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「わたしは英国王に給仕した」 ボフミル・フラバル

阿部賢一 訳  池澤夏樹=個人編集 世界文学全集  河出書房新社


初購入の池澤氏世界文学全集。
短期間(18日間)で一気に書かれた彼の代表作。両親(育ての父の方)がビヤホールで働いており、また奥さんも料理店で見つけたというフラバルらしい作品。ケルアックにも影響を受けたらしい。映画化もされた。

並列拡散の形式か?


最初から幸せに始まるピカレスク小説…
感じたのは並列ならびの不思議な感覚。成年男性のおもちゃ風船人形とスーツ型どりの人形、セールスマンが床に紙幣を並べるのと詩人が自分の詩集を並べるの…意義はかなり違うが、直接的には同じ仕草。この小説自体が何らかのこういう並置の積み重ねでできているのでは…なんて思ってしまう。

ということで、前に同じ著者の作品で一気読みした「あまりにも騒がしい孤独」とはだいぶ違うような印象。あっちは語り手の精神世界が気になるタブッキみたいな求心的な作品。こっちは語り手よりも語り手が観察している人々の姿が楽しい、上に書いたようなピカレスクロマン思い出すような拡散的な作品。でも、これも著者が描きたい(と自分は思う)ものは執拗に同じ。近代社会の分業化された積み重ねられていく行動。それを歪めて書くことでおかしみが生まれる。先の並列ならびもそうした技法の一つ…なのでは?
(2012 09/18)

警察官とキリスト


「わたしは英国王に給仕した」の続きから、こんな場面。語り手が子供の頃、祖母と一緒に水車小屋に住んで、セールスマンが汚れた服を川に投げ捨てるのを待ち構えている(それを洗って転売する)ところ。

 投げ捨てられたシャツが交差点の警官やキリストのようにさっと手を広げることもあった。
(p42)


なんか一つ一つの比喩だけでも印象的なのに、その比喩同士が何食わぬ顔して結びついている。こういう連想の仕方って子供がよくやりそうな気がする。語り手が語っているのはかなりの晩年だと想像しているが、ここまでのところずっとこんな感じで語り続けているので、その想定が揺らぐ。
(2012 09/20)

「わたしは英国王に給仕した」は第2章「ホテル・チホタ」に入っているのだけど…猥雑描写と金持ち批判がごたまぜの不思議な空間。

謎解きは次の章の冒頭で…


「わたしは英国王に給仕した」も全体タイトルと同名の第3章へ。前章では大統領来訪やボリビア刑事も絡んだ聖像の話の展開など、楽しく読み進め。第3章入って気づいたことは、この始まり方は第2章の時にも同じような構造だったなあ、ということ。
次のホテルに向かうところから始まって、続いて前の章のホテルの人物の謎が解ける語り。こうやって一つ一つ大人になっていく…??…そんな単純なものではないとは思うが…
(2012 09/21)

給仕という仕事

小説全体のまたこの章のタイトルである、「わたしは英国王に給仕した」というセリフが出てきた。といっても、語り手のセリフではなくホテル・パリの給仕長のセリフ。ホテルに出入りする客がどんな人物で何を注文するか、給仕長と賭けをする…といつも給仕長の言う通りになる。何故ですか?と聞く語り手に言う言葉がこのセリフ…だからなんなんだよという感じの煙に巻いたセリフですが…

この前の場面にはカレルという給仕が描かれている。アクロバット的な皿の持ち方をするこのカレル。とある日、ちょっとしたことで2皿落としてしまう。するとカレルは持っていた他の皿をぶちまけ、厨房でも大暴れ。警官に取り抑えられホテルを解雇に。読み手としては実に不可解な行動ですが、カレルの仲間達はたぶん同じことをしていただろう、と口にする(語り手自身は不思議だといっているが)。
そういう仕事の仕方がこの時代(20世紀前半)にはあったのだろう。そういう時代への追憶が「あまりにも騒がしい孤独」にも、この作品にもある。
(2012 09/22)

裏返しのナチス侵略史


今朝は「わたしは英国王に給仕した」の同名章の最後まで。エチオピア皇帝への給仕後、語り手に金のティースプーンを盗んだとの疑惑がかかる(この辺も前の章と構造似てる)。この疑惑は晴れたものの、ナチスの従軍看護婦の女性と仲良くなり(背の低さが同じくらいだから、という理由もあったらしいが、強まっていくドイツの権勢につかまらなくては損という面もあったはず)、ホテル・パリの従業員達の嫌がらせ(別名、レジスタンス)を受ける。

ということで、この小説にも政治が介入してきましたが、最初はそうとは気づかないくらい(訳注がなければもっと遅かっただろう)裏側から入ってくる。恐らく語り手は「政治的人間」ではなかったのだろうけど、それだからより?翻弄される…この作品もやっと半分、後半はそういう展開になっているらしい…
(2012 09/23)

小さいこと


第4章に入り、語り手がナチスのアーリア民族培養ホテルみたいな(うまく言えないけど)ところの仕事につく。チェコでは小さいと(名前からも)揶揄されていたけれど、ここでは名前で表現されるものも違うし、大きくなったと語り手は感じる。
一つのコンプレックスが気にならなくなった…でもそれはただ問題をずらしただけで…というのを本人もうすうすは感じている…こうした状況はここまで戯画化してなくてもあらゆる人のあらゆる場面に共通していること。
(2012 09/24)

トカトントン?


「わたしは英国王に給仕した」の第4章の終わりと第5章の初めまで。どこへ行っても息子が釘を次から次へと打つ音が聞こえてくる…というのを読んで、自分は太宰治のトカトントン思い出しましたが、あれよりもっと激しい音なのだろい…たぶん。
この音が聞こえるというのと、語り手の百万長者願望というのは、たぶん根っこというか発信源は同じところから来ているのだろう。人間はこういう何らかのとらわれから逃れられない…と。
(2012 09/25)

喜劇と井戸


第5章…最終章…では、チェコの二月革命(共産党が政権を握った)で百万長者(語り手の言葉)が刑務所に入れられる。
語り手も入ったその刑務所の実態??はなんだかなあの喜劇状態。看守と囚人が入れ替わったり…
その喜劇の後、森の中でのトウヒの伐採作業…共に働いた元フランス文学教授と元娼婦の罵り愛?関係…ここら辺にあった「独り」が重要と語る文(井戸と星がなんとかというもの)が印象的。「あまりにも騒がしい孤独」との共通点ともいえる…そして、森の中の道へ。
(2012 09/26)

雑草と雪


「わたしは英国王に給仕した」…一人きりの道路工夫になってからの語り…からのメモ。過去を蘇らせ未来を探す為に、自分の人生の道の…夏は雑草取り、冬は雪かきをする。長期記憶は鍛えなければ埋もれてしまう。 
楽しむ、または美しいというものは、本当は苦しみ、理解するというところから来るはずだ、という。 

ところで、この語りの枠物語は、作者が居酒屋かなんかに行って誰かの語りを書き移した…みたいに想像してたのだが、どうやら語り手自体が書いたものみたい…かも?だとしたら、ちょっとテクストの見方変えないと… 
(2012 09/27)

昨夜、「わたしは英国王に給仕した」を読み終えた。最後は話し相手(司祭の代わり)?を探していた近所の居酒屋常連がやってくる。今までの語り手の生涯では、誰かに呼ばれるということはなかった。給仕の仕事はあるけれど、それは仕事。

ふと思ったのだが、ハサミとノリ使ってこのテクストを切り貼りして、新たなテクスト作れるのではないだろうか。
(2012 09/28)

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