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愛と呼ぶには酸鼻な、されど確かな愛 ミュージカル『スリル・ミー』


ずっと気になっていたミュージカル『スリル・ミー』

ゲイである僕にはやはり、男性同士の愛の物語であるということがフックの一つでもあったのですが、それよりなにより目を引いたのは「”私“と”彼“ そして一台のピアノのみで繰り広げられる息もつかせぬ100分間」というキャッチコピー。
元々二人芝居や人数の少ないお芝居の密度というものが大好きでしたし、今まで実際に観劇したミュージカルといえば浦井版『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』しかないので、二人で紡ぐミュージカルというのものの濃さを知った上でこの作品にとても惹かれました。
しかしお金を使うことに臆病なくせがある自分。今までも迷った挙句にチケットを取らず、見送ってしまうことが多々……。その上あの衝撃的な座席表を見てしまったもので、例に漏れずスリル・ミーもチケットは取りませんでした。
でもちょろちょろとXにて流れてくる感想は目に入るもので、「あ、そんな面白いんだ…」「あ、Yシートあったやん…(まだギリいける)」「やっぱ観に行けば良かったかな…」と後悔の念がダダ漏れ。最終的に観たい欲が爆発し、英語版の歌詞を和訳して(別に堪能なわけでもないのに)大まかな物語を知ろうとする始末。なら行けば良かったのにね。
そんな時にふと舞い込んできた配信決定のお知らせ! 配信期間一週間の間は何度だって観られるし、気になるところを巻き戻したり歌詞をメモしたりもできる!と小躍りしながら配信チケットを購入しました。
さて前置きが長くなりましたが、ここからは僕が配信で観劇した2ペアの印象、そして作品の印象についてを視聴中に時々取っていたメモを軸に書いていこうかと思います。一応、自分の性格上「私」に寄った感想になることを先にお断りしておきます。


2ペアそれぞれの印象

配信が決まったのはよし。しかし問題はどのペアを観るかということ。僕には公演決定当初から気になっていたペアが2組ありました。
それは、(私)木村達成さん×(彼)前田公輝さんペアと、(私)松岡広大さん×(彼)山崎大輝さんペアです。(松也さん廣瀬さんごめんなさい…)
そしてさらに細かく言うと前田さんの彼と松岡さんの私が観たいと思っていたので、「どうせならこの2人でやってくれればいいのにな〜」などと失礼なことも考えていました(今となっては両ペアそれぞれの組み合わせが至高だと分かってますよ!)。

そんな中でも特に観たかったのが松岡さんが演じる”私“。正直な話をすると、今まで舞台だけでなく映像でも幅広く活躍されている松岡さんのお芝居をなんだかんだで一度も観たことはなく、唯一認識している出演作といえば「壁こじ」ぐらいのもので。その後「らんまん」で初めてお芝居を拝見したのですが、ではなんでそんなに松岡さんの私が観たかったかというときっかけは半年ほど前のあるツイート。

松岡さんが舞台「ラビット・ホール」を観劇された感想に続けられたこのツイート。絶賛U-25対象期間中である僕にとってこのツイートは目から鱗でしたし、何よりも若い世代に演劇を繋げようという姿勢に感銘を受けました。
そしてすっかりその気になった僕は早速U-25チケットを購入して同じ「ラビット・ホール」を観劇。おかげで素晴らしい体験が出来ました。(ただその時の行動力がなぜスリル・ミーの時に無かったのか…。誰かひっぱたいてください)

少し話が逸れますが、個人的に尊敬したい人の要素として「世界が複雑になるのを臆さない」というのがあります。
分かりにくい言い方で恐縮ですが、例えば、俳優さんというのは最低限役になって、その役を見事に演じきれればそれで十分だと思うんです。演劇の未来や、若い世代を劇場に呼び込むには〜なんて難しいことを考えて、不都合な現実や限界なんかを知って傷つくぐらいなら、目の前の役にだけ集中していた方が楽じゃないですか。それが悪いと言いたいわけではないですが、そうやって自分の世界がどんどん複雑になって、知りたくないことも知ることに対して臆さない人のことを尊敬したいと個人的に思うんです。
また、配信を視聴した後、YouTubeのコメント動画やラジオを聞いてみると、演劇の範囲に限らず色んなことを見て、多面的に考えて、深化させていく人なのだなと再認識しました。

そんな感情があったので、いつかこの方の作る演劇というものを一目見たいと望んでいたのが松岡広大さんでした。
というわけで松岡私×山崎彼ペアのチケットは迷わず購入。迷っていたのは木村私×前田彼ペアだったのですが、前者のペアを観たらもう観ないという選択肢は無く、最終的に2ペアを交互に観るような形になりました。

普遍性と人間味の増幅 松岡(私)×山崎(彼)ペア

まず最初に視聴した、俗にいう“ヤマコー”ペア。このお二人のスリル・ミーを一言で表現するならば「普遍性と人間味の増幅」だと思います。
その前に一言だけいいですか、初めてというのもあってか本当に視聴中鳥肌が止まらなかった。事あるごとに肌にビリビリと衝撃が走って、恐ろしく力を持った演目であるんだなと感じました。あと部屋を真っ暗にして観たのも良かった。

さて、待ち望んだ松岡私の印象は、意外と人間味が強いなというものでした。愛ゆえに犯罪を犯すという物語から、もっと狂気に満ちて逸脱したお芝居になるのかと思いきや、意外と地に足の着いた感じ。それを個人的に強く感じたのが彼との関係性。木村私との違いは後述するものと読み比べていただきたいのですが、松岡私は高圧的な彼に対して真正面から向かい合って一蹴されるというか。圧倒的な支配下にあるのではなく、ベースは対等な関係なはずなのに結果的に彼の方が上に立っているという雰囲気を感じました。彼に対しての憤りや畏怖、呆れ、諦観なんかを強く感じたのも特徴的でした。

そして山崎大輝さん演じる彼。山崎さんに関しては本当に初めましての役者さんで全く想像がつかなかったのですが、舞台役者さんらしい低くよく通る声と、威圧的な態度にも何か荘厳さを感じさせるような品が印象的でした。また山崎彼に感じたのは「生まれながらの性格」。これもまた前田彼との違いは後述しますが、私を翻弄するような態度や言動をする時、山崎彼は楽しむとか面白がるというよりはその選択しか見えていないというか。どこかのタイミングで「こいつはこう扱ったら面白いな」と選び取ったものではなく、生まれ持った性格としての支配的な態度という印象を受けました。

そんな二人がぶつかったスリル・ミーはまさに普遍性の高いお芝居。松岡さんもしきりに「他人事にはしてほしくない」と仰っていた通り、身に覚えのある感情でどんどんと恐ろしい事態に発展していく様が、自分というものに密接していく「スリル・ミー」だったと思います。

若き愛と狂気の暴走 木村(私)×前田(彼)ペア

さて。ヤマコーペアを観劇し、居ても立っても居られずに木村私×前田彼ペアのチケットを購入。(このペア通称とかあるんですかね?)

木村さんも初めましての役者さんで、BLドラマファンとして、認識している出演作と言えば「オールドファッションカップケーキ」ぐらいのもの。そんな木村私に抱いた印象は「愛と狂気」もうこれに尽きます。終盤に向けて、自分の目的のためにどんどんと内に秘めた狂気を露見させていく私。ラスト、自分の目的を明かし「99年」に繋がっていく場面の狂気的な笑みたるや…。しかしそこにしっかりと愛ある眼差しが込められていて、恐ろしいながらも美しい、そんな笑みが頭から離れません。
また松岡私と比べて、木村私からは彼との対等でない関係性を感じました。ヤマコーペアとは違って彼を見上げているような、彼の翻弄する性格にも致し方なさ、もっと言うと心酔しているような感じ。関係性の違いがペアごとでこうも違って見えるのかと驚きました。(あと鳥に目キラキラなの可愛かったね)

前田さんは今回のキャストさんの中では出演作を拝見している方で。なので出演者が発表された際「この方が演じる“彼“はとてつもなくスマートでカッコいい人物になるのでは!?」と心惹かれました。結果その期待を見事に上回る、正統派ハンサムに高圧的な態度がピッタリの彼でした。
前田彼に抱いたのは「若さゆえの暴走」という印象。若さゆえの無敵感や、その実抱えるコンプレックスが混ぜ合わさって取り返しのつかない事態になっていく。『スリル・ミー』前の盗みに入った家から逃げ帰ってきた場面や『計画』の間に入ってくる「俺は最近親父がケチで」というセリフにそんな裏腹な感情が滲み出ていました。また前述した山崎彼の印象とは対照的に、前田彼は私の反応を楽しんでいるような印象を受けたのも、若さを感じた要因の一つだったように思います。

「スリル・ミー」という作品の印象

これまでペアそれぞれの印象を書いてきましたが、ここからは作品全体の印象を書いていこうかと思います。

舞台に役者二人、ピアノ一台という構成

突然ですが、僕は昔からSEKAI NO OWARIのファンで。セカオワにはピアノ担当のメンバーがいて、バンドには珍しくほとんどの楽曲にピアノが用いられています。その影響か、普通のJPOPなどでもピアノの入っている曲が好きで、なんというかピアノの音色にはその曲のドラマ性を高めてくれる効果があるような気がするんですよね。
そんなドラマチックなピアノの音色のみで展開する『スリル・ミー』は、シンプルな構成ながら音楽としての力も強く、それでいて歌詞もストレートに入ってくる。旋律の緩急や打鍵の強弱で物語のうねりをさらに大きく感じました。

また、舞台には役者が二人だけ、しかも立つ舞台には構造物は少なく余白が多い。これも観客の想像力でいかようにも埋める楽しみがあって良かったです。特にそれを感じたのが『スポーツカー』のシーン。彼が(観客には見えない)子供を車へ誘い、ヘッドライトが消えると赤い照明が落ちた後に暗転する。直接的な描写は無く、あの暗くなった中ではどんなに凄惨なことが行われていたのか、想像力次第でどれだけでも広げられる恐ろしさのあるシーンでした。

“私”という役柄について

彼を心の底から愛し、彼に離れてほしくない、彼を自分のものにしたいと犯罪に手を染め、果てには殺人まで犯してしまう私。それだけ聞くと、いやいやそんなことないでしょありえない、と線を引いて遠くに感じてしまいそうな役柄ですが、「他人事にしてほしくない」という松岡さんの言葉に従って少し考えてみます。
例えば、自分が心から好きな人と歩いている最中、相手が突然赤信号を無視して向こう側へ渡り、そのまま「お前も来いよ!」と言われたらどうするか。迷って動けない間に「もう置いていくぞ」と言われたらどうするか。僕は赤信号を渡らないとは言い切れません。もちろん事の大小はあるものの、嫌われたくないと相手の意向に沿う言動をしてしまう、たとえそれが犯罪だとしても100%あり得ないとは言い切れないと思います。

しかし段々と肥大していく彼の要求に、私はある計画を人知れず立てていきます。彼が殺人計画を立てる『計画』という曲があるのですが、意気揚々と方法を考える彼の裏で密かに私も計画を立てているというのが面白いですよね。二人で合わせて歌う「犠牲の羊」「犠牲の子供」が同じ方向を向いているように見えて実はそれぞれ自分の目的にしか向いていないんです。

殺人を犯した後、私は現場に眼鏡を落としたことに気付きます。実際はわざと落としたわけですが、何も気付かず「ここまでは完璧だ」と話す彼に対して、「あぁ、完璧だ」とこぼす私にはゾクリとしました。
ここでちょっと気になったのは、なぜ私は彼に眼鏡を落としたことを話したのかということ。一緒に捕まって彼を自分のものにすることが目的なら、何も言わずに出頭して全てを自白すれば簡単です。それでもそうしなかったのは、きっと彼から一言でもいいから「一緒にいよう」と言って欲しかったからじゃないでしょうか。確かに眼鏡だけじゃ決定的な証拠にはならないわけですから、彼が歩み寄ってくれたら、この窮地を共に乗り越えんとしてくれたなら、また違った未来があったかもしれません。

しかし自己保身にばかり走る彼に、私は出頭して全てを警察に告白します。そして彼が連れてこられて初めて、『俺と組んで』で「2人でいよう」と望んだ言葉を聞くことが出来、私は彼の要求を飲みます。ただ、望みが叶った喜びとは裏腹に、こうでもしないとこの愛を繋ぎ止められなかった、という自嘲的なニュアンスがやけに虚しく感じました。

その後、刑務所で共に過ごしたのも束の間、彼はシャワー室で他の囚人に刺されて死に、そしてそれから歳月が経ち私は自由の身になります。
その時私が二回、力無くこぼした「自由」という言葉。彼と共に生きるために掴んだ「不自由」が、今や彼のいない世界であっけなく崩れていく。「自由」という言葉のイメージとは反対に、私がこの先に抱える孤独が強く表れていたような気がします。
彼を途方もなく愛し続け、彼を自分のものにするために捧げた“人生プラス99年”。そのはずなのに、写真に向かって「待ってたよ」と呼びかけることしか出来ないその姿はなんとも切なく、それでいて彼と再会できた喜びも感じます。

振り返ってみると私という役柄は「話す/話したくない」「愛されたい/愛されない」「恐怖/悦楽」「孤独/充足感」「自由/不自由」と、アンビバレントな感情が常に同居していたキャラクターに思います。僕自身私の感情を譜面通りに受け取っていいものかと色々勘ぐっていましたが、そのどれもが裏表になっているのが私なのかもしれません。

“彼”という役柄について

彼という役は、前述したように無敵感とそれに相反するコンプレックスを抱えたアンバランスな役柄です。弟ばかりを贔屓し自分を下に扱う父親を見返すためか、ニーチェの超人という思想に傾倒し、偉大なことをしようと殺人を計画します。
まるで、超人である自分の目的のためなら、他の数多の平凡な人間は犠牲にしてもいいと言わんばかりの言動ですが、その実いざ狙うのは自分より力の弱い子供というのが皮肉ですよね。
昔『ディストラクション・ベイビーズ』という映画があったんですが、

柳楽優弥さん演じる凶暴な男・泰良を味方に付けた、菅田将暉さん演じる裕也が街ゆく人々に無差別に暴力を振るうというシーンがあるのですが、自分は弱い女性ばかりを狙い、強そうな男性が出てきたら泰良を盾にするんです。
ニーチェの超人思想という圧倒的な味方を得、全能感を抱いても狙えるのは腕っぷしでどうにか出来る子供だけ。そんなところに、冷静に振る舞う裏での彼の自信の無さが表れていたように思います。

そして警察に追われ、捕まると今まで着けていた冷静の仮面がボロボロと壊れていく。人を殺しておいて『死にたくない』と取り乱して叫ぶ彼はなんとも愚かしく、しかしそれでいて私には冷静な自分を装う、超人でもサイコパスでもない一人の人間の弱さが詰まったキャラクターでした。

その他の雑感

ここからは、ちょこちょこと抱いた、または気付いた雑感を箇条書きで書いていきます。

・冒頭、『前奏曲』内で流れる『スポーツカー』『俺と組んで』のメロディ

私が暗闇から登場し、いざ審理委員会が始まろうという時に流れるんですが、彼らにとって分岐点となった二曲のメロディが流れることで、私の奥に彼の影が見えるような気がしました。

・彼の望みを先回りする私
他の方の感想で知ったのですが、『僕はわかってる』で彼の言葉より先にマッチを差し出していることで彼よりも一歩先を行っているということを暗示しているとあって、ほぉ〜〜〜と納得。

・「契約法の勉強に役立つね」ジョーク無視されるの二回目な私
これは本当どうでもいいです。冒頭の34年前の場面で一度「五度目の正直ということですか」というジョークを無視されていたので、ことごとく私のジョークは受けないなーと思っただけです。うん、それだけ。でもちょっと面白い。

・ピアノと音を合わせるの上手すぎる
『契約書』で指を切る場面でのピアノの音とのタイミング、バッチリ過ぎてびっくりしましたよね。ピアニストの方も出来る限り合わせてくださるのかもしれませんが、後ろを向いて弾くわけにもいかないわけですから「この台詞を言い終わった後にこのフレーズを何回繰り返したら鳴らしますね」とかって合わせてるんですかね……、いや難しくない?

・言葉に迷って「友達」と言う松岡私
34年前の審理委員会で「彼の友情が必要でした」と言う場面があります。ここを松岡さんは「彼の……、友情が必要でした」と言葉に詰まる表現をしていました(恐らくト書きではない)。その当時、世界各国ではソドミー法という同性間を含む特定の性行為を禁止する法律がありました。博学な松岡さんのことですから、そういった法律のある背景を台詞に込めたんだなと感じ、脱帽しました。

・善の顔をして近づいてくる悪
彼が子供を車に誘う曲『スポーツカー』。ニコニコとしながら殺すために子供を誘う、しかも子供の姿は見えていないのに最初は渋っていた子供が少しずつ心を許していく様が見える、この作品の中で最も恐ろしい曲です。この曲もそれぞれの彼でアプローチが違って、声の強弱や表情の変化で恐ろしさを強調した山崎彼、好青年的な笑顔でいいお兄さん風を装う前田彼とそれぞれを見比べる楽しみがありました。

・ピアニストさんの違い
視聴中は濃密な物語とお芝居を堪能するのに手一杯でなかなかピアノ演奏を深く聴き込むということが出来なかったのですが、一箇所だけ気付いた点がありました。
それは『スポーツカー』の終わり方の違い。ヤマコーペアのピアニスト・篠塚祐伴さんは段々と打鍵を弱めてフェードアウトしていくのに対して木村さん×前田さんペアのピアニスト・落合崇史さん(音楽監督も担当されてますね!)は恐ろしげな強い打鍵のまま途切れるような終わり方でした。
なんだかあまり違い違いというのも辟易されるかもしれませんが、お二人がそれぞれどのような解釈でその表現を選択したのか気になります。(あとあの暗い中でよく楽譜が読めるなと)

・二人一緒のシーンの終わり
この作品は基本的にシーンとシーンの間は彼が退場し、私が一人で舞台上に残されることがほとんどです。しかし三回だけ例外がありました。それは『スリル・ミー』、『計画』、そして『超人たち』という三曲の終わり。ですがそれも決して幸せな雰囲気ではなく、彼にその気が無かったり、彼の愛というものを遠く感じたり、決定的な共犯関係になった後だったりと私のもどかしさを強調させる終わり方でもありました。

・二羽の奇妙な鳥
これは終盤、私が自分の目的を明かす際に最初に放ったセリフの中に出てくる表現です。
「奇妙な鳥が二羽、籠の中で飼われてるみたいにね。もう離れられない」僕はこのセリフが一番好きで。特に「奇妙な」という言い回しに、脚が三本だったり頭が二つだったりするような異形の鳥が思い浮かぶんです。そんな二羽の鳥が、片やじたばたと外に出ようとし、片やそれを愉悦の目で見つめる。そんな私の精神世界が現実に完成されたような気分を手に取るように感じられるセリフで大好きです。

・ほおずきの意味
カーテンコールが終わり、放心状態でスタッフロールを眺めていたところ「写真 〜〜〜〜(ほおずき)」という文字が目に止まりました。ん?と思い、すぐにあぁそういえばポスターにほおずきが載ってたな〜と何の気なしに花言葉を調べてみると……
「偽り」「私を誘って」!!!!!!!!!
どひゃー!とひっくり返り「私の花じゃん!!!!」と。「私を誘って」なんてまんま「スリル・ミー!」じゃん!!! 恐らく日本版ならではの隠された意図に嬉しくなってしまいました。(ちなみに「自然美」や「心の平安」という花言葉もあるそうです)

最後に

この記事の仮タイトルは、「愛と呼ぶには生臭い、されど究極の愛」というものでした。僕はこの「生臭い」という単語が割に気に入っていて、忌避すべきであるというニュアンスや、じっとりと絡まるような湿度の感じ、人間の恐ろしさや剥き出しの感情が「血生臭い」ではなく「生臭い」。ですが、さすがに言葉が強すぎるのと、それでもなお背徳的に惹かれてしまうというイメージに合わなかったので「酸鼻な」という言葉に変えました。
また「究極の愛」という部分も「確かな愛」と変えました。美化するような言葉が果たして適しているのか。この物語は昔話や名作映画のような美しい愛の物語ではなく、稚拙で残忍で無責任な19歳の少年同士の物語。
しかし、物語を突き抜ける一本の軸を指す言葉はやはり「愛」でしかなくて。私が彼に向ける恋愛や性愛といった愛おしさを持つ「愛」と、彼が私に向ける同じ超人同士としての尊意や仲間的意識を持つ「愛」。その愛はどこでどう間違えてあんな形になってしまったのか。そんなやるせない気持ちが燻っている間は、“私”と“彼”の残像は頭から離れないでしょう。

また(既にご存知の方も多いと思いますが)、Audeeにて配信されている『松岡広大のDressing Park』並びに『木村達成 Call the tune』にてそれぞれの相方をゲストに迎えたラジオを聴くことが出来ます。

(サイトだと順番バラバラになってて見つけにくいですが、ヤマコーペアは前編後編とあります。なんなら2021年のお二人にとっての初演時のも)
それぞれのペアのスリル・ミー談義が聴けるのはもちろん、最初から最後まで「ヤマザァーキーィ!!」と山崎さんをいじり倒す松岡さんと、突然「ハピネス」を自称しリスナーのことを「ギャル」と呼ぶ木村さんに度肝を抜かれること間違いなし笑! 完全に頭の中が「私と彼」で来ていたので思わぬ俳優さんたちの素のテンションに置き去りにされかけましたが、一聴の価値ありです。

さて、書きたいことも一通り書けたのでもうそろそろ終わりにしようかなと思います。ここまで読んで下さった方々、本当にありがとうございました。長くてダラダラと書かれた取り止めのない文章でしたが、何か琴線に触れる言葉が一つでもあったら幸いです。
そして演者の皆様、ピアニストの皆様、演出の栗山民也さん、その他公演関係者の皆様にもこの場で感謝を申し上げます。一つの作品に対してこんなにも、ああだろうかこうだろうかと思考の枝葉を広げられたのは皆様の努力、感性、技術のおかげです。松岡さんはこの作品をずっとやり続けたいとお話しされていたので、その言葉を間に受けて再演の日を心待ちにさせて頂きます。

最後に、最後なら許されると思ってくだらないことを言ってもいいですか、どうしても気になるんです。

五分で事をし終えるの早くない?

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