見出し画像

「方法序説」 ルネ・デカルト

山田弘明 訳  ちくま学芸文庫  筑摩書房

考えるためには、存在し続けなければならない…


「方法序説」…は、言うまでもなく?コギトエルゴズム(我考える故に我在り)で有名なデカルトの声明文なのだが、かなり前に岩波文庫版で買ったものの、途中放棄していた(汗)。今回は解説が本文の倍以上と充実した、昨年出たばかりのちくま文庫版でリベンジ。
そして、読んでみれば本文そんなに長くなく、もう「我考える故に我あり」…の決まり文句?出てきた。その2ページ先にあったのが標題に掲げた内容。この作品、あんまり「ならない」口調はないだけに、この箇所は余計に迫ってくる。ほんとは存在したくない?のだけれど、考えるために(または思うために)存在しなくてはならない…って感じ。では、存在って何?
また44ページくらい(笑)には、信じるのと知るのとは全く違うのだ…みたいなことが書いてあり、認知科学的にもここは外せないところ。
あと、デカルトにとって旅とは?、また留まって思索するとは?など気になるところはたくさんあるが、今日のところはこの辺で…
(2011 10/14)

デカルトならほっといてやれよ…


デカルトの「方法序説」の本文を読み終えた。最後には「論争には加わりたくないし、栄誉もいらないので、そっとしておいて、研究と発見に集中したい」とあった。
言っていることと、やっていることがどれだけ離れているかにもよるけれど、デカルトの哲学思想を見ていると、やはり煩わしさを嫌って心の平穏を求めていた人だったのかなと思う。前にちらっと言及した旅も、この後スウェーデン行ったのもその為なのかなあ、と。
近代の創始者として、また元凶の創始者として、やたらに?デカルトを引き合いに出すことも多いと思うけれど…自分は「人間デカルト」に前から非常にひかれている…の割りにはあんまり読んでないけど…
(2011 10/17)

「方法序説」(解説1~3章まで)


普遍学(全ての学問の基礎となるもの…具体的には数学を想定)の扱いを巡っての第2章と第4章の差異とか、直観→理性と考える(感じる?)デカルトの思想とか、デカルトの死後改版(「方法序説」ではない)の仕事をした日系人とか…いろいろあるが、今回は懐疑の取り扱いについて。

この時代の少し前辺りから、懐疑主義というのがまた出てきていた。「また」というのは、ヘレニズム時代のフィロン?が提唱者の懐疑主義というのがあって、その復刻バージョン?になるから。フィロンのは、いろんなものを懐疑するだけでなく、懐疑自体も懐疑して結局「懐疑的停止」(? 今日は停止ばかり…)になる。これだと「よくわかんない」というのとあんまり変わらない??…
その近代版の始祖がモンテーニュ。それに相対するのが、懐疑を利用するけど懐疑してもしきれないコギトというものを武器とするデカルト…そういう図式。
しかし、「エセー」もまだ読んでいない(汗)…
(2011 10/18)

「方法序説」(解説4・5章)


神の存在証明。自分からすれば「コギトだけでいいじゃないか」という気もするが、デカルトにとっては(完全的)神なくしては(不完全な)コギトも存在しえない最重要案件。
不完全なコギトの中にも理性があるのは神の痕跡である…というのだけれど、この痕跡という概念は先輩?のトマス・アクィナスも使っていた。だけど使い方…というか、視線が違う。トマスの方は「神が創造した世界」に神の痕跡を見つけるというやり方。一方デカルトはコギトやコギトではない物質様々からその根源を求めるやり方。上から目線と、下から目線…鳥瞰するのと、見上げるのと…こういう見方というか世界認識の違いは、いつの時代にもあってどっちも大切だと思う(って、無難なまとめかた…)。
この時代はまだ?神の存在は自明のもの(無神論者は悪魔のようなものとされた)なので、デカルトは自分の自然観の生成論と、聖書の天地創造と(これも下からと上から…)を両立させようとして、自説を「寓話」などとも名付けているのだが…
(2011 10/19)

デカルトの気まぐれサラダ


タイトルはまたしても意味不明(笑)。デカルトは「毅然」という言葉が好みで、その反対が「気まぐれ」(「方法序説」の注より)…でも実際は気まぐれだったりして?

というわけで、「方法序説」は解説から注へ。
本題?はデカルト対モンテーニュその2。
人間・動物・機械。
デカルトにとっては後者2つは同じもの。人間だけが理性や精神を持つ。
一方モンテーニュは動物にもある程度の精神の働きを認める。
現代の動物行動学(比較行動学)的には、モンテーニュの立場が正しいとされるらしい。でもこの間の西垣氏の新書にあった、人工知能を作れるか否かという問題では、デカルトの視点も重要。チョムスキーの言う通り…
人間デカルトに興味ある自分としては、そこら辺にさまよっていた犬や猫などをどう見て、どう扱っていたのかな…なんて思ってしまう。
(2011 10/20)

最後に基礎知識


「方法序説」注も含めて読了した。とりあえず報告。
ますは年代。江戸時代初期。1637年。島原の乱とか起こっていた頃かな。
言語はフランス語。フランス人だから当たり前…ではない時代に敢えてフランス語で書いたのは、旧来の哲学から自由になりたかったから。だから、意外なことに「コギトエルゴスム」というラテン語の命題は、デカルト自身が書いたわけではなく、その翻訳。
最後に場所。まず、書いていた場所は、フランス人だから…ではなくだいたいはオランダのユトレヒト郊外で書かれた。そして、書かれている内容の場所は、第2・3部の炉部屋はドイツでの出来事。第4部のコギトエルゴスム発想はオランダ最北端のフラネケルという町…村?
おまけ。デカルトの産まれた村?は、今では「デカルト」という地名になっているそう。
(2011 10/23)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?