【短編小説】契約結婚 隣の悪魔さん
カラスは黒く、晴天の冬の空は青い。
これは常識と呼ばれるものだと多くの人が知っている。
佐伯大輔もそんなことは勿論知っていた。
だが、今の大輔には空が一面の灰色に見えた。
空だけではない。大輔の視界に映る全てのものが、色彩を失っているかのようにモノクロに映っていた。
大輔は自分の部屋であるこの六畳一間のワンルームでソファに座り込んでいた。
十二連勤が終わり少し前に自宅へと帰ってきた大輔は、着替えることもせずにスーツ姿のまま、今なおボーッと天井を眺めている。
既に太陽は昇っており、決して一般的に日勤の仕事が終わるような時間ではない。昨日の残業後、終電を逃して会社最寄りの漫喫で朝まで仮眠してきた結果だ。
始発電車で帰ってきた大輔は、ソファに座り込むと根っこでも生えたかのように動けなくなってしまっていた。
(明日は朝イチで取引先に資料を送って打ち合わせ……いや、その前に要求仕様案を提示するための資料を作業委託先に作ってもらうよう指示しておこう。打ち合わせの実施はほぼ確定事項だから、その方が時間を有効活用できる。コンペの資料は……自分で作るしかないか。調達の担当部署から雛形を取り寄せよう。事前に調達担当の部長クラスまで話を通しておく必要もある。担当者は誰だっけ……ああ、この人は返信遅いから早めに連絡しておいた方がいいな。要求仕様が固まるのは二週間後くらいか。だったら三週間後から説明と決裁に回れるように予定を全て押さえておこう。いや、逆か。説明と決裁に回るための日程を先に押さえてそこに間に合うように要求仕様を固められるようにしないと。事前に逆線表は組んだはずだ。いつまでだったっけ……金額的に確か所長の決裁が必要だったはずだ。実験室の物品購入の準備もしないと。相見積もりは依頼してるけどまだ来てないな。催促しておこう。合わせて工事も必要だから工事会社に見積もりを取らないと。金額的には部門長までいくだろうから、そこの予定も押さえておかないと……そういや環境影響評価の調査依頼も来てたけど、あれはいつまでだったか。手が回らないから優先度は低くしておこう。固定資産調査もあったか。こっちは逆に最優先だ)
今日は久しぶりの休日であるにも関わらず、大輔の頭の中は仕事のことで埋め尽くされていた。
気力がないから動けないのではなく、考えなければいけないことが多過ぎて動けない。それこそが大輔の置かれた現状だった。
当然のことながら仕事に関する資料は外に持ち出せない。それゆえに大輔は休み明けの仕事の段取りを現在進行形で脳に刻みつけ続けていた。
体への疲労と脳への疲労で目がチカチカし頭痛がするが、それを気にする程の余裕は大輔にはない。
体が感じている不快な神経信号は全てシャットアウトする。
そうしてまた大輔は思考の海へと飛び込んでいこうとした。
だがその時である。
玄関のチャイムの鳴る音が室内に響き渡った。
大輔は仕事への思考を中断し、誰が訪ねてきたのか考える。
本命は宗教勧誘、対抗は飛び込み営業、大穴は大家さんといったところか。
家賃の支払いも滞っていないし大家さんが訪ねてくる用事はないと思うが、万が一にも大家さん相手に居留守はまずい。
仕方なく大輔はソファから重い腰を上げる。
まるで張り付いていた根っこが千切れていくような感覚を下半身に味わいながら立ち上がると、大輔はゆっくりと玄関へと歩いて行った。
足の指先が冷え切った床に体温を奪われていくが、六畳一間のワンルームなら玄関まではあっという間である。
そして大輔が薄く玄関の扉を開けると、そこには想定外の人物がいた。
「大ちゃん、久しぶりだね! ……あれ? もしかしてこれから仕事なの?」
そう玄関口から白い息と共に声をかけてきたのは、幼馴染の瀬川香澄だった。
「……? ああ、そういえば着替えてなかったのか」
言われて初めて大輔は自分がスーツのままだったことに気がつく。
「さっき帰ってきたところで、まだ着替えてないだけだよ。今日は休み」
そう説明した大輔は玄関口を大きく開けた。相手が香澄であれば警戒する必要はない。
「さっき帰ってきた? でも……まあいいわ。はいこれ」
すると香澄の両手には大きめのタッパーが握られていた。
「カレーいっぱい作っちゃったからお裾分けにと思ったんだけど……ねえ、大ちゃん。大丈夫?」
そう言うと香澄が大輔の顔をじっと見つめてくる。
「大丈夫、って言われても何のことだ?」
大輔は戸惑いながらそう返す。
特に心配されるようなことはなかったはずだ。
だが、香澄はじっと大輔の顔を見つめ続けている。
そして不意に大輔に問いかけた。
「ねえ。部屋の中に入れてくれない? さすがに玄関口はちょっと寒いかな」
「寒いも何も、お前の部屋は隣だろうに……まあいいか」
いくら幼馴染とはいえ、男の部屋に上がり込むのはどうなんだと思わなくもない。
とはいえ、そんなことを気にするのも今さらではあるため、大輔は香澄を室内へと招き入れた。
「寒っ! だ、大ちゃん? なんで暖房つけてないの?」
部屋の中に入った香澄は開口一番そう叫んだ。
室内にも関わらず、吐く息が白く輝いている。
「ああ、そういえば忘れてた」
大輔がエアコンのスイッチを入れると、室外機のコンプレッサーの動き出した振動が室内でも感じられた。温風が出るまではまだ時間がかかるだろう。
昨日は会社に泊まり込みだったし、最近は家に帰ることの方が少ない。そんな大輔の部屋の中は冷え切ってしまっていた。
エアコンの電源を入れてから大輔が香澄の方を振り返ると、香澄が室内を何やら見回している。
そして大輔の方を見て質問をしてきた。
「もうお昼ご飯は食べたの? まだ食べてないなら持ってきたカレー食べる?」
だが大輔は怪訝な顔をした。
そしてローテーブルの上に置かれた置き時計の表示を見る。そこには現在時刻が昼の十二時付近であることを示す数字が表示されていた。
「あれ、もうこんな時間だったのか。じゃあありがたく頂くよ」
大輔の体感では、先ほど始発電車で家に帰ってきたばかりだった。いつの間に昼になっていたのだろう。
不思議に思いつつも大輔は香澄からタッパーを受け取ろうとした。
だが、香澄はタッパーから両手を離さず、真剣な顔でじっと大輔の方を見つめている。
「香澄ちゃん?」
どうしたのかと大輔は香澄の顔を見た。
香澄は大輔よりも背が高く、大輔としてはやや見上げる形になってしまいちょっと居心地が悪い。香澄の方が年下なのに、大輔としてはまるで母親に怒られている子供の気分である。
「……大ちゃん、ちょっと座らせてもらってもいいかな」
「そりゃあ構わないけど」
その返事を聞くと、香澄はタッパーを大輔の手に渡し、ローテーブルの横の床へちょこんと正座で座り込んだ。
そして香澄はローテーブルを挟んで斜め向かいの床をパンパンと手で叩く。ここに座れと言っているらしい。
こういう時は逆らわない方がいいと大輔は経験上知っている。
タッパーをテーブルに置いて、仕方なく大輔も正座で座り込んだ。
気まずい沈黙が部屋の中を包みこんだ。
香澄は何か言いたいことがあるのだろうが、すぐには切り出してこずに何か考えているようだ。
似たようなことが以前にもあったと大輔は記憶の紐をたぐり寄せる。
あれは香澄が隣の部屋に引っ越してきたばかりのことだ。
香澄も都内に就職が決まり引越しをしなければいけなくなったのだが、そこで幼馴染で以前から都内で働いていた大輔に白羽の矢が立ったのだ。
隣に幼馴染の大輔が住んでいれば安心だ、と言うのが香澄の両親の思いだったらしい。
最初は初めての一人暮らしでニコニコだった香澄だが、しばらくすると不安げな表情で今と同じように大輔の元へ押しかけてきたのだ。
(そういえばあの時、俺は香澄になんて言ったんだっけ?)
あれは確かたったの三年前のことだったはずだ。それなのに思い出せない。
だがあの時の香澄の不安げな表情だけは覚えている。
今の香澄はあの時と同じ表情をしていた。
「……大ちゃん、私はとても重要なことをあなたに伝えなくてはいけません」
香澄が口をゆっくりと開いた。いつもと違いなぜか畏まった口調だ。
その言葉を聞いた大輔は考える。重要なこととは何だろうか。
幼馴染と言えど知らないことはもちろんあるだろう。しかし、そんな重要といえるほどのことがあるとは大輔には思えない。
「わ、私は」
そう言って少しためらう様子を見せた香澄だが、意を決したように言葉を紡いだ。
「私は、大ちゃんの魂を貰いに魔界からやってきた悪魔なの!」
「……へ?」
思ってもいなかった言葉に大輔の思考が停止する。
「だ、だから、私が大ちゃんの魂を貰うその日まで、大ちゃんには健康でいて貰わないと困るの!」
大輔の脳味噌が再起動して再び動き出す。
さすがに大輔でもその香澄の言葉が嘘なのはわかる。しかし、なんで急にこんなことを言い出したのだろうか。
だが、再起動した脳味噌で考えて大輔はすぐにわかった。
この部屋の今の室温は人が住んでいると思えないほどの極寒だった。
雨戸は閉められたままで昼間だというのに日の光も差し込んでいない。
洗濯物はカゴに溜まりっぱなし。あちこちにビールの空き缶が散乱している。
ゴミはかろうじてゴミ袋の中に収まってはいるが、そのうち溢れ出すだろう。
フローリングの床にはうっすらと埃が積もり始めている。
以前の片付けられた部屋を知っている香澄は、大輔に何か異常が起きていることがわかったのだろう。
だから冗談を言って大輔を元気付けようとしたに違いない。
それは三年前に大輔が香澄に対して行ったことと同じだった。
ホームシックに悲しんでいた香澄に大輔はこんなことを言ったのだ。
(諦めるがいい、瀬川香澄! 君はこの狂気のマッドサイエンティスト・佐伯大輔に誘拐されたのだ。今日からはここが君の暮らす場所だ。もちろん、私も監視のために君と一緒にいると約束しよう。フハハ!)
先ほどまで大輔が思い出せなかったのは当然だ。恥ずかしすぎて記憶の底に封印していたのである。蕁麻疹が出そうだった。
それはかつて大輔が見たアニメのワンシーンを模倣したセリフだった。
その時、何か気の利いたことを話そうと思った大輔だが無理だったのだ。
人間は結局のところ、普段やったことがないことは本番では出来ないということを大輔はその時に痛感したのである。
(つまり、これは香澄なりの励まし方だったってことか)
そんなことを考えた大輔は思わず笑みを浮かべてしまう。
「あ! ちょ、ちょっと、信じてないでしょ! 本当なんだからね!」
照れたのか香澄の頬が赤くなる。
そう、赤い。
大輔の視界には色彩が戻っていた。
「じゃあ、本当だと証明するために何か願いごとを一つ叶えてあげる。でも、願いを叶えたら魂をもらっちゃうんだからね!」
香澄が自分からどんどん深みに嵌っている気がするのだが、それだけ真剣に大輔のことを気遣ってくれたのだろう。
極寒の室内にも関わらず、大輔の心は温められていた。
「願いごとね。そうだな……」
大輔は少し考えたが、願いごとは決まっていた。
大輔は香澄の手を取る。
香澄が驚いた様子を見せるが、その手からは温もりが伝わってくる。
その温もりは大輔の中の冷え切った心を溶かしていくかのようだった。
「俺と結婚してください、悪魔さん」
それを聞いた香澄は顔を真っ赤にした。
「え! いや、あの、それは」
そして大輔の方を見られなくなったのか、急に顔を背ける。
しかし表情を隠せるはずもなく、まさに千変万化といった様子を見せていた。
時間にしてそれは一分も続かなかったはずだが、愛しい人の表情を眺める時間は大輔にとって無限にも引き延ばせる時間だった。
少し落ち着いたのであろう香澄は、チラリと大輔の方を見て返事をした。
「ま、まずはお付き合いからでいいですか……?」
大輔がコクリと頷く。香澄の方はもはや泣いているのか笑っているのかわからない。
「でも、これじゃ今すぐに香澄が悪魔だって証明できないね。カレーを食べさせてほしい、っていうのも願いごとに追加でいいかな?」
香澄は笑いながら「もう」と言って、テーブルに置かれていたカレーのタッパーを持ってキッチンへと向かっていった。
色彩の戻った世界で大輔は思う。
自分は今まで何のために頑張っていたのだろう。
このままでは危うく香澄を悲しませてしまうところだった。
キッチンに立つ香澄を横目に、大輔はカラーボックスに立てかけられていた退職願を書くための届出書を取り出した。
書こうと思いながら準備していたものの、今まで書くことが出来なかったのだ。
だが、本当に大事なものに気がついた今なら躊躇いはない。
大輔は未来を見つめ、退職願を書くべく筆を走らせた。
大輔が香澄と共に見つめる明るい未来は、カレーライスの匂いがした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?