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すばる2024年2月号…対談づくし(五大文芸誌も読んでみよう…その7)

五大文芸誌…文學界(文藝春秋)、新潮(新潮社)、群像(講談社)、すばる(集英社)、文藝(河出書房新社)

これら五大文芸誌(以外の文芸誌も)の過去号を図書館で借りてきて、読んでみる企画(と言えるのか)。
読むのはもとより存在自体も知らなかった…というテイタラクな海外好き日本文学苦手な自分も、少しは今の日本文学シーンの一端の端っこくらいは味わないと…


管啓次郎と堀江敏幸の対談

まずは管啓次郎と堀江敏幸の対談から。これは青山ブックセンター本店で行われた、管啓次郎の詩集「一週間、その他の小さな旅」と批評集「本と貝殻」同時刊行記念の対談、題して「本の島をわたってゆく旅」(この号、これを含めて対談が4つもある)。前半が管氏の自作の詩の朗読、後半が堀江氏との書評をテーマにした対談、の構成。
(ちなみに、管啓次郎は、昔読んでかなり影響された本の一つ、マトゥラーナとバレーラ「知恵の樹」の訳者)

 書評とは、本が生まれる現場にちょっと遅れて駆けつけることです。作者、編集者、デザイナー、営業、印刷会社の人たち、書店の方々が産声を聞く。その後、生まれたよという報せを聞いて、病院に駆けつける。そういう喜びですね。
(p163)


堀江敏幸氏の言葉。書評など書いたことはないけど、なんかとても実感できる文章。

続いて、管啓次郎氏の「本と貝殻」所収の、冨原眞弓「ミンネのかけら-ムーミン谷へとつづく道」の書評…これ、冨原眞弓氏の本自体がかなり魅力的なのだけど、それはもちろん管氏の書評の力でもある。

 シモーヌ・ヴェイユとトーヴェ・ヤンソン。年齢はある程度近いが互いにまったく関係なく言語もジャンルもちがうこの二人を二つの焦点として成立した楕円が、著者の精神のかたち。フランス語とスウェーデン語。パリとヘルシンキという具体的な二つの都市も、その楕円の窓から見られ、体験される。
(p165)


困ったことに、また読みたい本が増えるではないか…それにこの冨原氏、フランスではシモーヌ・ヴェイユの他にカタリ派も焦点にあると言う(珍しいのか(笑))…実はこの本の帯の文章書いたのが堀江氏。
(本谷有希子「自分を好きになる方法」と言うのも気になる(読みたい、困った)…次はゼーバルト「土星の環」(よかった、読んでた…)

 私も言葉が自分のものだと思ったことはないですね。自分の文章と向き合うたびに、宙に浮いていた言葉、落ちていた言葉、海辺で拾った貝殻やガラス片を並べて、それを翻訳している気がする。
(p171 堀江氏)

 翻訳というのはいわば行間にずーっと訳文を書き込んだいくこと。「インターリニア」とも呼ばれる実践ですが、これは不思議なことに、文字を書きこめば書きこむほど、どんどん行間の空間が広がっていく、そんな作用をもっている。
(p172 管氏)


誰かの言葉を拾ってきて、並び替えて、行間に訳文を差し込んでいく。それが書くことであるなら、ベンヤミンの「パサージュ論」は確かに一つの創作であるし、書評もまた一つの作品である。
堀江敏幸の作品も何か読みたいと前から思っているのだが、何がいいのかなあ。
(2024 02/19)

西加奈子と長島有里枝の対談

今号は(いつもなのか?)対談が多い。次は西加奈子と長島有里枝の対談から。

 女性の身体が過剰に意味づけされてることに気づいたっていうか。下着なんて、ほんとうは当人のためのものじゃないですか。なのに、身につける方はただ締め付けられて痛いだけのセクシーな下着とかを見ると、自分の肌の一番近くに身に付けてるものでさえ自分のものじゃないのか…って軽く絶望的な気持ちになります。
(p134)


西加奈子の言葉。こういう言葉を聞けるだけで全く知らない、すぐ近くの世界観を知ることができる。女性はそこにまで誰かの(だいたいは男性の)視線を意識しているわけか…

 表現者として気をつけなければならないことというのは絶対にあると思う。それでもやっぱり、当事者だけが語る資格があるわけではないんじゃないでしょうか。例えば、辛い出来事の気持ちを想像して胸を痛めることができる人は、必要です。その位置から、想像することしかできない他者の状況や気持ちに寄り添い支えようとする人の存在に、わたしだったら励まされる気がする。
(p134-135)


長島有里枝の言葉。西加奈子の「チェンジ」について、作者西加奈子自身が、ラストでキレられるおっさん作家の性質が自分にもあって、キレる方の風俗で働く女性の立場に自分は立てることができるのかと悩んだという。そのことについての発言。
長島有里枝は写真家としてデビュー後、作家、そしてフェミニズム論者として表現の場を広げている。
(2024 02/24)

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