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「アムラス」 トーマス・ベルンハルト

初見基・飯島雄太郎 訳  河出書房新社

「アムラス」と「行く」の中編2本立て。「凍」に次ぐ小説「アムラス」(舞台はインスブルク近郊アムラスという町)。ウィーンを舞台にした「行く」。前者は初見氏が、後者は飯島氏が翻訳。「アンチ郷土文学」の創始者?
(2020 06/06)

「アムラス」

 向かいの家並みのあいまからまだイン川を見やることができた、絶えず変化しながらもつねに同じである滔々たる水を… イン川、数世代のあいだわたしたちの名のもとで怖ろしくわかたれてきた血脈、秘密に充ち、慎みなく… 振り向いたわたしは、家族が不気味なまでに収縮しているのに愕然としていた。
(p18-19)


ヘラクレイトスの言葉の逆転。クンデラの「生は彼方に」の冒頭をも思い出させる。

 全世界を汚染する学者の濃厚な毒物を日々飲み下すよう国家から言いつけられ、それは粗野に振る舞う能力をまったく欠いたわたしたちの若い脳髄のなかのあらゆる繊細さを破壊し、
(p42)


ベルンハルトはオーストリア国家等に対して挑発的な批判を多くしていたことでも知られる。保守派からは「巣を汚す鳥」とも言われていた。それが顕著になるのは、この次の「行く」くらいかららしいが、ここでも批判が見られる。そうした批判の中で一番多かったのが、ここで書かれている教育制度についてだったという。

 そして、くり返しくり返し、田舎顔の背後で、女中顔の、痩せた若い顔の背後で…わたしがそぞろ歩きしているその背景…前景…わたしはそぞろ歩きをして、わたしがそぞろ歩きであると思い込ませ…わたしにはもはやそぞろ歩きをするだけの力がありませんでした。
(p66)
 …そして大地は断片で…発展全体が断片であるという…完全などではない…断片が成立した、成立しているという、道はなく、到着だけで…終わりには意識はなく…そしておまえのいないところには何もなく、したがって何もないという…
(p90)


と「アムラス」はこういう断片で構成されている。負債を負った両親の自殺、母と弟にある精神病、語り手と弟は塔に閉じこもって(たまに出る時もある)、語り手は自然科学(生物学)を、弟は音楽を追求していたのだが既に辞めているような(作者ベルンハルトは音楽の弟の方だったらしい)、80ページ台で訪れる弟の自死、今までずっと「わたしたち」だった彼は、おじ(塔に隔離し世間の嘲笑から守ってくれていた実業家)の製材所に行くことになる。そこで年長と年少の木樵が夜もそれ以外も会っていることを書く語り手は、塔にいた頃の弟との関係を照射しているのか。

とにかくずっとこんな死の断片が続くのだが、思索に開かれていて、そこまで重苦しさは感じられない…
(2020 06/07)

「行く」


ベルンハルト「アムラス」に併録の「行く」。夜に少しずつ読んでいるけど、なんか表題のような感じ。結構面白い発想もあるんだけど、どこ引っ張って来ても同じになるような、語り手が伝えるのが又聞きだから、なんか言ってることが真実味持たないんだよね。あとは「今日はここまで」という読書の切りがなかなかつけにくい作品。
(2020 06/11)

 だから、芸術とはまぎれもなく、我慢ならないものを我慢する、つまり、腹立たしいものをそういう腹立たしいものとしてではなく受け取る技術です。
(p127)
 いつか自分が抑えられなくなるんじゃないかと不安だったのでしょう、とエーラーは言う、と私は言うしかありません。
(p151)


カラーとエーラーと語り手、というこの中編の三人の人物。カラーはつい最近精神病院に入って、ここではウィーンと思しき街を散歩しながら、エーラーと語り手が対話する・・・と言っても、ほとんどエーラーがカラーのことについて語っているだけなのだが、だから語り手というのも微妙。
作中にも示されているように、カラー、エーラー、語り手(聞き手)の三者が立場を入れ替えしていても読者は気づかないのではないかと思われる。カラーとエーラーという名前がお互いを含むように。

で、p151の「私」って誰? エーラーが二重に言っているのか、語り手(聞き手)がどこかの誰かに報告しているのか、或いは作者自身がこの三人を頭の中でこねくり回しながら、時に苦笑しているのか。
(2020 06/12)

どこ行くの…


ベルンハルト「行く」を読み終え。

 私たち自身、思考とは不必要なものだとしばしば思いがちではあります。思考してもどうにもならないと思い知らされているからですが、その一方で私たちは不必要な思考抜きにはやっていけない、思考しなかったら何者でもないこともよく身に染みているのです。
(p172-173)


人間は考える動物…なのではない、考えないことができない動物なのだ。これはp231からまた絡んでくる。

 どんなズボンだって光にかざすとほつれが見つかるのですから、普通は一本たりとも光にかざしてはならないんです
(p198)


カラーが「発狂」したルステンシャッハーの服屋の場面から。光はデカルト的明晰な光か、それともそれ以上に眩しく直視できないなにものかか。ズボンを人間と置き換えると分かり易いかもしれない、ほつれのない、狂気の発芽のない人間などいない、と。

 こうだと思い込むとどんな状態にでもなってしまうのです。
(p202)


人間の自己実現効果…この小説では、カラーがホレンシュタイン(自殺した化学者)になり、エーラーがカラーになり、語り手(聞き手)がカラーになる…この「…は言う」の連鎖を導いているものでもある。

  つまり人間の頭のあらゆる可能性の間でたえまなく思考しながら、人間の頭脳のあらゆる可能性の間でたえまなく感じながら、人間の性格のあらゆる可能性の間であちらへそしてまたこちらへと引っ張られていました
(p209)


作品の序の言葉にも繋がる。思考と歩行の類似性はこのウィーン思考散歩小説?の基本テーマ。可能性は全てに開かれている。

 いつも思考するのが私たちの習慣だからでしかありません。
(p231)
 だから世界は悪臭に満ちています。誰もがいたるところで各々の頭をゴミバケツのように空っぽにするからです。こうした無限にも思われる思弁ゴミの悪臭のせいで、とエーラーは言う、世界は、そして私たちは、ある日突然間違いなく窒息死してしまうでしょう
(p231-232)


思弁ゴミは分別してこちらへ…窒息感ありながら、でもその底で生きているのをある時不意に感じる、という気がする、自分は。

 望むことはなんでもできる、しかし出て行くことはできないと、突然わかってくる、この出て行けない、もう何も変えられない、という問題が、一生一人の人間について回る
(p242)


作品タイトルの「行く」というのは、思考し過ぎで、思考から外れてしまう、というところにあるが、「行く」ことができない、先に進めない、そして逃れられない、ということを抱いて生きていくというのが、自分も含めた人間の在り方なのではないか。語り手(聞き手)たるベルンハルトもまたその一人。だから「…は言う」を繰り返し「行く」練習をする。

これが語られているクロスターノイブルク通りというのは、実在するようだが、修道院(クロスター)という単語が織り込まれており、カトリック、それと結びつくオーストリア国家批判もここで展開されている。あとエーラーは第二次世界大戦の時期はアメリカに亡命していたユダヤ人であるらしい。ここにもオーストリアへの批判の眼差しがある。

解説であったけど、一人称の「アムラス」より、私は聞き手に回って三人称に語らせる「行く」の方が印象は明るめ。地方と都市という空間の差異(作者の思い入れ)もあるだろうけど。
(2020 06/14)

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