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できるだけわからないところに入りたくなってしまう

旅にはふたつある。

行きたい場所が明確で、そこに在るものもたどり着くまでの行程もちゃんと見えてる旅。もうひとつは、行きたい場所がぼんやりとしていて、そこに何が在るのか、どうやって辿りつけるのかもはっきりしていない旅。

たぶん、現代の文脈では前者が「旅」や「旅行」と呼ばれ、後者は「彷徨う」とか「徘徊」と呼ばれてもおかしくないんだろう。

べつにどっちが正しいの話ではなく、どっちもありだと思う。まあ、そのときの目的とか気分だ。

いまの気分は、どちらかというと後者のほう。漠然と「こんな気配に呼ばれて旅したい」というのが強い。

たとえば紀伊半島とか。孤高の半島、東京から時間距離がもっとも遠い場所うんぬんいろいろ言われるけど、それだけ惹かれる。日本最大の半島だけあって、ひと言で収まらないイメージを持ってるのもいい。

何をしにいくというわけでもない。とくに目的はなくても、その場所にたどり着ければそれで結構満足感がありそう。そういう懐の大きさを紀伊半島は持っている。

そんなの僕が勝手に思ってるだけなんだけど。

離島じゃ駄目なのか? という意見もあるかもしれない。もちろん駄目じゃない。ただ、なんていうか離島だと「離島に行く」「船で上陸する」というイベント性なのか目的性が少し強まってしまう。

そうじゃなくて、イベント性も目的性もなくぬるっと「どういうところなんだろう」を感じながらその場所に入っていきたいのだ。わかりづらいですね。

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わかりづらいと言えば紀伊半島で生まれ育った中上健次さんの小説もそうだ。

村上春樹さんより少し上の世代の作家なので、いま読む人がどれぐらいいるのかはわからないんだけど。

文章とかストーリーがわかりづらいんじゃない。むしろ真逆。そのじとっとした世界にいつの間にか引きずり込まれてしまう。

わかりづらいのは小説そのものの構造ではなく、眩しいぐらいの海の青さと緑の濃さに囲まれた半島のどこに、中上健次さん特有の深い小説世界の入り口が開いているのかがわからないのだ。

もっと言えば、日本の作家というより大陸の作家のような空気感をまとっている。

中上健次さんほど、日本の作家(日本語を標準テクストとして書いた作家)の中で、海外の巨人と称される作家に例えられることが多い人もいないんじゃないかと思う。

ガルシア・マルケス、ジョン・スタインベック、ウイリアム・フォークナー、あるいはミッシェル・フーコー。何かしらの強い磁場を抱えた人たち。

どうしようもなく自分から切り離せない沁みついてしまった何かを、根こそぎにするような文章を書いている作家たちだ。

ドメスティックな空気が重厚な筆圧で描かれ、そこにぽっかりと口を開けて待っている「穴」に吸い込まれるように、僕は『枯木灘』を読んだ。何度も。

日本でも渋谷だとかの「場所」が持つ「存在不安」のようなものが書かれた小説がいろいろあったけれど、本を閉じれば次第に消えてしまうそれと違って、中上健次さんの小説世界が持つ困惑要素はなかなか消えない。

あの、あほほど明るい半島の太陽の下で、得体の知れない怖さと解放感の入り混じった気分で小説を読む。そんなぼんやりした旅とも呼べない胡乱な旅がしたい。