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「ヴァレリー 芸術と身体の哲学」 伊藤亜紗

講談社学術文庫  講談社

フラヌール書店で購入。
(2023 04/29)



昨夜、序をちょっとだけ見てみる。
まず問いは「なぜヴァレリーは引用されるのか」(p14)と始まる。一例として、第一次世界大戦後のイギリスの雑誌に載ったテクスト「精神の危機」。そこにヴァレリーは「ヨーロッパはアジア大陸の小さな岬になる」と書いている。この表現がギリシャから始まった2009年の欧州危機の際によく引かれたという。

 それは、この隠喩と事実の重なりにおいて、わたしたちの頭のなかにあった隠喩が失効させられるからだ。
(p16)


言うまでもなく、アジア大陸の岬こそがヨーロッパであるという記述は、地理的に正しい。この追認が「ヨーロッパは大陸と認めてよいほど大きい存在だ」という人々の認識を炙り出す。

 そのときに味わうのは「私」が考えるのではなく、隠喩によって考えさせられてしまうような体験である。思考の結果が隠喩によって表現されるのではなく、隠喩が思考をかたちづくり、前にすすめていく。
(p17)


隠喩ではない認識など存在しないのだ。その隠喩の力において、ヴァレリーは群を抜いている…というのが冒頭の問いのとりあえずの答え…

今日読んだところでは、ヴァレリーのテクストは、句の表現という内在的な問いと、作品とは何かという存在論的問いの二者択一、その結果後者の問いがほとんどされていないという。

 ひとつのテクストを無数の興味深い細部の集まりとみなすのか、それともさまざまな力線が交差する社会のなかのひとつの点とみなすのか。
(p18)


著者は、後者の問いを通して、ヴァレリー自身が意図せざるものをも捉え、「貫入」していく様相を記述し、芸術哲学として論じていくという。
(2023 05/15)

昨日は序を最後まで。
既に長くなってきているので少しだけ。地中海のセートという町で生まれ、モンペリエで学ぶ。パリに出てきて部屋に飾った?のが、序の扉にある解剖図。
ヴァレリーの活動時期は15年くらいの休止期挟んで前期と後期に分かれる。この論の趣旨(内在的な問いより存在論的な問い)からすると、後期が問題になるのか。ヴァレリーは作品を「装置」と呼んだらしい。その装置で読み手が身体・認知をときほぐす(ジムの用具のように)イメージ。
あと、「カイエ」という思索ノートをずっと(261冊)書き続けていた。
(2023 05/17)

純粋詩

Ⅰ「作品」…第1章「装置としての作品」

1920年、ヴァレリーは「純粋詩」を提唱する。これがヴァレリーについて引かれることがもっとも多いものなのだが、実際にはヴァレリーはそこまで多くこの概念について語ってはいないらしい(例えばシュルレアリスムとかダダとか未来派とかのように、◯◯運動のような形を取らない)。大雑把に言って、「純粋詩」とは散文要素を取り除いたものらしいが、「純粋」という言葉は「何から純粋」なのかという排除要素を規定して初めて成り立つ。

 外部を否定するという極めて攻撃的な態度をとりながら、しかしこの攻撃を通じてしか自己を規定することのできないもの。この戦略が循環であるのは明白である。
(p34)

 可能なのはただ排除すべきものをひとつひとつ取り除いていく地道な蒸留の作業である。「純粋」とは、この蒸留作業の積み重ねによって対象を一側面ずつ明らかにしていく、この探究の方法の名なのだ。「純粋」の語によって語られる対象はつねに、これなのだと決定的に指し示される手前の、いわば指し示しの途上にある。
(p35)


この「純粋詩」とは探究の方法である、というテーゼに加え、これは政治的な運動の意図を持たないこと、「純粋」とは言いつつ音楽や建築など他ジャンル横断の視点を持つことが加わる。
ここまで昨日分。
(2023 05/18)

芸術の中の非-芸術の混入


読みかけになっていたこの本に戻る。

〈公爵夫人は五時に出かけた〉

…いきなりこれかい(これヴァレリーなのよね)
もちろん、ドノソ「別荘」のように、変な劇が始まるわけではなくて(笑)、純粋詩のための「描写」要素の排除。これはシュルレアリスムのアンドレ・ブルトンとも共鳴して、「シュルレアリスム宣言」にもヴァレリーのこの言葉が引用されたりもしている。が、目指す方向は180度違ったといってもいいのでは。写真の見方にもそれは現れている(ブルトンは全く現実そのものを取り込むとして写真を評価(クローズアップなど異化作用を利用したりもしているが)、ヴァレリーは写真は新たな「レアリスム」として弾劾。写真もただ現実を切り取るだけでなく撮影者の意識が相当混入していることをみればヴァレリーの方が合っているとも思える)。

 ソシュールの範例概念に相当するような代用可能な語群のなかから、作者は恣意的に一語を選んでいるにすぎない、と言うのである。
(p44)


…こうしてできたのが「別荘」(くどいね)…
それはともかく、描写にはこうして様々なヴァリアントが生まれうる、ということ。では「純粋詩」は一語も変更不可能であるべき形態…なのだろうか。

 重要なのは、ランシエールが指摘するように、こうした動きが、芸術内部の探究の深まりの結果生じたものであるというより、ある「危機」を背景に持つということである。その「危機」とは、社会的・商業的なイメージの増大に芸術が抵抗できなくなり、イメージを介して芸術の中に非-芸術が混入しつつある、という一九〇〇年前後の芸術をおそった危機である。
(p46)


カンディンスキーらの抽象絵画もそうした「危機」への対応だったという。
(著者の参照しているのは、ジャック・ランシエール「イメージの運命」堀潤之訳 平凡社)
(2023 06/01)

 根本的に必要なのは、「誠実さ」と「気取り」のジレンマをめぐって意識レベルの格闘を行うことではなく、伝達の構図に代わる新しい作者と読者の関係を創造することではないだろうか。
(p60-61)


「誠実」に自己を告白することと、それを「演出」する「気取り」。ヴァレリーは軸足をそこに置くのではなく、誰かが誰かに何かを伝えるという散文的構図を変えようとしているらしい。
(2023 06/04)

装置としての詩


第1章「装置としての作品」の残り(昨夜読んだ分)。「作品」が作者の思想や意図といったものを「伝達」するものでないとすれば、それは何か。

 ヴァレリーにとって作品とは、〈生産者〉と〈消費者〉を結びつけつつ、しかし両者のあいだに割り込んでそれぞれを別のシステムとして成立させる媒介=切断項なのである。消費者は、作者の代弁者としての作品の内容を受動的に受け取るのではもはやなく、作者から切り離されたところで作品に向き合い、積極的にそれを消費する。
(p64)


作品が切断項である、というのはわかる。バルトらのテクスト論、エーコらの読みの多様性にも直結する理論である。ただ伊藤氏によれば、そういったものは「副産物」なのだという。
一方、生産者と消費者を違うシステムとして分離する理由は今ひとつわからない。そんな区分はやめて、生産者=消費者の反転するノード(結節点)を行き交うテクストというイメージ…の方が消費者の積極性も出ていいのでは?とも思う。

 あらためて強調しておけば、本論にとってとりわけ重要なのは、「再現の対象としての現実」から「私たち自身という現実」への転向が、身体の発見に通じるということである。
(p72)


この後、ヴァレリーは小説の読者と詩の読者を比較しつつ、身体への働きかけを見ている。小説を読む時には「没我の状態」自分の身体は忘れて世界に入り込む。一方、詩では作者が仕組んだ言葉の音の作用に読者の身体の一つ一つが対応していく。詩作品というのは、そのように作り込まれた「装置」なのだという。確かにこのような考えだと、生産者と消費者は全く違うシステムというのも肯けるような。
それが説得力あるかどうかはこの後の「装置」と「身体」論にかかっている。
(2023 06/06)

動詞中心主義と話し手参照機能

第2章「装置を作る」
詩の三つのレベル
「単語」…ヴァレリーは明示的に語っていない
「修辞」…単語の配列。韻も。ヴァレリーが明示的に語る。
「語りのモード」…ヴァレリーは「一人称による独白」を好む。ヴァレリーはこのレベルについて半分のみ明示的に語る。あと半分は名前の付け方とか代名詞の使用法などでこの本で明示されるところ。
この本の解説の順番は「語りのモード」、「単語」、「修辞」。
「語りのモード」…ヴァレリーはラシーヌに学ぶ。ラシーヌにおいては、登場人物がその個性を見せるのではなく、発言によってチェスの駒の配置が変わるように関係が変化する。また人物の個性が描かれないということは、その人物の身体も書かれないということを意味する。

 十七世紀には、身体は著作から消える。あの人々は食べもしなければ、性交しも、見もしない。[そうしたことが]できないことは三単一のごとく規則である
(p89)


(2023 06/07)

 ただし、動詞が意味形成の中心になるといっても、それは動詞が他の語を支配し律する力をもつということを意味するわけではない。むしろ、動詞はそのうちにある欠如を抱えているからこそ、必要なものを要求するのだとヴァレリーは考える。
(p105-106)

 ヴァレリーによれば、この動詞の持つ欠落と要求こそ、文字の存在が話し手と受け手の関わりを間接的なものにしたあとにも、両者を模倣関係によって媒介する、身振り的要素なのである。
(p111)


文の中で中心にあるのは動詞である、という動詞中心主義と、「わたし」という代名詞は「話し手」を指し示す、「きみ」という代名詞は「受け手」を指し示すという「話し手参照機能」が結びついて、ヴァレリーの独自の領域が生まれるのだという。
次はこの箇所の注から。ジェラール・ジュネットの指摘を受けて。

 「私たちはまたこっそりと、ある形式の(音楽的な)内的必然性から、その意味産出機能の必然性に移行するだろう」。詩を装置としてとらえる本論の立場は、この「錯覚」をむしろヴァレリーの芸術哲学の特徴として取り出そうとする試みである。
(p273)


(2023 06/08)

空虚な反射板としての自我

 散文的な言語使用においては決して語に「加重」してはならないのであり、「私たちは、語を通過する私たちの速度のおかげによってのみ、他者を理解し、自分たちを理解する」のだ。
(p114)


加重とか通過とか気になる表現はいくつかあるが、これを反対にしたのが詩的言語使用なのだろう。語に「加重」し、語の順番を精査し配列し、そして一語一語身振りを伴い対応する身体を起動する…みたいな。

 こうした手探りの感覚は、注意のさまよう領域の空間的な「近さ」を表し、この近さが読者に自身の身体を意識させる効果を持っていると考えられはしまいか。
(p119)


「手探りの感覚」とは、p101-102で示された「若きパルク」冒頭での指示代名詞の多用などによって起こる感覚。そしてこの空間的な「近さ」の感覚も、ある一定以上の距離が必要な視覚的(散文的)描写とはまた異質な「近さ」である。というか、先の詩を読んでいる時の自分の感覚は「近さ」というより「距離感の喪失」だったが…
(それはその前に「パルク」という名が、神の名前を借りた抽象的な名前という記述を読んでしまったからかもしれないが)
(2023 06/10)

 わたしは「形式主義」である。つまり-思うにそれはゲームに関わる。重要なもの-現実的なものすなわちカードの可動性や配置に関わるのであって-しかじかの配置の《意味》にではない。
(p134)


ヴァレリー自身の言葉。ここで。ヴァレリーの「装置」としての詩は、ある場所に置く語を、そこに置けるいくつかの条件を満たすものを選び抜いて、そして配置を考えるというもの。少なくとも、シュルレアリスムの自動記述とは真反対な考え。そしてこの事態をヴァレリーは「自分の言いたいことが言えない」と表現しているのだ。

 自我をそこから表現が取り出されるような「源泉」とみなして探究するのではなく、さまざまな問いに対してひたすら応答を返す、空虚な反射板のようなものとして用いたのである。
(p141)


この喩えも、何か身体的活動・反応を読み取れる感覚はある。応答は、届いた順番を一語も変えずに機械的に返すもの。
とりあえずこれで第一部の「作品」を読み終えた。
(2023 06/12)

予期し続ける身体

第二部「時間」
…は、第一部「作品」と第三部「身体」の橋渡し。
最初に、ヴァレリーは時間を空間概念を通して理解する傾向を批判する…これはベルクソンの立場と同じ? ヴァレリーが強調するのは、時間は比較不可能なこと。

 ヴァレリーは、この比較不可能であるという性質を、むしろ積極的に時間の本質としてとらえる。つまり、一方が他方によって表現されることのない無縁な二つの瞬間を、にもかかわらず含んでいることこそ時間の本質だと考えるのである。
(p150)

 相互に相容れない二つの瞬間AとBも、時間のもとではひとつの変化によって結びついてしまうだろう。時間は同一でないものの同一性を運ぶ。
(p150-151)


時間が先に(目盛のように)あって、そこに変化が逐一映し出されるのではない。変化が先にあって、それの辻褄合わせのために時間が「発明」されたのだ。

 隔離とは、「全体=自由」と「特殊な=準備され、使用中となっているもの」とのあいだの緊張である。この緊張は、言い換えれば行為に参加しているものと、していないものとの対比である。そしてこれこそ時間の感覚である、とヴァレリーは言う。
(p164)


主体と世界の「ずれ」。予期したものと実際がどのくらいずれているか、「一致」に意味を持たせるか、「ずれ」に意味を持たせるか。前者の場合の事例が「リズム」であり(第3章)、後者の場合は「持続」である。人間は常に(意識しない時でも)予期しており、それを待ち構えるように身体も準備をしている。そこで違う事態が起こり不意打ちされた時は、再構成するために一旦自分の動きを止め作り直す。ここで言われているのは、メルロ=ポンティの身体図式のようなものだろう。
(2023 06/13)

リズムと持続

まずは「持続」から。

 つまり線は一本ではなく複数生み出されるのであり、目は、対象の表面を行きつ戻りつしながら可能な輪郭線をいくつも引き続けるのである。たとえデッサンとして紙のうえに引かれた線が一本であったとしても、それは「無数の線のうちの一本なのだ。
(p178)


注意をして対象に向かうと、最終的には自身とその対象との区別ができなくなる域まで達するという。そして長時間の持続は身体が痙攣などの抵抗を示し立ち行かなくなる。
ここで言及されているのはドガのデッサン。注の

 「プロポーションにおける絶えざるためらい」
(p279)


というある批評家のドガに対する非難の言葉を、画家はむしろ褒め言葉として受け取った。
続いて「リズム」

 「先行するものと後続するもののあいだに、すべての項が同時に存在し、現動しているかのような、しかし継起的にしかあらわれないような、つながりがある」。こうしてリズムは主体のうちに行為のシステムを確立させることを通じて、継起的/同時性という時間にまつわる常識的な区分を混乱させてしまうのである。
(p192)


「リズム」のところの注では、空間的要素がリズムを生み出す例として、穴開きのリボンのようなものが挙げられていた。それは「表面に穴をあける動作」に「翻訳」されるから、だという(p280)。では、応用問題?として、あのプチプチシート(正式名称忘れた)ではリズムは想起されるか、考えてみよう。
そして第二部のまとめへ。

 世界が主体に対して刻々と関係を変えながらあらわれ、その行為の組み立ての仕方を左右するように、詩もまた、さまざまな時間的な構造を作りながら主体に行為をうながす。一方でリズムが、読者を拘束しつつ行為へと誘い込む。他方でその持続としての側面が、さまざまな仕掛けによって生み出される斥力と引力の効果によって、行為の機会の繊細な調整を読者に促すだろう。
(p202-203)


リズム、持続、そしてそれらが同時に詩に、そして世界に相対する時に働き方、これらの見通しがここで示されている。
(2023 06/15)

知覚無限回路と芸術

第3部「身体」第1章「《主観的》な感覚」
概略…補色反応は、感覚器官(この場合は眼)が普段のように他機能と共同して有用な行為や考察に向かうものではなく、器官として孤立し、他人とも独立(この意味で主観的?)して無限に反応を繰り返すもの。これをヴァレリーは重視し芸術として捉える。作品はそのような反応を引き出す「装置」…こういう考え方は、現代美術に大きく引き継がれたのではないか。詩の分野としてはどうか?

 この事物の秩序のうちでは、満足が必要を蘇らせ、応答が要求を再生させ、不在が現存を、所有が欲求を生むということを思い起こせば十分である
(p220)


このテーマは次の第2章の生理学で扱われる。不在が現存をのところは、第1部の動詞が名詞を要求する、ということを思い出す。

 視覚、触覚、嗅覚、働くこと、話すことがときに私たちを誘って、それらが引き起こした印象内にとどまらせ、その印象を保持したり更新させたりすることがある。無限の傾向があるこうした効果の全体は、美的事物の秩序を構成するだろう。それを私は短縮して美的無限と呼ぶのである。
(p220)


普段の知覚では、器官に入った刺激は「転調」されて行為に結びつく。そこでは刺激の不必要な部分は削除される。がこの無限の回路に入ると「転調」は起こらず他器官との協働も起こらない。
次はヴァレリーの考える芸術の起源。

 芸術作品のあるきわめて単純で原始的な形式、たとえば麦わら編みや布織物における幾何学模様やある色の組み合わせに関していえば、こうした装飾は補足物としての起源を持つと見出されるだろう。おそらく芸術作品とは、はじめは、作者の欲求のみに応えるものなのだ。(…)作品をつくる人を面白がらせるのは、その作業なのだ。彼は退屈した人間である。空間恐怖、それへの補足物が装飾模様となるだろう。感性が耐えられないのは、時間あるいは空間の空虚、白いページなのだ。(…)空虚な時間をつぶそうとか、空虚な空間を満たそうとする欲求は、きわめて自然な欲求である。おそらく装飾にはそれ以外の起源はないだろう。
(p223-224)


とにかく、人間は何か付け加えたがる。もう十分なのに余計なことをしたがる本能のようなものがある…面白くて納得される考えだけれど、逆もないかな。白いページを白いまま手をつけずにしておこうという欲求もまた。その葛藤も芸術を呼ぶのか。
それはともかく、原始・古代芸術作品が躍動してくるような感覚が芽生えてくる。

 ヴァレリーが私たちにうながすのは、このように「透明」と思われている私たちの身体的諸器官が、実は「不透明」であることへの気づきである。「隠れているもの、あらわにならないものが、知られていることを《作り》《産出し》《条件づけている》のである」
(p234)


普段「透明」な器官が主張し始めるのが、孤立し無限回路に入った時。それを人々は日常とは別に「作品」として保存した。

還元から全体性へ

第2章「生理学」
〈D-R〉とは要求-応答システムのこと。Dを要求とすることで、他の語「刺激」「挑発」に比べ、個体内部での刺激…それの一つが意識…に対応可能になる。

 ヴァレリーにとって意識とは、いわゆる反射であったならただちに実行に移されていたはずの「応答」を、ただ表象するだけにとどめ、実際の行為に移さないようにする作用である。意識とは、〈D-R〉の回路に介入し、唯一可能な反応であったものを選択肢のひとつに格下げすること、「同等の解決力をもつ他の行動の表象」と並置することなのであり、ここにこそ機械的な反射が成立しない可能性、つまり私たちの自由があるとヴァレリーは言う。
(p243)

 私たちの散文的な生が、機能それじたいの発展を抑圧することによって成立しているということは、裏を返せば、私たちは私たち自身が知らない機能を、私たちは身体のうちに持っている、ということになろう。
(p248)


「抑圧」というところにちょっと疑問が残るが、その知られざる自身の機能に耳をすますことがヴァレリーの目的であるだろう。
(2023 06/18)

残りと注(第3部分)とあとがきと解説読んで読み終わり。
ヴァレリーと同時期、「還元」から「全体性」のパラダイムシフトが起こっていたと、注でマルセル・ゴーシェの著作「脳の無意識」を引いて論じている(p290)。ヴァレリーの哲学もその潮流に乗っていたものでもあったのだろう。
あとがきでは、今度は現代のシフト「本質」から「多元化」へ、「垂直・純粋」から「水平・開かれた場」へが書かれている。そのこと自体は望ましいことだが、ヴァレリーがそうであったような垂直志向に対して「叩いてならそう」としていないか、と問うている。
解説では細馬宏通氏が、眼を閉じて身体を動かしながらヴァレリーの詩を読む、という実験をしたことが細かく書かれている。
(2023 06/19)

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