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「サルガッソーの広い海」 ジーン・リース

小沢瑞穂 訳  池澤夏樹=個人編集世界文学全集
ジーン・リースは「二十世紀イギリス短編集」で「あいつらのジャズ」という短編が収録されている。
この訳は1996年出版(みすず書房)だけど、この前にも別の翻訳あり。リースはこの他、「あいつらのジャズ」の他にも、岸本佐知子氏が自伝的長編第一作を訳していて、短編もぽつぽつ訳されている。意外に?邦訳は恵まれている。

ジーン・リースはドミニカ国(共和国ではない方)の生まれ。祖先はイギリス出身だが、スコットランドとかウェールズとかやはりそちらの方。ドミニカ島は佐渡島より小さく奄美大島よりは大きい。北にはグアドループ、南にはマルティニーク。ドミニカ国はこの辺で唯一カリブ族が残っていて、ある程度の自治も行っているという。名前はペンネーム。本名はエラ・グヴェンドリン・リース・ウィリアムズ。

 植民地の狭いヨーロッパ人社会というのは、ある意味では記号論的な世界だ。
(p479 解説より)

白いゴキブリ


「ジェイン・エア」との関係で、第一部(三部構成は偶然にも「灯台へ」と同じ)はジャマイカに設定されているが、舞台のクリブリという農園はリースの出身ドミニカに近いという。

第一部、古い白人と新しい白人、この差は奴隷解放以前か以後かというところにあるらしい。主人公アントワネット(「ジェイン・エア」ではバーサ)は母のアネットと障害を持つ弟、クリストフィーヌ(召使だけど、ダーと言う乳母のような、召使という範疇を越えてもう一人の母親と言っていいような存在。池澤氏解説のラフカディオ・ハーンの小説にもあるようにある程度一般的だったらしい)と住んでいた。「白いゴキブリ」と周りの黒人に蔑まれていたり、唯一できた遊び友達に服盗まれたり。

空地だった隣に「新しい」白人の一家がやってきて、やがてそこのミスター・メイソンと母は再婚する。家の経済状況は良くなったが、今まで蔑みだけだった周りの黒人たちからは徐々に憎まれていき、「東インド諸島」(これがどこを指すのかよくわからなかったけれど、「苦力」という言葉があったから、本当のインド?)から労働者を入れようとした時、黒人たちに囲まれて放火される。

弟は亡くなり、母は狂気に落ちる(元々母はここから逃げ出そうとメイソンに言っていたが、メイソンは聞く耳持たず)。アントワネットは修道院生活に入る。ここまでで一番安定した生活…しかし17歳になった時、メイソンがやってきて引き取る。メイソンはある計画を持っているらしい。それが「ジェイン・エア」のロチェスター氏との結婚話である(とは明言してないけど)…というところで第一部が終わる。

第一部最後、母親の葬式の回想から

 クリストフィーヌはひどく泣いたけれど私は泣けなかった。祈ったが、言葉は意味も持たずに地面に落ちた。
 彼女に対する思いと私の夢が混じり合う。
 彼女が習慣を変えて、借りた馬に乗っていくのが見えた。クリブリの砂利道のてっぺんで手を振ろうとしているのが見え、私の目にまた涙が浮かんだ。「あんなに恐ろしいことが起きるなんて」私は言った。「なぜ? なぜなの?」
 「そういった不可解なことばかり考えてはだめよ」シスター・マリー・オーガスティンは言った。「なぜ悪魔が栄えるのかは私たちにはわからないの、今はまだね」
 そもそも彼女は他の尼僧とちがってめったにほほ笑まなかったが、今はにこりともしなかった。悲しそうに見えた。
 彼女は自分に言い聞かせるかのように言った。「さあ、早くベッドに戻りなさい。穏やかで平和なことだけを考えて、眠るようにするのよ。すぐに合図を鳴らすから。じきに明日の朝になるわ」
(p314-315)

なんの断りもなく、次々と話者とか場面が移り変わる書き方。果たして、アントワネットの「明日」はどんな日なのだろう。

というわけで、第二部は語りをロチェスター氏に変える。リースはこの第二部が一番難しかったと言っていて「あのいまいましい第二部」と呼んでいたという。

第二部はジャマイカからリースの本拠地、ドミニカ国に移る。ロチェスターはジャマイカに来て一か月後にアントワネットと結婚する。しかもそのうち2週間は熱病でふせっていたという。
(2021 04/11)

閉じること、開くこと

うーん、なかなか手強いテクストだ。最近読んだ中では、表層だけ掬って読んでいる感が一番強い…ロチェスター、アントワネット、クリストフィーヌ、ダニエル…それぞれがいがみあっているのだけれど、コードが違ってすれ違って話し合いにもなってない、他者の声に自分の思いを投影させて完結させているような気がする。しかもそのうちの一人に絞っても納得できないで…例えば、ロチェスターは、アントワネットは、相手を愛しているのだろうか。当人が言うほど。

と、いう感じなのだが(もちろん、わからないのは「ジェイン・エア」をまだ読んでいないということもある。でも解説の池澤氏も「何か読み落としているのでは?」と読むたび思う」と書いているから、手強いのは折り紙つき…)、とりあえず引用してみよう…

 …ここの人たちはひどく傷つきやすいのだと思った。ぼくが感情を顔に出さないことを学んだのは、幾つのときだっただろう?
(p356)

すれ違いポイントをそっと教えてくれる箇所その1(といっても今数えられるのはここだけなのだけど)。近代資本主義の精神教育(イギリスでも流行ったし、日本では心学とかいろいろ)は、今の現代社会に生きる人々から見える以上に、世界的、歴史的に見渡すとかなり異質、特殊なものなのだろう。でもアントワネット側が特殊ではない、とはそれも思えないし。

 母が鏡を見つめるたびに、希望を抱いて孤独じゃないふりをしているにちがいないと思ったわ。私もそのふりをしたの。もちろん母とはちがうことについてね。そのふりは長いことできるけど、ある日とつぜんすべてがくずれて一人きりになるの。私たちは世界でいちばん美しい場所に取り残されていたの、クリブリみたいに美しいところがほかにあるはずがないわ。海から遠くはなかったけれど潮騒をきいたことは一度もなく、いつも川の音がしていた。海じゃなくて。
(p383)

狂気になるのは、ひょっとして海の音を聞けないから、と思ってしまう。あるいは狂気なるものは現地社会と西洋社会が接した時に、西洋社会側が現地社会のある一側面を切り取ってそう名付けたものに過ぎないとも言えるのかも。といっても、現地社会が純粋無垢だとかいう意味ではなく、その社会内でも危険な萌芽を抱えていたが見えないようにして生活していた、と(まだ自分でも掴めてないけれど)。

上記で言いたいことは、支配被支配とか西洋人非西洋人とかいう図式ではなく、ある人の世界の見方が開いているか閉じているか、ということ。アントワネットもロチェスターも進むにつれどんどん閉じていってしまっている気がする。

試しに、幾つかの小説選んで、異文化理解の濃淡をマッピングしてみよう。もちろん?異文化理解できました、めでたしなんていう作品はなくて、いずれもその難しさを捉えているのだが。

バルガス「物が落ちる音」が半分くらいだとすると、「サルガッソーの広い海」は1、2割? 戻ってこなかったリョサ「密林の語り部」と拒否されて自殺したベルナルド・カルヴァーリョ「九夜」(読んでないのに取り上げるとは…)この二つはなんだかコインの裏表のような気がする。後者はほとんど「ソラリス」状態…ということで、極北が「ソラリス」(まあ、試論だから…)
(2021 04/12)

厚紙の家にさまよいこむ幽霊(読者もまた)

 突風の中を歩く裸の赤ん坊のような憐憫
(p417 「マクベス」より)

 だが安っぽい白い家を見たときに感じた悲しみ、それにたいしては心の用意がなかった。その家は前よりまして黒い蛇のような森から身をふりほどこうとしていた。前よりも大きな声で必死で叫んでいた。破滅と荒廃から救ってくれ。蟻に食われる緩慢な死から救ってくれ、と。だが、おまえはここでなにをやっているんだ。愚か者め。こんなに森の近くで。ここが危険な場所だってことを知らないのか? 暗い森がいつも勝つってことを。常にだ。
(p420)

「前」っていうのは「灯台へ」の第二部ではないよね。せっかく併録されているんだから、そのくらい遊んでも…

物語に現れる家の概念の変容について…
というのはともかく、「おまえは」とかいうのは家に言っているというより、ロチェスターが自分自身に言っていること。彼はアントワネットが狂っていると考えているみたいだが、それ以上に彼自身が狂っている。

 彼女が記憶にすぎなくなる日を。遠ざけ、錠を下ろして閉じ込めるべき記憶となり、すべての記憶が伝説となる日、または一つの偽りとなる日を……。
(p426)

第三部

 夜になって彼女が何杯か飲んでから寝入ってしまうと、鍵を盗むのは簡単だ。彼女がどこに鍵をしまっているかもう知っている。そして私はドアを開けて向こうの世界に足を踏み入れる。それは、前から知っていた通り、厚紙でできている。
 私が夜になると歩くこの厚紙の家はイギリスではない。
(p432)

厚紙というのは意表をつく比喩だ、と読んだ時は思ったけど、この厚紙の家というのは「ジェイン・エア」という本自体ではないか、という指摘が前に見た本にされていて、納得。ではジェイン・エアはそっちからこっちの厚紙の家に入ってきているのか。

 ときどき左右に目をくばったけれど後ろは振り向かなかった。この屋敷にとりついているという女の幽霊を見たくなかったから。
(p438)

ここまでくると完全にそういう仕掛けであることがわかる。幽霊とされていたのはアントワネットの方ではなかったか。でもジェインもアントワネットもその他大勢の女もこの列に加わって長い連鎖をなしているなら、どっちが先でどっちが後かなんて些細なことではないか。

そしてお互い入り込んだ厚紙の家で火をつける。

家、ヴィジョン、他人の理解…実は併録2作品に共通するテーマは多いのかも。
(2021 04/13)

併録作品


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