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「ボマルツォ公の回想」 ムヒカ=ライネス(前)

土岐恒二・安藤哲行 訳  ラテンアメリカの文学  集英社

(あまりに長文なので、この本のみ?前後編分ける)

ムヒカ=ライネス情報。最近(でもない?)短編集「七悪魔の旅」も邦訳が出た。
あと、この「ボマルツォ公の回想」は土岐恒二と安藤哲行の共訳なのだけれど、第5章まで土岐恒二訳、第6章以後を安藤哲行訳となっている(もともとは土岐氏単独訳の予定だったらしいが、多忙のため安藤氏にお願いしたとある)。
自分の持っている本は、古本屋(在りし日のささま書店)で購入したものなのだが、訳者土岐恒二氏の謹呈栞が本に挟んである…相手は高橋康也氏…いろいろ感慨とか恥ずかしさとかあるのだけど、とりあえず字がきれい…

オルシーニ家の熊

 まるで物音をたててうっかり正体を現わすことを恐れる人のような、天鵞絨に包まれた、忍びやかな足音が聞こえたものであり、それが私の夜の歩行についてまわった。それは熊たち、オルシーニ家の守護獣の熊たちであり、そのざらざらした毛並は回廊の陰にひそんで見わけがつかなかった。
(p16)
 そしてまた、今日もなお発展をつづけてやまぬ世界で、共産国においてさえ、いまだにその影響力を失っていない、一種独特のスノビズムに根ざしているのだから。
(p17)


とりあえず年内はちびちび舐めながら進む。またじっくり読むべき作品でもあろう。上の文は、高貴な家系では大昔に遡り気高い獣が祖先であったという言い伝え、そしてそれをデザインに取り入れた紋章や旗、語り手のオルシーニ家の場合は熊、それがボマルツォの館で彼の後をつけて守っていたという。この長い小説の原型イメージにもなるかもしれないこの構図を覚えておこう。

下の文は内容そのものより「共産国」って何? これ16世紀の話…でも冒頭のホロスコープでは語り手は永遠に行き続ける星の相だとか。ということは、この作品は現代から見てボマルツォ公が回想していることになる、なんでも芸術作品は永遠の生命を持ち、そこにボマルツォ公が宿っている、という世界観で作品が成立しているらしい…

というわけで、
長い付き合いになりそう。ついてこられますか?
(2020 12/29)

木乃伊とダビデ像

 -愚にもつかぬ身体的な理由と同時に、もっと次元の高い、複雑な、手の届かぬ別の理由で違っている-と感じとっていたからであった。
(p29)


ここまでの筋の整理。
「私」こと語り手ピエル・オルシーニ(ミドルネームは略)は、傴僂(作品中の言葉です)で軍人の家系に生まれた精神的要素に傾いた人物。父(傭兵隊長)、兄(未来の後継)、弟(未来の教皇、枢機卿)といったいった実際的な多数派と異なる彼を助けるのが祖母。父の実際的メンバーから見たピエル(もちろんピエル自身が語っているのだが)というのはこう見えていたという。
この後、ロートレック子爵っていうのが、父の軍人仲間だということで出てくるのだが、500年後の「私」が言うには、このロートレックの子孫が、「私」と同じように奇形児として生まれた画家のロートレックだという。この辺事実かどうかはわからないけど、軍人は忘れ去られるけど、芸術家は後世に伝えられるというテーマ(奇形とかがどういう影響を持つか、「私」また作者の考えはまだ保留されているけど)が、また現代の人物や事象が出てきたという点でも気になるところ。

 蝋燭はぱちぱちと音を立てて燃え、埋葬されない死者は-隠者か、敵の戦士か、監禁された愛人か、はたまた神を畏れずに復元され、バロック的な絡繰に変容された、人工の偽造物、発明された人間か、知る由もないが-干涸びた、照り輝く、紫色の片腕をついて横たわり、その宥められない、破壊的な、むかつく距離をへだてた彼方から、私のほうに顔を向けてじっと見詰めていた。
(p44)


ここは父の、ピエルに対する悪い思い出と良い思い出。まず悪い方。その前に兄と弟に女装を強要された姿を見かけた父は、彼に罰を与える。なんか屋敷に隠し部屋があって、そこに閉じ込められる。一人ではない、連れがいる、と言われた連れがそれ。怖いけど、死者の推測(-で囲まれた箇所)のうち後半は、後でピエルの生涯に関わってきそうな予感もする。

 いつもの癖で、父は話しこむうちに部屋じゅうぐるぐる歩きはじめ、私は-あのとき一回限りのことだったが-父が近づいてきても怖いと思わなかった。おそらく父はあの場の雰囲気にあの束の間の精神的な接近を認めたのであろう。それというのも父は私の前まで来ると立ち止まって、まるで心ここにあらずというか、自分が何をしているのか自分でもわかっていないかのように、一本の指で私の顔を撫でたのだから。でもそれは父と私の間にミケランジェロのダビデの思い出が立っていたからで、父はすぐまた軍人の歩調に戻ったのだった。
(p48)


続いて良い思い出。ミケランジェロのダビデ像をフィレンツェの街中を移動した時の父の思い出話。何かしら、父もピエルも感じ取ったのだろう。この話を一番わかるのはこいつだろうという感じで。
まだ第1章終わらない…
(2021 01/01)

いざ、フィレンツェへ

 チェルヴェテリは、エトルリアの十二人のルクモ(族長)のうちの一人の首都であったカエレの廃墟の上に建設された町であったから。私は-じつに不思議なことに、水脈探知者のように私がその地下の存在をいちはやく認めていたあのいまは消滅してしまった民族とともに、謎の託言を吸収する感知能力を、ある秘密によってわが血肉の中に共有していたこの私は-チェルヴェテリのつつましやかな街路を歩いたときに、深い峡谷に囲まれた、丘陵の末端が岬のように張り出して平地と交わるあたりに地上からは見えない幻想のネクロポリスの墓が密集している、古代都市カエレの聖なる神秘の生き残りによって、私の情緒が刺激され、いっそう鋭敏に研ぎ澄まされてゆくのをすでに感じ取っていたのであった。
(p67)


語り手の芸術的選好とはこのようなもの、前のミケランジェロとは異なるものであった。ちなみにチェルヴェテリもボマルツォ公の庭園も「地球の歩き方 ローマ」に出ている。とりあえず、エトルリアの遺物は思っていたより精緻で美しいものだった。

 そして、フィレンツェを目のあたりにしたときは、思わず両眼に涙が溢れ出て、フィレンツェを、それまでに私が知ることを得たどんなものとも違う土地、おそらく、いまは湖底や海底に埋れて横たわるあの朧な伝説の町の一つへと変容させてしまったのだった。それというのも灰色の雲がゆっくりとフィレンツェの上空を、その円屋根や鐘楼の上を、陽に映える王宮や柱廊玄関や、アルノーと覚しい光る川面の上を、さながら沈める都市の死に至る平安に灌ぐ私の涙の水の真珠光沢の中を遊泳する巨大な鯨の群れのように過ぎて行ったのだから。ただ辛うじて、遠近で鐘が相呼応して鳴り渡り、燕の広げた翼が、家々の壁の上に、ひるがえる旗のように飛び立つとき、私はフィレンツェが、民と熱情にみちて目覚めの伸びをしていることを、また、そこでは人生が武装を整えて私を待ち受けていることを確信したのだった。
(p79-80)


と、フィレンツェに「追放」された語り手(12歳だったらしい)とその一行(ラテン語教師、二人の従僕、一人は父の隠し子?の一人で、フィレンツェへの道中に宿に女を連れ込みやっているのを語り手に見つかり平手打ちを受ける、もう一人はスペインからの父に託された青年、祈りを欠かさない…が?)はフィレンツェへと向かう。というところで第1章が終わる。
(2021 01/02)

便利な左手


第2章開始。

フィレンツェではかのメディチ家に。といってもどっちかというとオルシーニ家の方が本来は格上らしい。が、新進気鋭のメディチ家に対し、武勇のみのオルシーニ家は押されているっぽい?

 水のように冷たい、気でも狂ったか、自分ではどうすることもできない左手、ベンヴェヌート・チェッリーニの金と鋼を組み合わせた指輪をはめ、あたかも私のものではないかのようにひとりでに動く手、あたかも五本の触手と、鋼と金でできた単眼をもつ動物、たいへん美しいけれども全然見たことのない、あるいは少なくとも私にとっては私の拘束からいつの間にか擦り抜けて自由の身となった、しかしあくまでも用心深く、欄干づたいに這って遠ざかろうとしている、飼い慣らせない小動物のような左手を。
(p99)


その左手がひとりでにアドリアーナの手を握った…んだって、勝手にして(笑)。というのはとにかく技巧を凝らした読みどころであることは間違いない。

 にもかかわらず、そのような成功でさえ、この教師の心の奥にその悲惨な子供時代に植えつけられ、あるいはおそらく誕生と同時にこの世に持ちこまれ、そこで成長を遂げた邪悪な植物を根絶やしするには至らなかった。
(p101)


フィレンツェでメディチ家の子と一緒に習う家庭教師の心の内。こうした子供時代の精神状況はいつまでも変容しながら持ち続けるというテーマは、語り手自身にも言及される。というかそれを引き出したかったかも知れない。

 もし私が、こんにち、ダンテやシェイクスピアやゴンゴラからプルーストやジョイスやヴァージニア・ウルフ(さらにまたあの洗練された嘆賞すべき『ロリータ』の作者)に至るきわめて多様な作家たちに魅惑されるとすれば、それは-彼らの本質的に深遠な資質がまずあっての上であることは言うまでもないが-一見まじめな段落の真中で、とつぜん当の作者たちをほくそ笑ませ、破顔一笑させる、おそるべきアイロニーの塩味のせいである。
(p110)


これが「いくつも小さな裂け目が日常につながっている」というフランドルの画家の絵にも言えるとも言う。絵の方はまだ保留しておくけど、作家とアイロニーに関しては全く同感。現代まで生きている語り手は現代作家も当然読んでいるのだが(もうこれくらいだったらいちいち驚かない…)、ナボコフだけ作品名で出てきているのは…『ロリータ』的な筋がこの後待っていることへの、作者の目配せか、それとも…
(2021 01/03)

攻撃性をもつ神秘的存在

今日は第2章の祖父来訪から、祖父とイッポリトの打ち合わせによる高級娼婦パンタジレーアへの訪問、その失敗、というところ。このパンタジレーアは第1章では、ベンヴェヌート・チェッリーニとの対話で出てきた人物だが、その話には続きがあって、ベンヴェヌートが女装させたブルチというその美少女にパンタジレーアが熱を上げ、その嫉妬でベンヴェヌートがブルチとパンタジレーアに傷を負わせたという(この時点では語り手はそのことを知らずに名前を出した)。

 私の記憶の中では、それら二つの事件は、正反対の性格のものであるにもかかわらず、分かちがたく結びついている。おそらくその理由は、いずれの場合も私の感情が、見たこともないものを前にした恐怖、攻撃性をもつ神秘的存在を前にした恐怖に由来する、同じような苦悩を経験したからであるが、その苦悩は、いずれの場合においても、人間の肉体が私と交感したという理不尽な不安、一方の場合には死の神秘的恐怖によって、他方の場合には生の秘密を前にした驚愕によって掻きたてられた不安につながるものであった。そういうわけで「生」と「死」という二体の寓意像のような存在、「裸女」と「骸骨」が、私の心の奥のもっとも重要な感情へと通ずる門を番しているのだ。それらの象徴を、ボマルツォの森においてどのように扱ったかは、いずれ後段で語ることになろう。
(p131-132)


以前、木乃伊の部屋に閉じ込められた時と、このパンタジレーアという高級娼婦の館に行った時、それが後半にどう反映しているのか、どう語られているのか。「生」と「死」の対比と類比というのはよくあるテーマだけど、双方とも「攻撃性をもつ神秘的存在」と書かれているのに目が向く。「死」の方はいいとしても「生」の方もそうなのか。彼にとっては。
(2021 01/04)

ボマルツォ公の庭園構想

アドリアーナは病気で亡くなり、どうやらアドリアーナの本当の相手だったベッポーを、ベルベル人奴隷であるアブールに(そう直接命令したわけではないが)殺させ、アブールも行方をくらます。その葬列が進む中、パンタジレーアではできなかったことを、アドリアーナの側近?ネンツィアが奪う。語り手の話し相手はもう一人のイグナシオしかなく、宗教心に芽生える。そんな夜のこと。

 夢の中で私は巨大な彫像をいくつも配した庭園にいた。それはボマルツォの庭園であった。私にはそれが何であるかまだ理解できなかったが、それこそが私の造営させた、奇怪な未来のボマルツォの庭園であったのだ。そうして、怪物や竜や巨人たちの、藪から姿を現わす彫像群に囲まれていると、私はある不思議な安堵をおぼえるのだった。私は魔法の森の中でのようにそれらの彫像の間に踏み迷い、そしてそれらの亡霊のような群れに恐怖をおぼえはしたものの、じつはそれらを愛していたのだ。私の石の記念像たちを愛していたのだ、なぜなら彼らに囲まれて、彼らの鉤爪に、彼らの牙に、彼らの巨大な皺だらけの骸骨に守られてこそ私には可能となったのだから-生きることが、永遠に生きつづけることが。
(p158)


ボマルツォ公の庭園の怪獣は、彼にとっては一つ一つが思い出であったのだろう。普通の人ならば、心の奥底か、あっても夢で浮上するのみであるものを。
この1年後、皇帝軍とそれに合わせた叛乱軍が、ローマをそしてフィレンツェを掠奪し、語り手はイグナシオらとともにボマルツォに戻る。逃げる彼のところへパンタジレーアは花を飛ばして送り、孔雀が鳴いた(語り手にとっては孔雀は凶事の象徴)。
第2章、読み終わり。
(2021 01/05)

兄の死と古代の網目

 そのとき私たちの誰にも説明することのできない不思議なことが起った。ジローラモの黒毛馬が、まるで何か言おうとしているかのように、まるで、アキレースのクサントスではないが、馬のくせに言葉を話す才能があり、私の身に差し迫った死の可能性を警告することができるかのように、私をじっと見つめたのだ。しかし、ことは私の死ではなかった。死はその場所に、人間が頻りに足を運ぶようになって以来、忍び寄っていたのであった。
(p175)


第3章始まり。またボマルツォに戻った語り手だが、その後戻ってきた兄ジローラモとその仲間にこれまで以上に侮辱される(父は戦場で不在)。そんなある日、川に泳ぎに行っていた語り手と祖母のところへ兄がやってきて、語り手のことはもとより、祖母の家系まで侮辱し始めた。というところの文章…馬がジローラモをふるい落とし、兄は岩に当たって川に落ちた。語り手がどうしようと祖母を見ると、祖母は共犯者のように何もしないことを要求する。ことが終わってから、人を呼んだ…
と、これまでずいぶん多くの人が死んでいる。それもどちらかというと語り手の有利なように。葬儀が終わり兄を埋葬しても父は帰ってこない。ボマルツォ公の後継者はこれで語り手になった。
(2021 01/06)

 あたかも純粋さとはその清らかさの中に映ったわが身の呪わしい強迫観念を二度と見ないですむように割ってしまわなければならない鏡であるかのように、私はやみくもに前進し、破壊しては廃墟の破片の間に自分自身から身を隠していたのだ。
(p193)
 -近隣に点在する古墳の蜘蛛の巣のように、エトルスク人、ローマ人、そして蛮族の糸で幾世紀もの長い年月の間に緯をととのえられ、ずっと近年のオルシーニ一族の金糸をも織りこまれた、悪徳の匂いのする、太古以来のあの雰囲気、暗闇の中で不意にきらりと光る糸で織りなされ、城と古墳、テーヴェレ川と岩山との間に張り渡された、その永遠の構図によってこの地の息の根を止めている網の目を。
(p195)


イグナシオと別れ(後年再会するらしい)、代わりに?シルヴィオというなんだか呪術師のような少年を得る。祖母は(彼女から見ると孫の)ジローラモを暗黙に殺したという意識が老いを助長する。語り手はついに祖母の手を離れて、シルヴィオとともに、父のように夜の狩から、一般家庭の双子の少女と少年を地下墳墓に連れて行き悪徳に励むとか、ジローラモの死を超えてひとかわむけたような趣き。p195の文は、そうした悪徳の系譜というか環境というか。
(2021 01/07)

父の顔

 礼拝堂で父の目茶目茶にされた顔の上にかがみこんだとき、私はその顔立ちが私の記憶から拭い消されてしまっていることに気付いて絶望的な気持になった。そこ、ここの個別的な特徴や、目の色、肌、ある不随意的痙攣、ある表情などを思い出すことはできたが、どうしてもそれらをいっしょにして失われた顔全体を復元することができないのだった。ときとして一瞬の間にその顔が浮かぶことがあっても、それを再び摑み取ったと思ったとたん、まるでその束の間の素描が拭い消されたかのようにもう一度消えてしまうのである。
(p201)


シルヴィオとの悪魔的儀式のあと、父が戦死者として帰ってくる(なんだかんだ言って、この語り手も「邪魔者」を次々といろいろな手尽くして殺しているだけではないか、という少々意地の悪い見方も。その見方を一番しているのは、たぶん語り手自身)。父の顔を思い出せない、というのは、心理学の用語で何かありそうな、症例ではなかろうか。
と言って、自分も父の顔を思い出そうとしてみたら…
(不完全かもしれないけれど、まあ可能かな)
(2021 01/08)

 自分でも気がつかないうちにいつの間にかあの目に見えない骸骨は、私が棄て去った良心のようなものに変容してしまっていた。ただそれを思い出すだけで屈辱的な思いを噛みしめさせるに足る、奥深くひそんだ恐ろしい骸骨は、じっとこちらを窺っていたのだ。
(p210)


第1章の父に骸骨(木乃伊)の部屋に閉じ込められたことに対する、語り手の心情。語り手は決して小心なだけの大人しい男ではない。父以上に何かについての野望を持っているのだ。
その骸骨の部屋を見つける為、シルヴィオと探しているうちに、別の抜け穴を発見する。「いつかきっとあれを使わねばならない日がくるでしょう」などと予言的な(読者は最後まで覚えておけ的な)ことを言うが、語り手はこの抜け穴の中で見つけた父の筆跡の文書が気になる。その文書は(父の隠し子一覧や、父が結婚した時に妻側が用意できなかった持参金のことなどとともに)自分の跡取りは長兄ジローラモに万一のことがあったら、語り手ピエルではなく弟のマエルバーレにしたいということが書いてあった。それらの文書を、語り手は例の自分のホロスコープを残して、後は焼却してしまう。
その夜、祖母に抱かれて語り手は夢を見る。

 廊下の突当りには例の骸骨が私を待ち受けていて、私は、何の恐怖感もなく彼の傍に横になったが、やがて徐々に私は、まるで骸骨に貪り食われるようにして消えて行き、二人で一体の憂わしい魂を構成するみたいに、私が彼に変容した。私の冠は枯れた花冠に為変った。骸骨の空ろな眼窩を通して私は、私に微笑みかけ、うやうやしく頭を垂れている。神々や武人や愛する者を打眺め、あたかも骨の格子を張りめぐらした舞台のバルコニーに姿を現わした、戴冠した主君のように、死の彼方から、彼らをじっと静観しているのだった。
(p214-215)


不死の運命とは、骸骨と入れ替わる、死の彼方から生を見る、ということになるのか。
これで第3章終了。
(2021 01/10)

イタリアの蟻塚


第4章開始。

 イタリアの蟻塚という蟻塚で、あらゆる方向へ、蟻たちが足繁く往来していた。蟻の行列と行列が行合えば、立ち止まって互いに挨拶をかわし、ひとしきり談笑し終わると、やがてまた色とりどりの明荷を運んで旅を続ける。神の目には-そしていまや高き誇りをも平準化する遠さから、その精励ぶりを見守る私にとっても-軍旗はひらひらする繊維のように見え、武具に身を固めた貴族たちは、冬の陽を浴びて煌く昆虫のようであった。彼らは蟻さながらに、丘を上り下りし、山峡の道に分け入り、森を横切り、浅瀬を選んで川を渡った。あれは一枚の小さな木の葉か、それとも天蓋か? それからあちらに見えるのは、塔の林立する都市か、それとも草叢に落ちた一個の石か? 彼らはきらきら光るものを運んで行ったり来たりしているが、それをただ命令に、習慣に、虚栄心に、従って、何の喜びもなく行っているだけであることは見て取ることができた。そうした蟻塚のひとつがボローニャと呼ばれ、そこに皇帝と呼ばれる特別の蟻がいた。彼の限りない臣下は次々と交代して参勤し、彼らの行列は細い繊維のような幟や旗をひるがえしながらひっきりなしに行合うのだった。
(p217)


今までとは違った、ちょっと俯瞰的な文章。勝手な想像ではあるけれど、この部分、ひょっとしたら、ムヒカ=ライネスがこの作品書き出した一番最初のところなのかも。
400年以上昔のイタリアを回想する、アルゼンチンの語り手(作者ムヒカ=ライネス)にとっては、まさに蟻塚なのだろう。そして現代もまた蟻塚…
1530年、2月下旬のボローニャにおける教皇から神聖ローマ帝国皇帝戴冠、そこに立ち合う語り手オルシーニ家一行、元はジローラモの配下であった従兄弟たちも連れ、メディチ家のもとを訪れるとイッポリトよりはアレッサンドロの方が権勢を持ち、語り手はボローニャの喧騒の中、アブールを見たような気がするのだが(果たしてこの振りはどうなるのか、自分が覚えていられるかどうかも含めて)。
といったところ。
(2021 01/11)

 人間の馬鹿げた行為、グロテスクなへまの思い出は、成功の思い出よりも強いものなのである。
(p243)


この章は「ジュリア・ファルネーゼ」という。ボローニャで見かけた美女、語り手も弟も虜となったそのジュリアに、シルヴィオと弟の娼館通いの後で寄って会ったのに語り手が腹をたて、ジュリアのために弟が持ってきた飲み物を押して彼女の衣装にこぼしてしまい、語り手が弟をなじる。という「全く何やってるんだ」的な回想。画家ティツィアーノもちょこっと顔を出す。
次はちょっとよくわからない挿入文。

 まるで私はブルジョワの普通の部屋にいるのではなく、説明のできない、物言わぬ機械が私にかわって-あるいは私に逆らって-執拗に圧力をかけながら動いている工場にでもいるかのようであった。
(p246)


なんだ?回想している語り手はいったいどこにいるのか? 現代でなんか書いてるのは確かだろうけど、ブルジョワの部屋なのか、ひょっとして工場? そっちの方が展開としては面白くなるのかも(たぶんないと思うけど)。
今日読んだ最後のところ(p248)は、また父の顔が一瞬垣間見えたがすぐに消えたとある。これもこの後、何回も変奏されながら出てくる情景になるのかな。
(2021 01/14)

アメリカと皇帝


第4章後半。ここでは、ムヒカ=ライネスのアルゼンチンからの視線が感じられる箇所が散見される。ボローニャにおける教皇によるカール皇帝の戴冠式、そしてカール皇帝から語り手ボマルツォ公の騎士叙任式。

 皇帝の青白い顔は、ヨーロッパが青白く生気を失って行くことを人に感じさせる態のものであり、あたかも遠いアメリカの上に、その山並、その森林、その平原、その河川の上に、青白さが一面に広がって、やがてその灰色の雨を黄金の神々が驚いて見つめているかのようであった。
(p251)


パンタジレーアに再会、「復讐」する場面の始まりは、第2章最後のフィレンツェからの逃亡の映像を逆回転させているみたいだ…というが、そうさせているのは疑いもなく作者ムヒカ=ライネス。

 なにかの奇跡によって時の絡繰が逆転してしまい、過去の像をもう一度反復しているのではないかという思いがふと浮かんだ。
(p254)
 「ドン・ペドロ・デ・メンドーサ、インファンタード家の者です」
後年、私は彼がアメリカの南端近くに、ブエノスアイレスという都市を建設し、また彼が海上で死亡したことを知った。
(p265)


ひょっとしたら、ムヒカ=ライネスは、この会話を書きたいがためにこの700ページほどの大作を書いたのかもしれない、と夢想してみる。メンドーサってアルゼンチンにそういう名前の都市あったような。
次はカール皇帝とボマルツォ公。剣をボマルツォ公に軽く当てるのだが、剣の柄頭が壊れ、真珠が幾つか落ちた。周りがなんとかしている間、語り手はふと皇帝と目が合う、とそこにはもう一人の語り手(語りたいと願う孤独な存在)が。

 事態のばからしさに、皇帝もあのときは悩んでいたのだ。彼もおどおどしていて、その弱さを私は皇帝という権威の鎧の下に感じ取ることができた。そして、暫くの間彼を悲愴なまでに人間的な存在たらしめたその偶然の一致が、私たちの間に、たとえ私たち二人を分け隔てる距離は大きかったにせよ、私たちが不安げな目で見つめ合った時間だけは持続した、はかなくも深い意志の疎通を促したのであった。
(p266)


この本のオビの宣伝文句には「官能的な美の世界を描き、人間の孤独を鋭くえぐる」とあるけど、それが今までで一番当てはまる場面。
(2021 01/16)

父と子の間にある捻れ空間


第5章「猫の公爵」。
ロレンツォ・ロットの手になる父の肖像画を見るために、語り手はレカナティという町の聖ドミニコ教会を訪れる。父の肖像画は聖シジズモンドとして描かれている。意外にこの作品、数々の「名場面」があって読みやすいのだが、ここもそんな「名場面」の一つ。語り手が見ているのは父の肖像画のはずなのだが…

 彼の全身から尊大な態度、不機嫌、それに名うての傭兵隊長としてあれほど強健だった人にはありそうもないある種の弱々しい癖がにじみ出ていたが、それは飾りふさのように下がっているあの無用の右手に具象化されていて、その手が剣を握り、城砦攻略の折には城壁の岩を摑んだとは誰にも想像できなかった。
(p272)
 もし父が私が思っていたよりもっと、もっと私に近かったのであって、私の影に、また人生についてのもろもろの迷いに対する私の苦痛な判断留保にも、ずっと近かったのかもしれないとしたら。
(p274)


肖像画に描かれている父の右手は、第1章でフィレンツェのダヴィデ像の話をして語り手を撫でたあの手であろう。また、ボマルツォの地下通路?で見つけた語り手を廃嫡すべしという父の書面は、実は父自身の、そこにある何かを責めるためであったことに気づく。
子は父には似ていないと思うものだが、全くそうではない、それとは裏返しの父からの視線を見つけるのは、大抵取り返しがつかなくなってからのこと。
(2021 01/18)

アンコナの居酒屋にて

 学生たちは居酒屋に侵入して、写本や瓶や軟膏で膨れあがったナップサックを、テーブルいっぱいに置いた。市場で秘薬を呼び売りする治療屋、錬金秘薬の調剤人、歯抜き、乞食など、彼らと一緒に回っていた。ある者たちは神秘の学識をもった旅の師たちに付き添っていた。彼らはその道すがら歌をうたい、ホロスコープで占って、人畜の痛む傷の診断を下し、恋の秘薬を提供し、悪魔を呼び出し、盗みをはたらくのだった。
(p298)


新倉氏の「ヨーロッパ中世人の世界」で出ていた中世の学生の話。そこからは時代は下って16世紀ルネサンスの頃なのだけれど、このアンコナの居酒屋の場面は、中世盛期から直結しているその場面の末裔。とにかくここで語り手はパラケルススのことを聞き、ヴェネツィアで彼を探すことにする。
というところで、第5章終了。土岐恒二訳分は読み終わった。
(2021 01/19)
(後編に続く…)

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