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「イブン=ハルドゥーン」 森本公誠

講談社学術文庫

イブン=ハルドゥン

イブン=ハルドゥンは14世紀前半に北アフリカで生まれた歴史家、政治家ほかいろいろ・・・自分で政治を行い、またそのせいか牢獄にも入れられ、と、その一方で、様々な問題を考え抜いた学者でもある人。キーワードは「連帯意識」(アサビーヤ)と、歴史は常に動くという考え。田舎から都会へ、王朝の誕生から滅亡へなどなど。

 内面的には、歴史は思索であり、真理の探究であり、存在物そのものやその起源の詳細な説明であり、また諸事件の様態とその原因に関する深い知識である
(p35)


ヨーロッパで近代の歴史学が生まれるずっと前、このような歴史学的、社会学的考察がされているとは驚き。でも、この人、日本ではあんまり知られていないんだよなあ。岩波文庫で「歴史序説」出ている。
(2011 06/13)

イブン=ハルドゥーンの連帯意識と家系


昨夜から森本公誠氏の「イブン=ハルドゥーン」読んでいる。森本氏は奈良東大寺住職ほか…でもある人みたい。現代の正倉院みたいな人物だな。

さて、イブン=ハルドゥーンの主著たる「歴史序説」(岩波文庫から4巻本で出てた)には、人々には様々な階層の連帯意識があってその調停役として王権がある、と書いてあるという。
王権及び歴史・社会は(イブン=ハルドゥーンの前の歴史書にあったように)不動のものではなく、5段階の発展・衰退がある。彼がイスラーム社会だけでなく西洋からも、「社会学の創始者」と言われている由縁だろう。自分的にはこの連帯意識なるものが、ムハンマドによって「旧来の部族主義のものでムスリム共同体を阻害する」と批判されていたものであるというのが興味深い。それをイブン=ハルドゥーンは社会にはなくてはならぬものとしたわけだ。

さて、そんなイブン=ハルドゥーンはどのくらいの時期の人物か、というと、生年は1332年。鎌倉幕府滅亡前年。生まれは今のチュニジア。この家系、ウマイヤ朝の大征服の時代にイベリア半島に従軍したという由緒ある家系。いろいろセビージャで要職についていたが、ナスル朝成立期に陥落間近なセビージャからチュニジアに亡命してきた(ナスル朝と折り合いつかなかったらしい)。イブン=ハルドゥーンの祖父と父は政治とは距離を置き、宗教や学問に生涯を捧げたが、イブン=ハルドゥーン自身は政治に関心を持つ…とそんなところか。
(2016 02/04)

陰謀とナスル朝滞在


森本氏の「イブン=ハルドゥーン」は、概説、生涯、歴史序説抄の3つの部分からなる。今日はその生涯部分前半から。

青年時代モロッコから来ていた様々な知識人から家庭教育を受けていた彼は、ペスト流行後の混乱の中モロッコへ向かう。そこで様々な陰謀に巻き込まれるが、実は彼も結構陰謀家だったみたい。「歴史序説」では陰謀などで国が衰退期に向かうなど書いておきながら…まあ、手の内を知っているからの描写なんでしょう。
さて、そうするうちモロッコ(マリーン朝)に居づらくなり、スペインナスル朝に移住。カスティリアのペドロ王に平和使節として向かった(好意を持って迎えられ、先祖の地セビージャを与えようかという申し出もあったみたい)り、ムハンマド5世に帝王教育を与えようとして、宰相(この人もかなり有名な知識人)と仲悪くなったりして、チュニジアからの依頼に応じてナスル朝を離れる、というのが今日読んだところのクライマックス。
要するに、イブン=ハルドゥーンはちょっと性格的にせっかちな人なんだろうなあ(笑)
(2016 02/05)

言葉と意味の豪雨とティムールとの会合


「イブン=ハルドゥーン」第二部の伝記部分読み終わり。「歴史序説」書き始めたのは現アルジェリアのフレンダという町の近くの城塞。そこで政治的泥沼から離れた4年間、歴史的事件とその動因との関係について考える。そして

 私はこの隠棲のあいだに発見した独特の方法によって『歴史序説』を完成した。その間、言葉と意味の豪雨がはげしく脳裡に流れ込み、やがてそれは精髄となって固まり、成果として一つにまとまった。
(p141-142)


この間5カ月。しかも45歳(笑)。この後、彼はこの初稿に改訂を加え続ける。

彼の後半の人生は、チュニスからカイロに渡り、そこでマムルーク朝のスルタンのバルクークの庇護を得て、マーリク派の大法官となる。この当時一般的だった賄賂による腐敗した裁判に彼は憤り、公正な裁判を実行しようとした。そこで彼を好ましく思わない勢力が当然現れ、大法官になったりやめさせられたり計6回・・・
そんな中でも、前半のスペインナスル朝の時に匹敵するクライマックスはやはりティムールとのダマスカス包囲戦での会合だろう。ダマスカスに駆けつけたスルタン(バルクークは既に亡く、その次のスルタン)や主な部将がカイロのクーデターの報に急いで逃亡してしまい、残された人々の中にイブン=ハルドゥーンもいた。そうしてティムールと会うわけになるが、これはティムールの方から「イブン=ハルドゥーンは今どこにいるのだ?」と安否を訪ねてきたことから始まる。彼自身はティムールが自分のことを知っていることに驚いたらしいが、そこまで名声は及んでいた。和平派であったイブン=ハルドゥーンに対してダマスカスの守備隊は城門を開けなかったので、彼はロープで城壁を降りた。とそのすぐそばにティムールの使者がいたのだ。そうしてイブン=ハルドゥーンはティムールに謁見する。時にイブン=ハルドゥーン68歳、ティムール64歳。そうしてティムールの為にマグリブ諸国の案内の書(現存せず)を提出したり、騾馬を贈ったり(律儀にもティムールからのちにエジプトにその騾馬の代金が届く)、その代わりにダマスカスに留まっていた同僚の安全を保証してもらったり(この時一般のダマスカス市民はかなり弾圧されていた)した。
カイロに戻って6回目の大法官になって9日後、1406年3月17日73歳で激動の人生を終える。彼の葬儀は行列が長く続くものであった、が彼の墓は今は不明となっている。

 しかし、無知の牧場は人類には有害である。
(p204)


(2016 02/07)

四代目の悲劇


イブン=ハルドゥーン「歴史序説」抄訳。全てのものや社会現象には発展と衰退とが織り込まれている、という前提のもと、連帯意識を物差しとした社会や家系・王権の分析がされる。家系は四代で衰退するという話がある。勢力をもった家系も四代目ともなると、自分が何故尊敬されているかがわからない。尊敬されるのが当たり前だと思ってしまう。そこで傲慢になり他の家系に連帯意識と権力が移る、という図式。
四代目と言えば、「ブッテンブローク家の人々」を自分は思い出す。あれは傲慢というより精神薄弱なんだけど…
(2016 02/09)

イブン=ハルドゥーンは、連帯意識を何らかの物理量みたいに取り扱って社会変動を見ている感じがする。

 したがって、希望がある環境の支配を受けて無気力に変わり、連帯意識が敗北の衝撃を受けたあとでは、人々はみずからを守る力さえももたず、征服者の奴隷となり、野望ある者の餌食となる。 
(P280)


なんか現代日本をそのまま描写したような… 
300ページ越え。 

第二部で彼の半生見てきた身には、ここでの記述が彼の経験といろいろ重なっていることに気付く。やたらに強調される砂漠のアラブ人の粗野さは11世紀のファーティマ朝エジプトからのアラブ人来襲を、そしてp290のスペインのイスラーム教徒の記述はムハンマド5世を思い出していたのではなかろうか。
(2016 02/11)

連帯意識によるムハンマドとイブン=ハルドゥーンの違い


「歴史序説」抄訳第3章読み終え。領主や王権が直接商売すると増税とか圧制とかと同じく崩壊する、と書いてある。イブン=ハルドゥーンは社会主義経済の崩壊をも予知してた?
さて、もう一つ。キーワードである連帯意識(アザヒーヤ)の取り扱い。前にも書いたように、連帯意識はムハンマドは否定した。ムハンマドの場合、それまでのアラブ部族主義を越えて全体としての宗教を築こうとしたのだから、イブン=ハルドゥーンの視点とは実際的対客観的とで異なることは確か。でも、イスラーム始祖のムハンマドを否定するわけにはいかないイブン=ハルドゥーンはそこを慎重に論を進めている。

イブン=ハルドゥーンだったら、現在のグローバル社会をどう論じるのだろうか。
(2016 02/12)

世界史的叙述の初期の頃


「イブン=ハルドゥーン」の「歴史序説」抄訳第4章。どうも彼は連帯意識という概念について二つの意味で使っているみたい。一つは今までいろいろ出てきた社会や王権を築く上で必要な連帯意識。もう一つは前にムハンマドが敵対視したような部族主義的な連帯意識。どちらも根は同じなのだが、彼の論の導かれる結果は異なる。だからいきなり後者の意味で「連帯意識は(都市ではなく)田舎へ向かう」と言われるとびっくりしてしまう。

さて、第4章は都市の社会経済学みたいなところ。政治社会ほどには注目されてないかもしれない箇所だけど、彼の得意?分野は実はこちらなのかも。スペインのキリスト教徒に逐われたムスリムの食糧価格のところなどは、もちろん現実を歩いて見た成果であるけれども、リアリスティックな目がないとこうした記述は書けない。そして地域の人口の大小が文明の高低を決めるというところでは、モンゴル等によって開かれた世界史的な見方になっている。まだ地域間相互の動的関係は大きくは始まっていないけれど。
第4章最後の文化が文明の終末点である…というのは何か一波乱?ありそうなので、次にとっておきます(笑)。
(2016 02/13)

文化と所有と労働と


「歴史序説」抄訳第4章ラストから第5章始め。まず第4章最後の(前の日に予告した)文化について。

 文明発達の頂点は文化と奢たであり、頂点に達した文明は、生物の寿命と同じように、破滅へと向きを変えて老衰し始めるという点である。
(p385-386)


うむ。ここでの文化の定義は文化人類学などでの定義とは異なっていることは確かなのだけど、文化の多様性もその引き金になるとまでされると…この時代の文明はかなり厳しい環境にさらされていたのだな、と認識することしか今はできない。

さて第5章。ここは労働についての章。

 ある人が手にしたものは、代償を与えるのでなければ、他人がこれに手をつけることは許されない。
(p390)


これってロックの所有権の議論の先駆けか。強者に対する保護という観点も同じ。ロックの方も見直しておかねば…

 泉はこれを掘ってその水を引き出す、すなわち人間の労働力を加えてこそ、初めて湧き出すのである。
(p394)


鑿井をせず、導水されない泉は涸れてまったく地中に没する…中東らしい表現だけど、労働に対する評価の大きさはこの時代においては特筆ものなのかも…にしては、農業に対してはあまり技術なくても行えるとしているのはどうかなあ…
「イブン=ハルドゥーン」400ページ越え…
(2016 02/14)

哲学としての歴史


昨夜で「イブン=ハルドゥーン」読み終え。イスラーム社会では学問を真理的学問と伝統的学問とに分け、前者はギリシャ哲学的合理的、後者はイスラーム神学法学などになる。歴史学は伝統的学問とされていたが、p35の前に引用したところで、イブン=ハルドゥーンは歴史学の内面は前者として扱わなければならない、と主張している。

「歴史序説」や彼の業績は、昔考えられていたように、ただ一つ突然変異的に現れたのではなく、マムルーク朝やオスマン朝にも読まれた。ただ前に述べたような歴史を哲学的に見ることに対しては、充分に引き継がれなかった。後者では彼の王権衰退論が自らの退調と重ね合わされていたりしていた。
後に19世紀中頃からのイスラーム復興運動で、西洋世界で既に知られていたものが流入し、政治的に彼の思想を利用し始めるが、これも反論も大きかった。彼の思想が思想史としてアラブ世界で受け入れられたのは20世紀中頃以降。
(2016 02/15)

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