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「祭の夜」 チェーザレ・パヴェーゼ

河島英昭 訳  岩波文庫

もともとは晶文社版「チェーザレ・パヴェーゼ全集」が進行中であったが、晶文社の社長中村氏が亡くなったことにより企画は「自然消滅」したと河島氏は言う。
翻訳は続けていて、「叙事詩の精神ーパヴェーゼとダンテ」、そして「パヴェーゼ文学集成」がともに岩波書店から刊行。
岩波文庫ではその「集成」から「流刑」、そしてこの短編集「祭の夜」(パヴェーゼの自殺(1950)後、カルヴィーノが編集したもの)が敷衍版として出版。 

「祭の夜」昨日今野書店で買ってきたこのパヴェーゼの短編集には、前に読んでいた「集英社版世界の文学14」に収録されていた4編、「流刑地」、「自殺」、「丘の中の別荘」、「麦畑」が収められている。

ということは、先の4編は以前読んでいるということか。前の読書記録を見てみると、点描画のような素材をそのまま並べ、混ぜるのは読者に任せるということと、キーになるポイントを作品中に明言しないということが書いてあった。 
ところが、この岩波文庫版読んでいる時に「前に読んだことある」と気づいたのは「自殺」の1編のみ。

ちなみに以前読んだ「集英社版世界の文学」の感想はこちら ↓


「流刑地」

つまり、過ぎ去り、移ろい、消えてしまったものだけが、ぼくたちにその実相を現わすのだ。 
(p9) 

煙草とカンフルの臭い、そして消え行く村の記憶の中で

南イタリアへの流刑からトリーノ(この文庫の表記従う)に恩赦で帰還した時点で流刑地の村を想起する。そちらの方だけが「実相」という。この辺り、かなりパヴェーゼの実体験に近い。パヴェーゼ作品が全て「自伝的」かはこれからこの作家と付き合う際の重要ポイント。 

「流刑地」では妻に裏切られたという共通点を持つ男2人が語り手の間をぐるぐる回るという印象。この作品に関しては今回は「絵画的」ではあっても「点描画」ではない気がしたのだが…そいえば、浜辺に古びた小舟がある風景というのはなんとなく前回の記憶に残っている(既読と気づいた後で)。
でも、最後の1ページは自分には理解を超えて遠ざかっていった文章。「残った二人」というのは語り手を除くオティーノとチッチョなんだよね…と再確認する間もなく… 
地平線の向こうには何があるというのだろう、語り手にとって。 

あとは解説で、この短編と詩篇を書いていた時代のパヴェーゼに個人教授を受けたというパーオロ・チナンニの回想が興味深い。書棚の本と読みかけの本、パイプの煙と医薬品のカンフルの臭い…
(2018 02/12)

「新婚旅行」

といってもパヴェーゼだから?孤独な男とそれを回る衛星のような妻と…妻は夫に接地することもできない。側から見ると何故?という感じなのだが。 

 駅に立ち寄っては、煤煙や雑踏をしきりに観察した。ぼくにとって幸せとは、つねに、遠い土地での冒険を意味していた。それは旅立ちであり、海原を行く船であり、異国の港へ入っていって錨を投げ出すときの金属質の轟音であり、叫びあう声であり、尽きない妄想だった。 
(p46~47)


この文章が自分にとっては上の問いに近づく手助けになるかもしれない。あと印象的な場面はこの節の最後の、夕食の鍋を煮るガスの炎を通した、繋がりを見失った家の風景。 
(2018 02/26)

「侵略者」と「三人の娘」


引用は「三人の娘」から。

  なぜ、初めのころ、あんなに浮かれた心で家を出たのか。なぜ、無性に外に出たくて、前ばかり見つめて、どの街路にも、建物と建物のあいだに開けてゆくあの一筋の空があって、嬉しくてたまらなかったのか。そういうことは田舎では意味をもたない。空がありすぎるから、そして誰の役にも立っていないから。
(p94)


前の「新婚旅行」でもこうした文章を引っ張ってきたと思う。パヴェーゼの基調を流れるものだろう。そしてそれは何かの裏返し?

 裏切らぬこと、せめて自分自身だけは。河原へ戻って、過去を呼び覚ましてもよい、だが、一足一足を、一つ一つの視線を、思い返してみるのだ。いや、むしろ、目を閉じるのだ。
(p103)


引用したかったのはここではない気がするのだが…
とにかく、こうした「自分一人に戻る」のがこの短編の主要テーマ。それは、「侵略者」にも通じる。あの牢獄の中で「侵略者」となったのは、実はどちらなのだろうか。
(「三人の娘」の中で「侵略者」という言葉がこの意味で出てきたと思っていたのだが)
(2018  03/19)

「祭の夜」


パヴェーゼの閑やかな大気
短編集表題作。農作業を行うパードレと少年達の共同体に、遠くの街から祭の物音がしてくる。という設定。
パヴェーゼ作品が始まると、これまでのどの作品でも共通に、静かな大気が密かに張ってくるように感じる。この作品ではこんなふうに。

  丘の麓では、太陽が反対側へ沈むとすぐに、大地はみずからのひかりで白みはじめる。岩石や露わな事物が、密かに、爽やかな光を発するのだ。
(p114)

  ガラスのように張りつめた大気が、少しずつ霞んで暮れてゆき、遠くの物音を和らげ、物音を孤立させていった。
(p121)

  しかし夜はまったく虚ろに、敵意にみちて中空に懸っていた。
(p132)


(2018  03/29)

四静一転
一昨日読み始め半分くらい(3章まで)進んだパヴェーゼの「祭の夜」(表題作)だが、昨日と今日でやっとさっき読み終えた。これなど「大事なキーになることを語らないパヴェーゼ」の典型例かも。

  夜がさまざまな感覚を掻きたてることを、初めて知ったのです
  だからこそ、夜は眠るに限るのです
(p163)
(引用中「」を省略)


前者はプロフェッサーの、それを受けた後者はパードレの会話。これは第5章、その前の第4章の後に、プロフェッサーと女はどこへ行ったのか。
プロフェッサー(一ヶ所「先生」となっているところあり)というけれど、実際何している人物なのだろうか。案外に何もしてない人なのかも。というわけで、この人物なんとなくパヴェーゼ自身を重ね合わせてもよさそうな気がするのだが、一方パードレの方は全くの他人設定かというと、それはそれで違う気も。

最後に構成面。5章のうち1〜3章と5章はパードレの農場での静かな場面、4章だけ飛んで村の祭の喧騒の中のプロフェッサー。静と動の対比が作品の味わいを律している。
(2018  03/31)

「ならずもの」、「自殺」


「ならずもの」(一昨日から昨日)と「自殺」(今日)を読んだ。
前者はこの短編集の中では「祭の夜」と並んで長い作品。構成も章形式(またしても5章)。海沿いの町の刑務所を焦点として、なぜかここに1日だけ収容される(また移動する)神父と、この刑務所から脱獄(といっても鍵かかってなかったらしい)したロッコという男が交互に描かれるという構成。
刑務所の窓に象徴される区切られた光、光景、外から聞こえてくる物音といったものが人物と同じくらいの存在感を作品中に与えられている。
パヴェーゼの文章は、ここでも独特な読んでも読んでも何が起こっているのか謎にはまってしまうような書き方で、例を挙げれば第3章最後(p238)のラストでは神父はどういう姿勢をとっているのか、寝床に入っているのか否か自分にはわからなかった(自分に理解力がないだけかも?)

後者はパヴェーゼ短編の中でも取り上げあられることが多い(集英社版「世界の文学」だけでなく、池澤夏樹の「個人全集」の短編集でもこの作品が選ばれている)。

これも章形式(4章)だけど、語り手や視点人物が変わるなどの構図はあまり変化がなく曖昧。語り手のぼくがどこまでパヴェーゼと同じなのかは全くもって不明だが、パヴェーゼの場合ある程度は共通のものがありそう。とにかく語り手が誰かを失ってカルロッタという女に出会い、カルロッタもまた夫を失い・・・というずれ構造が続いていくが、そこでカルロッタのように「自殺」する人と、ぼくのように「自殺」しない人には何の違いがあるというのだろうか。語り手ぼくはなんとなく自殺しなそうだけれど、作家パヴェーゼは自殺してしまった…
(2018  04/15)

「丘の中の別荘」、「麦畑」


というわけで、咲夜遅く「丘の上の別荘」を、今日午前中に「麦畑」を読んで、「祭の夜」全体を読み終えた。

「丘の上…」は金髪の青年(パヴェーゼにとっては金髪は他人性の象徴)に自分の若い頃が重ねられているという、少し変わった作品。「麦畑」は「三人の娘」と同じく女性が視点人物となっている。
(2018  04/16)

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