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「トランジット」 アブドゥラマン・アリ・ワベリ

林俊 訳 水声社 フィクションの楽しみ

ジブチ人の知識人層でフランスに来て現地の女性(ブルターニュの人)と結婚し、またジブチに戻った二人、そして男の父と、息子。
この四人に対し、バシール・ビン・ラディンと勝手に名乗る小学校を出たくらいの話っぷりで政府軍に動員され、和平後は解除されたものの給料が支給されない男の乱暴な言葉が対比される。
それぞれの語りの言葉の堆積と明滅を刻み付けていく。そういう小説。

 私は、始まりも終わりもない物語の海の中に浮かんでいたのだと思う。
(p36)


この小説の一つの祖型は「失われた時を求めて」らしい。

 人間の道程は地平線のような一本の線ではない。それは根と、枝と、樹液を含んでいる。再生であり、根茎であり、分岐なんだ。人間は一本の木なんだよ。
(p79)

 群衆、それはまた繰り返しだ。つねに繰り返すこと。抵抗と希望は生のいずれの瞬間にも存在する。古い叢林の唄を蘇らせることだ。眠れるエネルギーを再び集め、結びつけ、連ね、目覚めさせ、系統樹を揺り動かすために。
(p109)


プロローグでド・ゴール空港に着いたところから始まる作品は、エピローグでまたド・ゴール空港の直前の場面に戻ってくる。円環の構造。その理由は作品内に書かれている、とあったけれど、明確にそう示している箇所はなかった。この文章辺りがその理由付けのところか。

 「一冊の開かれた書物は一つの語る頭脳だ。閉じられると待ち続ける友になり、忘れられると許す情になり、破られると涙を流す心になる」
(p138 タゴールの詩?)


この作品、ジブチの内戦の話なんだけど、作品世界の射程は驚くほど広い。作者はインド仏教にも明るい人なのではないか…書物は読まれることは決して無いのか…

 我々は、蛇行を強いられる言葉の河の捕われ人だ
 我々は、つまりは他者の砂漠に打ち上げられた砂の粒であり、いつまでもそうなのだ。
 もし我々が現在の中にのみ生きるとすれば、我々は現在の中に埋められかねない。
(p179)


難民は言いたいことが山ほどあるのに、それらがわれもわれもと出ていこうとするため、言葉の「交通渋滞」を起こす、という。祖父は遊牧民の過去を伝えることができる(上のp79の文は祖父のもの)。しかし、過去から切り離されたその次の世代は現在しか生きる場所がない。そこで生きる為には…

 我々は廃墟の上にしか建設はできない。
(p186)


(2020 10/11)

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