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「現代思想の源流 マルクス・ニーチェ・フロイト・フッサール」 今村仁司・三島憲一・鷲田清一・野家啓一

現代思想の冒険者たちSelect 講談社

読みかけの棚から
読みかけポイント:フロイトと、それからマルクスを少しだけ。フロイトの章は全部読んだのか…


意識という孤島

 不気味なものとは「実際にはなんら新しいものでもなく、また、見も知らないものでもなく、心的生活にとって昔から親しい何ものかであって、ただ抑圧の過程において疎遠にされたもの」
(p166)

<わたし>における意識と存在の根源的な不一致、あるいは裂け目に定位する。言いかえると、<わたし>の根底をではなしに、<わたし>の無底を問題にする。
(p167)


「現代思想の源流」の中のフロイトの紹介から。裂け目とか言うとマグマのような物体を想像してしまうが、ひょっとしたら意識の方が存在の無意識の冷たい或いは熱い海に浮かぶ孤島或いは群島だったりするのかも。
不気味なもの、夢で見るものの中にもそのようなものがある。例えば「見なかったことにしておこう(笑)」という表現があるが、実はしっかり見ているのだ、それは(笑)。それが突然見知らぬ隣人のように不意に現れてびっくりする。幾世代にもそれが重なり合い、積み重なって一人一人の無意識に沈殿する。なんて書けば格好いいが、やっかいなものを引き継いでいるわけだ。
(2010 02/03)

自己消失の恐怖と自己無化の誘惑


今日はあんまり何もしなかったし、読まなかったけど、「現代思想の源流」のフロイトの項の続きを読んだ。標題はその中の小見出しそのもの。
フロイト自身にはコギトが解体される場において、それを描写しつつ、描写しているのは理性なのだ、という二重性があったらしいのだが、ま、それは、開拓者にはよくありがちなことだとも思う。

標題に戻ると、この時代コギトなる「近代的人間」から社会の主役を奪いつつあり、現代では既に奪ってしまった「群衆」はまさにコギトが解体していく過程でおこった「現象」であった。そんな新しい面をカネッティやら松浦寿輝やらアンソールやデ・キリコの画像であるとか、はたまた土屋恵一郎の「連歌会に身分を隠して参加した人々」まで例に挙げている。祭りのただ中にいると、自分がどっかへ行ってしまうという恐れとともに、その躍動感の中に入り込んでしまえという欲動が出てきたり・・・この自分にとっては前者の方が大きくて、それはそれで一つの問題だ、とは思っているのだが・・・と、人間のそういう二重性。ここでは(単に表現が格好いいから?)松浦氏の次の言葉を挙げておく。

 主体の署名が刻印された内なる暗闇が蒸発し、どこもかしこも光り輝く表面からのみ成り立っている非人称的な<外>だけが屹立している場所
(p204)

松浦寿輝の「<無人>と<蝟集>と」にある言葉。自分はそちらは知らなかった。

マルクスによるエピクロス


その他に「現代思想の源流」では、マルクスの初期論文でエピクロスを論じている理由がおぼろげながらわかってきた。普遍的な世界創造神話(デモクリトス)ではなくて、偶然と出会いと衝突の哲学(エピクロス)、ね。デモクリトスがビックバン後の世界を物語っているのなら、そのビックバンの生成過程そのものを描き出さなければならない、そうでないと、ビックバン後の世界のシステムから永遠に出られなくなってしまう、と。ここで書いているキーワードは本の受け売りそのままだが(笑)、こういう理解の仕方はレッテル貼りになってしまいがちなので気をつけなければ・・・まあ、とっかかりとして許してください…
(2010 02/22)

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