうなるのか、恐らくチェーホフ自身がよくわかっていなかっただろう。作者もいろいろ逡巡していたと解説にはあった。

考えてみれば、チェーホフが書いた1891年から神西氏が訳し出版された1936年の間より、1936年から現在(2021年)の方が2倍近くあるのだよね…
(2021 04/25)

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