見出し画像

「もうひとつの街」 ミハル・アイヴァス

阿部賢一 訳  河出書房新社

パラレルワールドでボルヘスやカルヴィーノの名前出てきたら買わないわけいかない… アイヴァスはロシア系移民のチェコの作家…というか、家系はなんとハザール王国に遡る(末裔と称される)… 
(2016 05/04)

読めない文字と描けない挿絵


ミハル・アイヴァス「もうひとつの街」を今日から読み始め。タイトル通りパラレルワールドもの。

 どこかに通じているはずの半開きになっている扉のなかに足を踏み入れることはせずに、これまで何度も通り過ぎてしまったにちがいない。見知らぬ建物のひんやりとする廊下や中庭、あるいは街はずれのどこかで。 
(p8)


語り手がパラレルワールドに踏み込むきっかけになったのは、プラハの古本屋で偶然みかけた古い菫色の背の本。

 その本にはこの世のものではないような解読不明な文字が記されていた。 文字は身をよじり、のたうちまわり、街灯の光に照らし出されて、回転していく雪の渦と化していた。自分の部屋に持ち込んだ、まるで鶏の黒い卵のような、見たことも聞いたこともないものを目のまえにして、私は不安を覚えた。 
(p11)


「鶏の黒い卵」という不安の源泉の比喩が合い過ぎて怖い…この文章の前に語られていたその本の挿絵の説明…そこでの挿絵は実際にはその通りに描くことはできない。 
さて、この第1章を過ぎて今日は第4章まで。第2章以降は幻想飛び過ぎでいきなりだとわけわからない(笑)。さっきのP8の文章ではパラレルワールドは何らかの扉的なもの1枚で隔てられているようなイメージ(一般的にもそういう感じかな)になっているのだけれど、この後読み進めていくと、毒の雨なんかでゆっくりパラレルワールドが侵食していく…というイメージになっていく。

 毒は私たちの言葉を蝕み、言葉を原生林から古来響いている不安の音に変化させ、彫像たちの孤独な音楽とさせる。 
(p37)


この第4章の考察の部分は、著者が取り組んだデリダに近づいている。
(2016 06/01)

刻まれた文字がその刻み込むという行為の為にそれだけで意味を為すというのなら、それを溶解するという毒の雨は…元に戻すこと以上の何かがあるのだろう。 読めない文字は魔界の入口… 
(2016 06/02)

異界へと導く緑の路面電車

「もうひとつの街」1章分しか進んでいないけど… その前の章の最後に出てきた緑色の路面電車。それに乗ったものは再び戻ることはない…という。娘が戻らなくなった男の証言によれば、戻らなくなってから少しの間には手紙が来ていたという。その手紙の文字がだんだん読めなくなって、ついには手紙自体も来なくなった。
ちょっと細かいところは忘れてしまったけど、文字を書くという行為の意味?が、こちらと異界とでは異なっているみたい。ということは、パラレルワールドは異世界なのではなく、異コミュニケーションなのだろうか。 その他、古い絵画のさらに古層の絵に緑色の路面電車とおぼしきものが描かれているとか… 
(2016 06/03)

タコと東欧

 それは、私たちの制御が及ばない、私たちの世界に編入不可能な空間であり、私たちはむしろその存在そのものを否定することを選択してきたのだった。
 (p65)


第7章。このパラレルワールドはもちろんたった一つの意味に還元できるものではないのだろうけど、もうひとつのヨーロッパという観点からは、やはり社会主義体制の管理社会を思い起こす必要はあるだろう。しかし何故魚やタコやエイやサメなどが街の中で放り出されなければならないのだろうか。

続く第8章はまだ途中なのだけれど(進みが遅い・・・)今度はパラレルワールドの司祭が、こっちの世界ではビストロの給仕であったことが判明し、その妻から相談を持ちかけられるというところ。この作品、東欧の人達と自分たちとでは、読後感がもしかしたら全く異なるのかも。
この第8章と次の第9章は、「21世紀東欧SF・ファンタスチカ傑作集、時間はだれも待ってくれない」東京創元社、高野史緒篇にて同じ阿部氏の訳で紹介されている。 
(2016 06/04)

川と炎


第8、9章のサメとの格闘を終え、まずは第10章から。

  私たちは、硝子越しにしか見ることができないんだ。夢のようなに緊迫した身振りの波のなかに、存在という謎の川が出現する。ドレスの襞は、変わりゆく魅力的な文字を描き出すが、私たちは、その意味を考えはじめたばかりだ。 
(p87)


解説によるとこの小説の中心テーマは「見ること」なのだという。今いる街と、それからもうひとつの街と、その溶解具合は見る人自身にかかっている。そういえば、語り手はどんどんもうひとつの街を中心に見ていて、合間に現在の街が返ってくる、そんな見方になりつつある。 この部分とも呼応しているかのような第11章の文章。これは昼は靴屋、夜は彫像屋?の老店主の言葉。

 あるのは、たったひとつの中心、たったひとつの起源だけ。だが、それは、中心から成長したあらゆるもののなかにあるんだ。
 (p101)


存在とは炎なのだという。炎のどごか中心でどこが周縁かという議論には意味がない。 語り手はどこへいくのか。 
(2016 06/05) 

原生林と創られた伝統


この小説も半分越えて、やっと読みものってきた感じ。
この間はこのもうひとつの世界を東欧社会主義時代の管理統制などと見立ててみたけど、今回はもうひとつの世界が現在の世界より暑そうだということ、魚や船が街中を行き交うところから、昔の海進が進んだ時代(縄文時代くらい?)の世界を重ね合わせてみた。こうすれば作品中に頻出する原生林というのも説明がいく。
ただ、原生林なる言葉は著者アイヴァスのお気に入り?でもあって、「明るい原生林見ることに関する考察」という著作もある(後気になる著作(小説以外)に「記号と空虚の物語」というのもある。こちらはミショー、リルケ、ゴンブローヴィチ、ギブソンらを論じる。前2つと後2つが自分の中で結びつかない…)。

さて、彫像屋のくれた液体は飛べる薬?で、鳥人間よろしく語り手は飛び立ち、聖ヴィート大聖堂の屋根に腰かける。と、そこには先客がいて、オウムらしき鳥にパラレル世界の創世神話「壊れたスプーン」というのをを語らせる…のだが。

 ぼく個人は、叙事詩全体が前世紀につくられた出来の悪い贋作だと思いますね 
(p113)


では、パラレル世界でも「創られた伝統」としての民族文化なるものがあるのか…普通(なのか?)、こういう陰の世界モノは陰側の成員の言動はなんだか怖いくらいに、少なくとも表面的には統一されている場合が多いけど、この作品の場合はなんだかみんなばらばらな個人の意見を持っている。それも不思議。
(2016 06/06)

ヱイ


「もうひとつの街」では、空飛ぶヱイが登場。内陸国のチェコでは、タコにしろヱイにしろ、かなり異質なものと見ているとのこと。あと、この世界のマスコミにも気になる。新聞やテレビで語り手の行動が報じられていて、住民がそれを見ている…それがどっちの住民もなのだ。祭典の時のテレビも合わせ、主要なテーマとしていることは確かだろう。 でも、ボルヘスやカルヴィーノというよりは、ギブソンとかの方に読んでいる感触は近いのだけど… 

あり得ないにあり得ない

 道が風景のなかに溶け込み、もうこれより先に道はないって思うときが、一番、道が道になるというのにね。 旅の終わりの地点にたどりついたという希望が持てるのは、目的地や道のことも忘れてしまうとき、空間に入り込み、その静かな流れに身をゆだねるときだけ。 
(p149)


これらの言葉は例えば最終近いこの言葉などと呼応しているのかな(そこまでまだ読んでいないけど、ちょっと先走って)。

 私がいま理解したのは、もうひとつの世界に足を踏み入れることができるのは、旅立ちを決意した旅に意味などまったくないと理解して出発するひとのみであるということ。なぜなら、目的地は、故郷を形作るさまざまな関係からなる織物のなかにあるからだ。 
(p195)


ここに至る前後関係は後のお楽しみに… 
あと、この作品のベースになっているのは「オディセイア」。この閘門の中の船で繰り広げられる絵の連鎖は作品冒頭にあったあり得ない絵の拡大展開なのだろう。
(2016 06/08)

図書館海峡夏景色


ちょっと前に出てきた船に乗った男女がまた出てくるのだけど、女の方はなんと船が「図書館の海峡の壁に当たって座礁」し難破したという。その証言を元に語り手は図書館奥深く潜入しようとするのだが、第2章で出てきた図書館職員は危険過ぎると言う。本を探しに行った図書館職員がこれまでも何人も戻ってこない…それでも語り手が奥へ向かうと、そこは原生林化した図書館が広がっていた…

 朽ちた書籍の内部、ページとページの暗い隙間には、植物の種が置かれていたのか、湿気のある闇のなか、芽が底に出て、紙のなかに根を生やしたり、本の端に枝をだしたりしていた。
(p177)

図書館がジャングル化した異様な光景が続く場面からなのだけど、これは比喩的には本を読んで他の本との繋がりを考えていくという人間の行為そのものでもあるのではないか。

立ち去るものと留まるものとの対話


というわけで「もうひとつの街」を今さっき読み終えたのだが…とりあえず、書棚のジャングルや書籍のページに擬態した大トカゲの先には、崖の寺院の寺守の語るカルヴィーノの街の変装。出発の章での立ち去るものと留まるものとの対話のところでは、ル=グィンの「オメラス」を思い出してみたり。
解説では、ずっと使い続けているもの、ずっと見慣れている風景が、実は見過ごしているジャングルなのだ、というところ。
(2016 06/10) 

もう少し。まず寺院の番人がカルヴィーノ的な街を列挙していくところの直前から。

 街という街が無限に連なる鎖でしかなく、変わりつづける法の波が容赦なく流れていく、終わりも、始まりもない円のようなものだ。 
(p187)


前に朗唱する鳥フェリックスが似たようなことを言ってたみたいだけど…違いがよくわからない。 自分の部屋に戻った語り手は、そもそもの始まりのもうひとつの街の奇妙な文字の本から、語り手が持っているの他の本へと、奇妙な文字が伝染しているのをみつける。蠢く虫か感染か。 そして最後に、立ち去るものと留まるものとの話になる。

 あとどれくらい、この社会は、去りゆく者を蔑視するのだろう。去りゆく者と、留まる者の和解が成立するのは、いつになるのだろうか。 
(p198)


200ページの本を10日。1日20ページ換算… おまけでもうひとつ引用。図書館原生林探検で文字の模様に擬態するイモリをみつけた箇所から。これはこの作品の文体論に使えるかも。

 文字はだいたいの場合意味をなさないまとまりだったが、意味のある言葉や、なんらかの意味を担う文章の断片を構成することもあった。 
(p179)


 人間の物語想像力と、意外な文章にぶつかった時の奇異感が微妙に折れ重なった、そういうこの作品の文体。 
(2016 06/11)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?