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「アメリカの鱒釣り」 リチャード・ブローティガン

藤本和子 訳  新潮文庫  新潮社

福岡ブックスキューブリック箱崎店で購入。
(2019  04/29)

柴田元幸氏によると「文庫化希望の三大海外文学」だったらしい。他の二つは「見えない都市」と「百年の孤独」。現時点で残るは「百年の孤独」。
ブローティガン作品、新潮社ではこの他、「芝生の復讐」という短編集と訳者藤本和子氏による評伝?「リチャード・ブローティガン」がある。

「アメリカの鱒釣り」一人歩き

素直にアメリカでの鱒釣りがいろいろ描かれているわけではない(描かれていないわけでもないけど)のはもちろんのこと、のっけから「アメリカの鱒釣りの表紙」とか「アメリカの鱒釣り」という言葉が言葉の示すシニフィエを離れまくって一人歩きしている。それがこの作品の中ではごく当たり前のように書かれる。

中心に描かれているのは、アル中とか失業者とかの貧困層。そういう主題の点では柴田氏の言うようにカーヴァーの先取りなんだけど、書き方はまるで違う。「白鯨」は確かに意識されているのだろう。もう一つ、ヘミングウェイに「ヨーロッパの鱒釣り」という小エッセイがあって、どうやらこの作品はそれへのアンチテーゼとして書かれたようだ。

と主に柴田氏解説から抜き書きしてわかったように書いている(ちなみに柴田氏はこれ読んで「文学作品に意味なんて見い出すことしなくてもいいんだ」と悟ったという)が、一人歩きする「アメリカの鱒釣り」は読者からどんどん逃げ去ってしまい捉えどころのないものになってしまう。そのあと残るのは虚無感か、それとも他に何かあるのか。
(2019  05/02)

「アメリカの鱒釣り」表紙から扉まで


解説から(タイトルはブローティガン風?)

  幻想は、人工的に現実を完結させない、と思う。むしろそれは、現実を逆探知する回路なのだ。そして探知された現実は、わたしたちの思想を完結させるものとしてあるよりは、完結しがちなわたしたちの洞察を揺さぶるものとしてある。
(p243)


「アメリカの鱒釣り」読み終えた。いろいろあるけど、底辺には娘連れた貧しい釣り好きの父親が、いろんなクリーク回りながら夢想した…そういう話なんでは。

今日読んだ後半では、黒人小娘を娼婦暮らしさせようとした男から守るためにホテルに閉じこもった男の話。あるいは鱒釣り日記に釣り損ねた鱒の数、及び一回につき何匹釣り損ねたかの年割合…で、結局何匹釣れたの?と思うと10年この日記続けて一匹も釣れてない…という話。

クリーヴランド建造物取壊し会社では、建造物だけでなく鱒の棲む小川まで売りに出している、と聞いて出かけていく。滝は便器が積み重ねられて天窓からの光を受けて輝いている売場の壁に立てかけられている。川は長さ別に分けて積まれ、半端ものをまとめた箱もあった。普通こういう書き方は「自然をも切り売りする資本主義の悪弊」として哀しまれるというふうにつながっていきそうだけど、ブローティガンの場合はそれを身に受けた上で笑いや幻想に変えていく力がある。

こういう作品なので、ここに一部引っ張ってくるのは難しいんだけど…例えば…

 石斑魚はぎこちなく死のはね水をあげると、通学路時速二十五マイルなど、この世のあらゆる交通規則を遵守しながら、湖の冷たい水底に沈んでいった。雪をかぶったスクールバスみたいな白い腹をみせて、底に横たわっていた。一匹の鱒が泳ぎ寄って、しばらく眺めていたが、やがて行ってしまった。
(p136-137)


(2019  05/05)

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