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「西南シルクロードは密林に消える」 高野秀行

写真 森清  講談社文庫  講談社

大和市桜ヶ丘の冒険研究所書店で購入
(2023 11/04)

懸棺と三星堆遺跡


西南シルクロード…成都から雲南・ビルマ・インドへ抜けるルート。シルクの始まりは成都だったという一説があり(北のシルクロードを渡った張騫が今のアフガニスタンまで行ったら成都の布見つけた、とか)、少なくともインド洋で採れる貝を貨幣に使っていたらしい。2002年の旅行記。
今日読んだのはp72、四川省、貴州省まで。四川省では「懸棺」という石壁に角材を立てかけて棺を載せるという風習。貴州省の外れの「中国で最も貧しい地域」とされる村で、纏足のお婆さんを見つけ、高野氏興奮の余り「包帯を取って写真撮りたい」など無茶なことを言いまくる。
その前に、1986年に発見された「三星堆遺跡」の博物館を見て高野氏は驚く。非常に芸術的で、また戦争関連の武具や像それに呪術的なものが一切無いという。同じ時期の黄河の殷の出土品と比べるとそれは明らか。

 三星堆遺跡には文字がない。
 現代は文字文明の時代である。アフリカ・マリのドゴン族や中南米の先住民のように、どんなに高度な文明を保持していても文字がなければ文化人類学者くらいにしか相手にされない。もっと言ってしまえば、文字を持つことが「文明」の条件とされてはいないか。
(p46)


そして、これから通る「西南シルクロード」はこうした文字なき文明の民族の道でもある、という。
(2023 11/04)

国境の町、瑞麗にて

まず、写真の森清氏は講談社の社員さんで、会社の都合上、全行程同行するわけではなく、ビルマ内のみということ。だから、これまでの懸棺や纏足の写真は高野氏撮影…ってことは、プロローグの護送されるエピソードは森清氏にしてみれば、始まって割とすぐ、だったのか。
もう一つ重要なこと。旅行を始める時点で、既にビルマ-インド間の国境越えは諦めていたという。国境で折り返し、インド側はまた国境付近まで行って旅するという計画。

さて、中国側の国境の町瑞麗で、シャン人の解放軍との接触。能天気っぽい女性兵士(女性は割と多いらしい)、ビルマ政府と戦闘状態にありながらトラクターを安く売って好待遇を受けたりとか、高野氏にとっても意外なことだらけ。そして、後者のシャン人軍要人の態度にむかついて酒をやけ飲みして寝たら、翌朝お金が全て盗まれていた。これを打開してくれたのもまた上記要人氏。
このままで森氏を迎えることができるのか?

さて、シャン人(高野氏はヨーロッパ的な、「シャン族」という言い方をしない)は、タイ人のビルマでの言い方。そ言えばシャムと音似ているが、バンコク辺りのタイ人と同じ(元々この辺にいて、後に南下した?)なのか、今は区別されているのか、まだ自分にはよくわかっていない。とりあえず、中国での泰族(本当は人偏がつく)、ラオスにも広く分布する。盆地に一つずつ豪族がいるような連合体で、第二次世界大戦くらいまでは、ある程度どこの国にも属さず散らばっていたという…
(2023 11/05)

第2章「ジャングルのゲリラ率軍記」

今日から第2章「ジャングルのゲリラ率軍記」
ここから中国を抜けてビルマに入る。入る時は畑の中の畦道が国境、という感じだったが、途中また中国に入って車道を行く時に検問所で引っ掛かり、中国側の街まで行き警察で長く尋問される。その道中を描いたのがプロローグ。その後、何があったのかわからないけれど、とにかく釈放されてビルマに戻る。高原のリゾートみたいなバンガローや、小さな村の村人の家などに交互に休憩するようなそんな旅。1990年代初め頃まで、ヘロイン中毒が多いくらい様々なものが流れこんでいる地域もあったが、その後カチン軍側はヘロインを厳しく取り締まっていく政策を採った。

 橋に近づくと、銃痕が鉄板にいくつも刻まれている。これはビルマ軍とカチン軍の戦闘によるものだという。はるか彼方の島国から来たイギリス人がやはり遠い島国の日本人と戦うために作った橋で、今度は現地人同士が戦闘を行う、やはり無意味、というより不条理なことこのうえない。
(p133)


(2023 11/21)

第2章残りでは、腐った橋を踏み抜いてカメラマンの森清氏が落ちそうになったり、息子の医大教育費を出す為にカチンの山奥で砂金取りをしている中国人、象に乗っての道程など。象は乗り心地が悪く、またジャングルの中では気をつけないと頭に枝などが突き刺さってくる可能性があるという。そして意外なことに、象は足音をほとんどさせない。またこの辺りではそこまで象が多くないので、この象によるジャングルウォークの際に、結構現地の人が多く驚いた、という。

第3章「密林の逃走」


この章冒頭でカメラマンの森清氏は引き返すことになった。ヒルに襲われたり、呼吸困難になる体調不良から高野氏を救った中国気功整体。カチン人のキリスト教(プロテスタントの一種だという)と、ナッ神という民間信仰(ビルマのナッ神とは違う)、その間で揺れているカチンの人々。

 森は人間に恵みをもたらすが、森自体は必ずしも人間には暮らしやすい環境とはいえない。人間は森と、あるときは激しく対立し、あるときは譲り合い、そのせめぎ合いの中で両者がなんとか均衡を保っている。しかも、その均衡は気候や外部からの刺激に絶えず揺さぶられ、一時たりとも天秤がぴたりと止まることはない。それが「共生」の実状ではないか。
(p244)


次は先に書いた呼吸困難の病気から治った後に、その時薬草を取って来てくれたおばさんが、また薬草を持ってきた箇所。そこの通訳ゾウ・リップの言葉。

 「この薬草は朝、もう採ってきてしまったものだ。私たちはその植物から必要なだけの葉っぱしか採ることができない。必要以上に採ったらもう次からその薬は効かなくなる。いったん採った薬はちゃんと全部使わなければいけない。無駄にしてはいけないのだ」
(p253)


高野氏は「これこそエコロジーだ」と思うのだが、薬草の配分を多くし過ぎて途轍もなく苦かった…というオチあり。
(2023 11/23)

第3章の残りは、「窓際少尉」との交流と、久しぶりの町で車ではなくすべて牛車が道を通っているいう「逆ウラシマ」現象。そして、レド公路という第二次世界大戦時に重慶の蒋介石を救援するためにインドから作られた道。

第4章「秘境・ナガ山地の奇跡」


前章の「窓際少尉」から、ナガ人に詳しくナガ語も話せるラ・トイ大尉へ、買い出しに夢中な「エピキュリ大尉」へ。カチン軍とナガ軍は、規模は断然カチン軍の方が大きいが、階級昇進はナガ軍の方が早い。その為、カチン軍は身分的には上にあたるナガ軍の相手を見下すことも多いが、逆にナガ軍の方もカチン軍の将校を見下していたり。
一方、村人たちは、強いビルマ軍と、自分の側なのに弱いカチン軍との間で調整しながら生きていて、それは黒澤明の「七人の侍」に似ているという。

 強い悪者とあてにならない正義の味方。そのどちらにつくかという究極の選択を村人は迫られるわけだ。
(p325)


ナガ軍との関係の件でも、ビルマ軍とカチン軍の間の村人の件でも、人間行動はどこでもあまり変わらないものだな、と思う。ここで、新しい町の共同井戸に「タカノ」という名前つけたり。そして、ここまで行ったら(以前はまた中国に戻る計画でいた)インド側へ抜けようと決めたことなど。
(2023 11/24)

ナガランドでもあれこれ

昨日と今日で読み切り。
エピキュリ大尉は息子(インド側へ向かった)を探す旅でもあったらしい。そしてナガ軍のカウンシル(政府?)で息子と再会。ここからはインド国境まで歩き、そちらの村で車に乗り換えナガランド州へ。ずっと付き添っていたゾウ・リップとエピキュリ大尉とはカウンシルでお別れ。大尉の息子とインド側ナガ軍(大名とか武装町内会とか言う表現が楽しい。なんでも、高野氏の出身八王子の町内会を思い出したらしい)。

直接ナガランド州ではなく、アルナーチャルプラデシュ州-アッサム州経由。アッサム州はインドの文化だが、ナガランド州はこちら側も東・東南アジア文化圏だと高野氏は言う。ナガ軍自体が二つに分裂し抗争しているらしいのだが、軍の装備や資金はインド政府から出ている(独立抗争の相手からである)。それからナガランド州の住民はなんとなくも含めどっちかの派閥に属しているらしいが、税金もろもろはどっちの派閥にも納めている(インド政府には払わない)、というかなり特殊な事情。しかも高野氏はずっと二つの派閥のうちKグループの庇護にあったが、最後の町では敵対するIMグループにいつの間にか入っていたという。
ここから鉄道でカルカッタへ。そして日本領事の尽力でなんとか「国外送還」として(シンガポール航空で)日本に帰ることができた。

で、めでたしかと思いきや、あのエピキュリ大尉はあのまま別行動でインドからパキスタン国境付近まで誰にも言伝なしに放浪?している、そして、彼の息子はこの旅の翌年(2003年)にナガランド州で起こった暴動でカチン州に戻り、頼る人がいなくて(なんと大尉は妻を捨てた)高野氏に電話してきた(文庫版へのあとがき)…
さて。

 私がKからIMに鞍替えさせられたのはおそらくアオという部族つながりだと思われた。ナガ人は二つの糸で織られた布である。縦糸が二つの派閥、横糸が部族である。どちらの結束も固い。
(p482)


ここはナガランド州を出る最後の町(ディマプール)でKからIMに変わっていた時の文章。アオというのは部族名。ナガ人という名称はその地域に住む人々の総称らしい。

 これは道をたどっているのとは明らかにちがう。私は「モノ」として運ばれていたのだ。
 だから、私は、このルートを「戦後初めて中国からビルマ経由でインドまで旅した旅行者」ではなく、「戦後初めて中国からビルマ経由でインドまで運ばれたことを確認された交易品」なのである。
(p505)


そしてその途上の人々が得たものは「記憶」だと高野氏は言う。ちょうど第二次世界大戦などの記憶が変形して語り継がれていたように、この高野氏の旅もここの人々に変形されながら語り継がれていくのだろう。
しかしよくこんな旅ができたものだ。自分も、高野氏が帰国後にこの旅の話をした時に、ある友人が忠告したことと同じことを思った。

 「あまりに運がよすぎてウソっぽいから、もっと正直に言ったほうがリアルだよ」
(p502)


でも「すべて事実なのだからしかたがない」…
…これも、地味に500ページ越えだった…
(2023 11/26)

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