【短編小説】ミエナイモノ

 窓から差し込む陽光に照らされた男の姿は、まるで儚く消えてしまいそうな霞のようであった。
 他に誰もいない休憩室。その窓辺に佇み、男はただ遠くの空を眺め続けていた。そうすればいつかそこへ行けるとでも言うかのように。
「前橋さん、こちらにいらしたんですか」
 清水は背後からその今にも消えてしまいそうな男の名前を呼んだ。男が振り返る。
「よう、清水。何か用か?」
 平均的な成人男性より高めの身長に加え、体のシルエットにフィットした紺のスーツがその体格の良さを際立たせている。目つきは鋭く、存在感が薄いどころかむしろ威圧感すら感じるほどだ。本来であれば。
「いえ、最近はいつもお昼に姿を見かけなくなるものですから。いつもこちらにいらっしゃるんですか?」
「ああ。一人でのんびりするのも悪くないだろ」
 そう言うと前橋は手近な場所に置かれていた椅子を引き寄せ、そこへと腰を下ろす。
 一見すると何もおかしなところはないが、清水は気がついていた。髪はせいぜい櫛で梳かしているだけでちゃんとセットしているわけではないし、無精髭も伸び始めている。ズボンにもところどころに皺が目立っていた。
「前橋さん、もうお昼ご飯食べました? さっき売店でパンとか買ってきたんですけど買い過ぎちゃって。私の代わりに少し食べてくれません?」
 そう言って清水は右手に握っていたビニール袋を差し出す。少しわざとらしかったかもしれないと思う清水だったが、前橋は感謝しつつ素直に受け取ってくれた。
「気が利くな。将来は良い嫁さんになりそうだ」
「もう、揶揄わないでくださいよ」
 前橋は薄く笑みを作った。そして清水は、前橋の笑顔を久しぶりに見たことに気がついた。
 清水はゴクリと唾を飲み込む。前橋を見つけるまで、言うべきかどうか迷っていた。だが、昼休みに食事も取らず窓の外を眺めているその姿を見て言わずにはいられなかった。例えお節介と思われても構わない。

「前橋さん、お願いします。しばらく仕事を休んでください」
 その言葉に前橋は驚いたのか、目を軽く見開いて清水の顔を見る。そしてすぐに苦笑を浮かべた。
「随分唐突だな。何かあったのか?」
「ええ。いつも身だしなみをしっかり整えてた前橋さんが、最近は明らかに手抜きになってます。他の人たちが気づいているのかは分かりませんが、以前はいつも一緒に仕事をしてた私には分かります。もうずっと残業続きのようですし、お疲れなんじゃないですか?」
 二人の間に一瞬の沈黙が流れる。お互いの視線が交差し、何かを言いたいがどう言うべきか悩んでいる、そんな様子だ。
 そしてその沈黙を前橋が破った。

「昨日、帰り道で子猫を見つけたんだ」
「……?」
 突然の前橋の話に清水は理解が追いつかない。だが、前橋は構わず続けた。
「野良猫だったんだろうが、まだ小さな子猫だった。俺が歩いて通り過ぎようとしたらその脚にまとわりついてきてな、可愛いもんだった。母猫とはぐれたのか、それとも生き別れたのか分からないが、一匹じゃ生きていけなかったんだろう。でも俺はそいつを見捨てた」
「……それはしょうがないと思います。ほとんどの人はそうしますよ」
 前橋が何を伝えたいのか、まだ清水には分からない。だが、前橋が取った行動がそこまでおかしいものだとは思わなかった。
「ああ、そうだろうな。でも俺は今朝、同じ場所を通ってその子猫を無意識に探してたんだ」
 そう言うと前橋は喉の奥でくぐもった笑い声のようなものを発した。
「俺は自分の偽善者っぷりに吐き気がしたよ。自分で見捨てておいて、それでもどうなったか気にせずにいられなかったんだ。クズだと思わないか?」
 前橋の目を見た清水は背筋が凍る感覚を覚える。その瞳には得体の知れない狂気のようなものが蠢いていた。
「俺にこんな醜い一面があるなんて初めて気がついたよ。こんな奴に生きている価値なんてあるのか? 死ぬべきはあの子猫ではなく、俺の方だったんじゃないか?」
 清水はここに至って自らの認識が間違っていたことを悟った。単に仕事の疲労が溜まっているだけかと思っていたが、既に前橋の心は壊れかけているのかもしれない。
「……いや、そうか。俺もこの社会から既に見捨てられてるのか。俺があの子猫を見捨てたように、俺もこの社会から見捨てられてたのか。はは、ならあとは俺もあの子猫と同じ末路を辿るだけか」

「前橋さん!」

 清水は思わず大きな声をあげる。
 このままでは駄目だ。放っておけば、この人は本当にいなくなってしまう。
 前橋の目は清水の目をじっと見つめている。その瞳に宿る感情を今の清水はおそらく理解できないだろう。でも今は自分が伝えるべきことを伝えなくては。
「私は前橋さんがいなくなったら悲しいです。もっと前橋さんとお話ししたいです。だから、そんな悲しいこと言わないでください」
 泣きそうな表情で清水がそう訴えかける。一瞬、前橋の瞳が揺らいだのが清水にもわかった。だがそれもほんのわずかな時間のことで、前橋は立ち上がった。
「……すまない、変なこと言っちまったな。忘れてくれ」
 そう言うと前橋は清水の横を通り過ぎ、そのまま休憩室の扉へと向かって歩き出す。そして清水の背後の扉が開く音がし、前橋の気配は消えた。
 あとには誰も腰掛けていない椅子と、誰のものでもなくなったビニール袋だけが残された。

 清水はあの時の自分の選択が正しかったのか、今でも分からない。
 あの後しばらくして、前橋が会社を辞めたことを聞かされた。
 自分の声が前橋に届いていたのか、もはや知る由もない。それでも届いていたと信じたかった。
 清水は今、あの日前橋が座っていた休憩室の椅子に腰掛けている。そこからは前橋が見ていた空が見渡せた。
「前橋さんには、この空がどう見えていたんだろう」
 清水の目に青く映る空は、もしかしたら前橋には全く違うものに見えていたのかもしれない。
 だが、その清水の言葉に答えるものは誰もいない。
 空はどこまでも遠く澄み渡っており、清水はそこにいるはずのない子猫の鳴き声を聞いたような気がした。

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