【短編小説】お喋り猫は白昼夢の狭間

「ただいま」
 少女の声が夕暮れに赤く染まる家の中へと響き渡る。
 しかし、その声に答えるものは誰もいない。女の子自身、自分以外に誰もいないことはわかっていた。
 入ってきた玄関の扉に鍵をかけ、肩からランドセルをおろすとその中へと鍵をしまう。
 そして女の子は静まり返る廊下をゆっくりと歩いていった。
 フローリングの板張りが軽く軋む音を立てるが、他には女の子の足音以外何も聞こえない。
 そうして女の子はリビングルームへと近づき、中を覗き込んだ。そして予想通り誰もいないことを確認し安堵する。
 女の子はリビングを離れ階段を昇ると、自分の部屋の扉を開けて中へと入った。
 手に持ったランドセルを部屋の隅へと放り投げ、ベッドの上へ勢いよくうつ伏せで倒れ込むと一つため息をついた。
 今度は体を半回転させ仰向けになると、ジッと天井を見つめる。
「何で私ばかりこんな目に遭うんだろう」
 思わず呟いた独り言と共に女の子の視界は涙で滲む。そして女の子は寝転がったまま部屋の隅に置かれた姿見を見つめた。
 そこに映っていたのは、明るい茶色の髪に真っ白な肌を持つ女の子自身の姿だった。
 自分の姿を再確認した女の子は憮然とした表情を作る。他の子と違うこの髪と肌の色のせいで、なぜか他の子たちからいじめられるのだ。
 幸いなことに両親は仕事でまだ帰ってきていない。二人が帰ってくる前に、いつもの明るい美咲に戻らなければ。
 美咲はそう考えると目元に溜まった涙を手で拭い、ベッドから上半身を起き上がらせ立ちあがろうとする。
 その時、ベッドの傍らに佇む小さな影に気がついた。
「あれ、大福?」
 そこには、茶トラの猫がいた。この家に住む大福という名の飼い猫である。
 大福はただのペットではない。美咲が生まれる前からこの家で暮らしている美咲の先輩とも言える存在なのである。そのため、その面構えには貫禄すら漂っていた。
 しかし、美咲が帰ってくるこの時間はいつもなら大福はリビングで丸まって眠っている。美咲の部屋まで来るのは珍しい。
「もしかして、お腹空いたの?」
 美咲がそう大福に尋ねる。大福に話しかけるのは一人で留守番をしていることが多い美咲の習慣だった。
 だが今日は、美咲にとって思いがけないことが起きた。
「いいや、まだ飯には早いだろ」
「うわあ!」
 その声に美咲は驚いてベッドの上で後ずさる。それもそのはず、今の声は喋るはずがない大福が発しているようにしか聞こえなかった。
「だ、大福、あなた喋れたの?」
 美咲のその問いかけに、大福は首を傾げながら答える。
「喋れるに決まってるじゃないか。美咲、何を言ってるんだ?」
 さも当然といった様子で答える大福に美咲は混乱する。猫が人の言葉を喋るなんて聞いたことがないのだが、それは美咲が知らなかっただけなのだろうか?
 母が帰ったら聞いてみようと美咲が考えていると、それを遮るように大福が話しかけてきた。
「ところで美咲、何で泣いてるんだ? さっきリビングを覗いていた時も様子がおかしかったぞ」
 その言葉を聞いた美咲はビクリと肩を震わせる。泣き顔は誰にも見せないように気を張っていた。両親が知ったら心配するだろうからだ。
 しかし、既に大福には知られてしまっていた。
 もしも大福が喋ることが出来なければ美咲は何も思わなかっただろう。だが、まるで人間のように美咲を気遣う大福の言葉を聞き、美咲の心の中は色々な感情が吹き荒れ、そして目からは再び大粒の涙が溢れ始めた。
 そして美咲はベッドの上に座り込みながら大声で泣き始めたのである。
「お、おい」
 大福の慌てた声が美咲の耳にも届く。しかし、美咲はもはや自分の意思で泣き止むことが出来なかった。
 すると、逡巡していた様子の大福がベッドの上に飛び乗り、美咲の目の前まで来るとその膝に体を寄せてくる。
 大福はただそうするだけで何も言わない。
 小さな室内には美咲の鳴き声が響いていた。

 それからしばらくして美咲の鳴き声は収まりつつあった。
「気が済んだか?」
 大福のその言葉に美咲が頷く。
「うん。大福、ごめんね」
「気にするな」
 すると大福は美咲の膝から体を離し、美咲の正面に座り込んだ。
 小柄な猫の体とは裏腹に、その太々しい態度と厳つい表情はまるでこの家の真の主人であるかのような佇まいだ。
 美咲はそのギャップに思わず笑みを浮かべてしまう。
「ようやく笑ったな」
 大福のその言葉に、美咲は頷く。これではどちらが飼い主なのか分からない。
 そして、気を取り直した美咲はあることに気がついた。
 大福が人の言葉を喋れるなら、大福とお喋りが出来るではないか。
 今まで、両親が帰ってくるまでは一人で遊んでいるしかなかったが、これなら楽しい時間を過ごせるかもしれない。
「ねえ、大福。大福のお話を聞かせてくれない?」
「俺の話? 別にこの家にずっといるんだから、何も目新しい話なんてないぞ」
 いいからいいから、と美咲は大福に促す。大福は何を話すか少し考えていたようだが、そこから少しずつ自分の話をし始めた。

 それから美咲は大福から色々な話を聞いた。
 好きなキャットフードの話、窓の外に時々やってくる雌猫の話、留守番をしている時に何をしているかなど、美咲にとって猫の視点からの物語はとても新鮮なものだった。
「……というわけだ。もうこんなもんでいいだろ?」
 喋り続けて疲れたのか、大福はそう言うと一息ついたようだ。
「ありがとう、大福! 大福は猫だから、やっぱり私たち人間とは違うものが見えてるんだね」
 美咲はそう言って大福に感謝の気持ちを伝えたが、なぜか大福は今の言葉に首を傾げた。
「どうかした?」
 不思議そうに美咲が問いかけると、大福は「ちょっと気になってな」と前置きして美咲に答える。
「美咲が言ってた、『ネコ』とか『ニンゲン』って何のことだ?」
「え?」
 美咲はその大福の言葉に意表を突かれる。
 そして、美咲は思い至った。大福は猫と人間の区別をつけていないのだ。
「猫っていうのは大福のこと、人間っていうのは私とかママとかパパのことだよ。私たちは違う種類の生き物なんだよ」
「ふうん、そうなのか」
 大福は興味を失ったかのような相槌を打つ。
「違う種類の生き物って言うけど、俺には何も違わないように見えるけどな。飯食ってお喋りして眠って起きる。やってることは何も変わらないのに、何でわざわざそんな区別をするんだ?」
「それは……」
 美咲は答えようとしたが、上手く言うことが出来なかった。それどころか、大福の言う通りなのではないかとさえ思ってしまった。
 確かに大福と美咲は違う生き物なのだが、それをわざわざ強調する必要があるのだろうか。
「ああ、ついでにもう一つ気になってたんだが、美咲はもっと相手と話をちゃんとした方がいいぞ」
 大福はそう言うと美咲の目をじっと見つめた。
「いつもママとパパに遠慮して自分の話をあまりしてないだろう? さっきも俺に話をさせてばっかりだった。自分が思っていることは、ちゃんと相手に言わないと伝わらないぞ」
 美咲は目を丸くした。大福がまるで人間の大人のようなことを言ったからだ。
「大福は大人だね」
 美咲がそう言うと、大福がまるで笑ったかのように美咲には見えた。
「ああ。俺は美咲よりも長く生きてるんだ。当然だろ?」
 そう言うと大福は大きく口を開けてあくびをした。
「さすがに喋り疲れたな。少し眠るから飯の時間になったら起こしてくれ」
「うん。ありがとう、大福」
 大福は美咲のベッドの上で丸くなって目を閉じた。その姿はどこからどう見ても普通の猫のものでしかない。

 そして次に大福が目を覚ました時、大福は人の言葉など喋れない普通の猫に戻っていた。

 大福に言われた通り、それから美咲は両親と色々な話をした。美咲が話をすると両親はとても喜んでくれた。これならもっと早く話をすればよかったかもしれない。
 なぜあの時、大福が急に人の言葉を喋ったのかは分からなかった。両親は「夢でも見ていたんじゃないか」と言ったが、美咲にはそうは思えなかった。
 だが今はその謎を解き明かすするよりも先にやることがある。美咲は学校のいじめっ子たちと話をしなければならない。
 話が通じる相手ではないことは美咲にも分かっている。それでもまずは自分の気持ちを話すことがスタートラインだ。
 美咲は戦う覚悟を決めていた。

「じゃあ、大福。行ってきます」
 ある朝、ランドセルを背負いながら美咲は大福へとそう声をかける。だがまだリビングの隅で丸まって眠っている大福は残念ながら反応しない。
 その様子に笑みを浮かべながら、美咲は玄関へと向かい扉を開ける。
 眩しい朝日が降り注ぐ世界へ、美咲はその身を踊らせて行った。

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