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「ラ・カテドラルでの対話(下)」 マリオ・バルガス=リョサ

旦敬介訳 岩波文庫
以前、「集英社世界の文学」で桑名一博訳があった。古本で購入していたものの、手がなかなかつけられなかった。で、岩波文庫から出たこの新訳。

歌姫殺人事件

昨日から下巻。第3部。今度はサンティアーゴが「ラ・クロニカ」の記者となってとある昔の歌姫の殺害事件の警察記事を調査する、という筋立て。書き方は第1部ー第2部そして第3部とわかりやすくはなってはいるのだけれど…あれ、ここはもうオドリア政権が倒れた後の話なのかい…突き抜けてしまった感あり。
(2020  02/28)

第3部、第1章。上に書いた通り歌姫なる女の殺人事件追っていたサンティアーゴに突然修羅場が。読者にとってもいきなりの佳境。

実は殺された歌姫なる女はオルテンシアで、イポンネ(娼婦業界取り仕切っているフランス系婆らしい)のもとでオルテンシアと暮らしていたと証言するのはケタ…第2部との変わり果て方に戸惑っていると、そのケタから、オルテンシアを殺したのは、ドン・フェルミンと同性愛関係にあるアンブローシオだという。
そこに立ち会っていたサンティアーゴにとっては、父親であるドン・フェルミンが殺しを指示したということ(そっちは作り話だと確信していた)より、父親が同性愛者だということの方が衝撃的だった(このことはリマでは有名な話になっていた)。
サンティアーゴはそこを出てカルリートスとともに、第2部でも出てきた酒場で飲みながら話をし、酔いつぶれたカルリートスを部屋に送ってそこで朝まで眠る。翌朝近くの角のカフェで…

  彼はミルク・コーヒーを頼み、時間を訊ね、するともう十時で、もうオフィスにいるはずの時間で、おまえは緊張を感じているわけでも心痛をおぼえているわけでもなかったなサバリータ。電話のところに行くにはカウンターの下をくぐって、麻袋や段ボール箱の置かれた廊下を通らねばならず、番号をダイヤルしながら、蟻の行列が梁をのぼっていくのを彼は見た。チスパスの声だとわかった瞬間、急に手のひらが濡れたーはい、もしもし?「やあチスパス」、すると全身にくすぐったさが、地面がやわらかくなったような感覚が。
「そう、僕だ、サンティアーゴ」
「近海に敵船あり」と囁くような、ほとんど聞こえないチスパスの声、共犯者的な口調。
「もう少ししてからかけ直してくれ、親父がここにいる」
「彼と話したいんだ」とサンティアーゴは言った。
(p61)


サンティアーゴの緊迫した行動、チスパスの洒落た対応(これ以前、兄弟とはサンティアーゴは度々会っていた)、そして父との再会へと、続くのでかなり長めに引用した。この小説は最大のテーマは父と子なんじゃないかと思うのだけど、この小説冒頭から続いていた「ダメになった」という原因が父と子の確執にある、しかしそれが子が自分の道を探し求める唯一のやり方だとすれば…こうした捻れたつながりの連続体が現在に続く歴史なのであろうか。

そして子にもまだ全体が把握しきれていない、この父ドン・フェルミンという人物、読者的にもまだ掴みきれない何かがある。ケタの証言も全くの出鱈目でもないのかも。
(2020  02/29)

生と死の共時性

第2章は時間がまた戻ってランダ議員やドン・フェルミンらのクーデタの収拾をドン・カヨの視点から。この第3部から一つの章が長めになってきた。ドン・フェルミンの性癖が前章では現れてきたけれど、ここではドン・カヨのサディスティックな面も最後に垣間見られる。(2020  03/01)

第3章。

 アンブローシオですって? そうです、もうそれ以来二度と彼女のことをあの部屋に連れていくこともなくなって、フェルミン・サバラの運転手の? そうです、軽い食事をおごるだけですぐに帰っていって、もう何年もその彼とつきあってるわけなの? そして彼女を見やって、頭を振って、こんな話まったく誰が信じるだろうか。ほんとに頭がおかしいんです。疑い深くて、なんでもかんでも秘密にしたがって奥様、彼女のことを恥ずかしく思っていて、今度も前と同じように彼女のことを捨てようとしているのだった。
(p184)

ここだけでなく、第3部第3章の後半この辺りこんな感じの文章が続く。基本はアマーリア(彼女)が奥様(オルテンシア)にアンブローシオのことを伝えている場面。一つの文にアマーリアとオルテンシアそして地の文(自由間接話法)が入り混じっている。他の箇所では違う時点の会話が織り込まれていることもあり。長い段落で息のつまる体感。

この後、アマーリアが(たぶん)アンブローシオの子供を産み、昏睡状態にあった頃に、第3部冒頭にあったオルテンシア殺害が起こる。生と死の隣り合わせ。そして一時親類のところに身を寄せていたアマーリアを待ち伏せして、アンブローシオは彼女を連れてリマを出てジャングル地帯へ向かう。それが幾度か言及あるもののまだ作品表面には出てきていないプカルパなのだろうか。(2020 03/05)

白い町でトリフルシオは何を考えたのか

第3部読了。この第3部は4章仕立て。オルテンシアの殺害とサンティアーゴと父の和解、第一回目のドン・カヨ追放クーデタ失敗とドン・カヨの歪んだ性、上記オルテンシアの没落と死そしてアマーリアの出産、と各章これまで隠されていた核心部分に突入し、これまでより一気に読ませる展開。四部構成だからか、ペルーなどのスペイン語圏にこういう表現があるかどうかは知らないけれど、「起承転結」の「転」の部ではないか、と思う。

この第4章はアレキパでの第二回目のドン・カヨ追放クーデタ。これを阻止しようとドン・カヨ側では屈強な男達を各地から引き連れる…はずが、いろいろな駆け引き(ロサーノとかエミリオ将軍とか)で人員が絶望的に少ない。その中に入っていたのがトリフルシオ(アンブローシオの父親)と、ルドヴィコ(アンブローシオの同僚)。

章は重症を負ったルドヴィコをアンブローシオが見舞うところから始まる。この章の外側の語りとしてこの二人の会話が随時挿入される(この章ではアンブローシオとサンティアーゴの語りが出てこない)。一方のトリフルシオはこのアレキパの反ドン・カヨの集会が行われていた劇場で命を落とす(そういえば、外側の語りをしている時点のアンブローシオは父親の死を知っていたのだろうか)。この章で印象的なのはやはりトリフルシオの意識。ここもちょっと引用長めで。

 だいたい五時間で劇場の仕事は終わるだろう、とトリフルシオは考えていた、それから夜は八時間あって、もしかすると正午まで彼らは出発しないかもしれなかったーそんなに持ちこたえたれそうもなかった。日が暮れてきて、寒さが増してくる中で、屋台店の合間にはロウソクの灯った小テーブルが置かれ、そこで食事をしている人もいた。両足が震え、背中が濡れていて、こめかみは火のように熱かった。荷箱の上に崩れるように座って、胸に手をやったーまだ鼓動があった。布地を売っている女が店のカウンターのところから彼のことを見て、大きな笑い声をあげたーあんたみたいなのを見るのは初めてだよ、映画で見るだけでね。たしかにそうだ、とトリフルシオは考えた、アレキパには黒人がいない。病気なのかい? とその女は言った、水でも飲むかい? ああ、ありがとう。病気ではない、標高のせいなのだった。(p229-230)

トリフルシオはなんだか、劇場の仕事の為でも、標高とか病気の為でもなく、死期がすぐ迫っていることを予感していたようだ。そうした男の立ち振る舞いがこうして伝わってくる。
(この「白い町」と呼ばれるアレキパは、リョサの生地でもある)
(2020 03/08)

笑う憎悪

第4部開始。今度の部はどんな手を使ってくるのかな、と恐る恐るというか手探りで、読み進める。今のところ、第1章までだけど、第2部に近い構成なのかも、と思う。

 彼女は笑いだし、彼を憎悪しはじめた。
(p277)

ケタとドン・カヨの出会いの場面…らしい。なんで笑いながら憎悪できるのか不思議だけど、ものすごい憎悪なのだろうことはこれで伝わってくる。
始まりはまだ静か。
(2020 03/11)

父親になる日、ならない迷い

 「でもどうして父親になるというのが、そんなに嫌なんですか」とアンブローシオは言う。「誰もがそんなふうに考えたら、ペルーには人間がいなくなっちゃうじゃないですか坊ちゃん」
「《ラ・クロニカ》で働いているんですって?」と彼女はくりかえした。片手はドアにかけて、今にも出ていきそうな体勢なのだが、もう五分前からずっとそこにいるのだった。
「報道って、面白いことがいっぱいあるんでしょうね、どうなんですか?」
「まあ、あたしも告白しますけど、自分が父親になるって知ったときには、あたしも震えあがりましたよ」とアンブローシオは言う。「でも、その後は誰でも慣れるもんですよ坊ちゃん」
「まあそうとも言えるけど、マイナス面もあるんですよ、いつどんなひどい目にあうかわからなくて」とサンティアーゴは言った。「それより、ちょっとお願いを聞いてくれませんか。誰かに頼んで煙草を買ってきてもらえませんか?」
「患者さんは煙草は吸えないんですよ、禁止されてるんです」と彼女は言った。
(p318)

長めに引用しないとこの小説の語りが伝わらないのが困った?ところ…

父と子というのがこの作品の大きなテーマなのだが、サンティアーゴの父親に対する思いや感情が、翻って自分とその子供という場に展開されている。彼は結婚しているのだが、子供はまだ作っていない、彼女もそれを理解している…とこの次のページで言っているのだが。

さてさて、このp318の場面なのだが、地方へ車で取材しに行った《ラ・クロニカ》一行は、道路の整備不良等で事故に遭う。現地の病院で「経過観察」となっている、という場面。ここでの彼女がその病院の看護師、であり、実はこの後サンティアーゴの結婚相手となるらしい(作品冒頭振り返ってみようかな)。それと枠物語のサンティアーゴとアンブローシオの語りが並行して進む。だから、「まあそうとも言えるけど…」というところが、アンブローシオへの対応にも読んでいて思ってしまう。こうした手法がここだけでなく随所に見られるのが、この作品の面白いところの一つ。

で、第4部なのだけど、これまでの展開が一気に混ざり合って衝撃のラストに突き進む…というのではなく、また新たな見えてなかった意外な視点から語られていく。このサンティアーゴの結婚相手というのもその一つ(兄弟の中で一番結婚が早かった、というのも意外な展開)。クローズアップされてきたのがケタで、ケタがアンブローシオ、ドン・カヨ、オルテンシアに初めて会った場面、そしてアンブローシオがケタに勇気を持って迫っていく、という展開…これどの時期の挿話でどう収束していくのだろう。

一方、サンティアーゴとドン・フェルミンの対話は続いていて、いつも言う「弁護士になって会社を引き継いで欲しい」というのが、もう諦めた上で頑固な繰り返しとなっていた、というのが心に残る。自分のことも踏まえた上で。
(2020 03/14)

おまえとあなたの乱反射とメキシコ映画

400ページ越えて、第5章437ページまで。
アナはサンティアーゴの子供を孕んだが、彼の為に下ろすことに同意する。父親のテーマがここにも現れる。

 そのひどい悲しみのさなかで、彼女は、おまえがあれほどひどく恐れていたことから、アモール、あなたを解き放つことができてうれしい、と言っていた。彼女は、おまえが彼女を愛していないことがわかった、あなたにとってはとってただの遊びだったことがわかったのだった。でも彼女のほうはおまえを愛しているので、それを受け入れるのがつらいのだった。だからもうおまえには二度と会わないのだった。時間があなたを忘れさせてくれるはずなのだった。
(p373ー374)

「おまえ」は外側の語りで自分を回想するサンティアーゴ自身から、「あなた」はサンティアーゴに語りかけるアナから。「おまえ」と「あなた」が入れ替わりながら、そこに自由間接話法まで加わって、読んでいてくらくらしてくるような感じ。それがこの場のサンティアーゴの状況を追体験しているような、そんな文章。

このことがあって、サンティアーゴはアナと結婚する決意をする。前書いた通り、兄弟の中では一番早いのだが、家族へのお披露目は波乱を巻き起こす。ちょうどアナが好きで、メロドラマの代名詞にもなっていたメキシコ映画のように(ただ、リョサは読書を引きつけるものはこうしたメロドラマの力なのだ、とも書いていた)。

 そこで母さんといったらサバリータ、目をしばたいて、唇を噛みしめて、椅子の中でむずむずしているのだった。まるで蟻の巣の中にいるみたいに。
(p407)

女中みたいな女と結婚なんかして身内に恥ずかしくないのと罵るソイラ夫人を、ここで離れた一読者の立場から批判することは簡単なんだけど、身分階層社会が堅牢なペルー社会の只中にいることを考えておかないと。

その他、ケタとアンブローシオの道行が、その二人の語りによる枠物語を作り、そこで、ドン・フェルミンに同性愛行為を迫られる、という挿話が語られる。これが第3部冒頭でのケタの告白につながっていく。
(2020 03/16)

閉じていく円環

 あることと別のことの間にどれほどの時間が経過したのか全然わからないまま、彼らが話しているのをずっと聞いていたが、今では長い沈黙が音を立てているのが聞こえていた。ずっと自分が浮かんでいるのを感じていて、水に少し沈んでは浮かびあがって、また沈むのを感じると、突然、アマーリア・オルテンシアの顔が見えたのだった。そして聞こえたのだったーおうちに入る前によく足を洗うのよ。
(p465)

アマーリアの死の場面…ここから死が三連続するわけだが…地の文ではアンブローシオが約束の仕事に行くのをやめて待っているのだが、そこに挟まれるアマーリアの意識…最後の言葉は彼女自身が子供だった頃の母の言葉だったのだろうか?

このアマーリアの意識の介入が次のページであと2回あって彼女は亡くなる。そして亡くなった後、アンブローシオに病院の治療費の催促と、ルドヴィコの親類で共同出資者となっていたドン・イラリオのいろいろな策略がついて回る。彼はアマーリア・オルテンシアを仲間に預け、単身リマへ戻るのだった。

次の章に入ってすぐカルトーリスの死と、その話にうながされたようにドン・フェルミンの死も描かれる。ドン・フェルミンの死の少し前に、サンティアーゴ夫妻のところに現れたのが犬のバトゥーケ。生と死の円環を感じるところであるのと同時に、この犬が結果的にサンティアーゴとアンブローシオを再び繋ぐことになる作品構造の円環も見えてくる。

一方アンブローシオの方は、狂犬病捕獲員になる前に田舎のチンチャを訪れる。父親のトリフルシオの面影が現れる。

 彼はトリフルシオがあの晩、彼がリマに出発する前の晩、一緒に暗がりを歩いていたときに言ったことを思い出したーオレはチンチャにいるのに、いないみたいな気がする、全部見覚えがあるのに、何も見覚えがない。今では彼には、あれが何を言いたかったのか、よくわかった。
(p522)

アンブローシオとケタの話は、彼らが話すアンブローシオとドン・フェルミンの関係の中で、この二人もまた話し合っていたということがわかってくる。そうか、第1部第3章での外枠の会話がこの二人だったんだな。

サンティアーゴはテテの結婚式も、チスパスの結婚式も行かず、ドン・フェルミンの遺産相続も一切受け取らなかった。今まではサンティアーゴに寄り添って読んできたから彼のこだわりもわかってきたつもりだったが、ここまで来るとさすがに何の意地なのかよくわからなくなってしまう。

静かに閉じていく円環、いろいろな思いを持ち込んだまま亡くなっていく人間。劇的な展開というより余韻を残して、この1100ページの小説も閉じる。
(2020 03/17)

補足


あ、忘れてたけど、結局、下巻冒頭オルテンシアを殺したのは本当にアンブローシオだったのかな。第4部のアンブローシオとケタの対話ではぎりぎりまで書かれていたけど、結論は闇の中…ケタは確信しているけど。

第1部第1章の一番大枠のラ・カテドラルでの対話、サンティアーゴとアンブローシオとの対話の最後で喧嘩別れしていたけど、最後まで読んでもそこには喧嘩別れの理由がなかった(時間押しているのは別だけど)。ひょっとしたらサンティアーゴがオルテンシアの殺害についてほのめかしたりしたのかな、あるとすれば…
(2020 03/18 補足終わり)

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