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「身体の声」が聴けない僕たち 「ことばのアトリエ」対話録

僕(ふみぐら)と嶋津さんでつくっている自然発生的なユニットがある。

その名は「ことばのアトリエ」。フランス語のアトリエの源流を辿っていくと「木っ端をつくる者、その場所」という意味がある。

まるで僕らだ。

お互いに「ことばの原木」「ことばにならない断片」みたいなのを持ち寄って、削ったり、磨いたり。そんな作業をふたりの対話、お喋りをとおしてやっている。

だけども、決まった場所、決まった形式ではやってない。風みたいなユニット。かたちがあるようでない。

じゃあ、何に従ってるのかというと、それはおそらくお互いの「身体の声」だ。

基本的にふたりとも、ことばにならない「間(あわい)」みたいなものを話すのが好きかもしれない。

ことばにならないものをどうやって扱うのか。

そこは不思議なところなのだけど、僕らにはちゃんと「扱えてる」というか、手触りみたいなものがある。

そして、なぜだかそれは「ことばになるもの」を扱ったときよりも、妙に充実感や嬉しさがあったりするのだ。

今回は、そんな話を少ししてみようと思う。


◇身体の声って何なのか


この前、すごく久しぶりに僕と嶋津さんで「ことばのアトリエ」を開いた。

といっても嶋津さんが毎夜開催されてるSpacesの「対話パーティー」のスピーカーに呼んでもらって、その場が「ことばのアトリエ」になったのだけど。

テーマは「身体の声」。身体の声も、なかなか目に見えるかたちとして扱うのが難しい。人によっては「なにそれ?」の人もいるかもしれない。

あまり何度も書くことでもないのだけど、僕はこの夏の初めに「がん」になった。OverステージⅣの、客観的にはまあまあ深刻な事態。実際、ある医療関係者からは「この夏は越えられないね」とか言われてた。越えました。

で、あれがこうなっていまに至るのだけど、僕自身はがんが発覚したときに「そう来たか」と思った。

なにがそう来たかといえば、自分の身体から突きつけられた「問い」みたいに感じたから。で、自分はどうする? みたいに。

なんだろう。これまで無視してきたわけでもないけど、うまく聴き取れてなかった自分の身体の声がようやく届いたんだ。がんという事象と共に。

これは、ちゃんと自分の身体の声を聴かないと。

そうしようとかでもなく、直感的にそう思った。担当医の先生を通して得られる情報(自分の身体に取材するみたいに)と自分の身体の声を聴くことが自分の課題だっていうように。

そんな僕を嶋津さんは「ふみぐらさんが、ふみぐらさんを見てる」と言ってくれたのだけど、まさにそんな感じだった。

身体は言葉を持ってないと一般的には思われがち。だけど、本当は「頭」よりも先にいろんなものを感じて見えない言葉を自分に発してる。それだけじゃない。身体は反応して思考も担ってる。脳では処理が追いつかないようなときでも。

この辺りの詳しいことは「ソマティック・マーカー仮説」(興味ある人は調べてね)とかでも偉い先生たちが議論している。

すごく端折っていえば、何か自分に重大なことが起こったとき、頭よりも先に自分の身体が情動や快不快なんかの反応を通して、脳に意思決定のための信号を送ってるというもの。

つまり、身体が脳で考えたり判断するよりも先に「声」を送り出してるのだ。


◇身体の声なんて聴けるのか疑惑


でも、と「頭の声」がする。そんなの概念であって実際に身体の声なんて聴けるの? と。

ここは難しいところなのだけど、なんだろう。身体の声は「聴く」というより「感じる」の要素も入ってるかもしれない。感じつつ聴こえてくる。

身体の思考は「心」ともちょっと違う。

僕の感覚で言えば「自分を自分に傾ける」ことで聴こえるもの。感じられるもの。自分を他者や周りの世界ではなく自分に傾ける。身体ごと。思考を傾けるのでもなく。そうすると自分で思い出したみたいになる。

「あ、これこれ」「これが自分だよな」みたいに。

もちろん実社会でうまくやっていくには「頭で考える」も必要になる。ただ、そこにこれまで重心を置きすぎたのかもしれない。無意識に。

「頭の声」はどうかすると、自分以外の声も勝手に混じり込んで「自分の声」化してしまうことがある。結構ある。たとえば、周りから評価されてしまうと決して好きでも得意でもないけど「やれてしまう」ことをやってる自分が、自分の姿みたいになったり。

そうやって「頭で考えること」と身体の声のズレがいろんな問題を引き起こす。僕の場合なら「がん」という病気のように。本当は身体が「それ違うんじゃないか」とか何か訴えてても、頭で「これまで大丈夫だったし」「たいしたことない」って勝手に処理してしまう。

だから僕は「がん」になって、自分の身体の声を「取材」するように細かく聴くようになったんだ。


◇演劇性と身体の声


僕も嶋津さんも「演劇」の世界に身を置いたことがある。やってたことは違うけれど。

そこでは「身体が言葉を持っている」と、言葉、台詞を喋らなくても存在できる。観客とのある種のコミュニケーションが成立する。

逆に言えば、身体が言葉を持ってない役者が舞台に立って台詞を喋って演技しても、どこか「軽く」なる。観てる側の身体ごと持っていかれない。ただ、舞台が進行してるだけになってしまう。

自分の身体の振る舞い=演劇性って特別なものじゃない。演劇に関係ない誰でも日々、ある意味では自分を他者に「演じて」いる。できれば、いろんなことがうまくいくようにと。

そこでも身体の声を身体が持ってコミュニケーションできてるのと、そうではない頭の声だけでやってるのでは手応えというか何かが違うと思う。

こんなことを言うと「そんなの習ってもないし、できない」と思うかもだけど、本来は人間が誰でも根源的、アプリオリに持ってる。身体の声がない人っていないんじゃないか。

オンラインでも、お互いに「身体の声」を持ってる者同士だとやりやすい。沈黙も気にしなくていい。お互いが何に向かおうとしてるのか、言葉がなくても通じ合えるから。

もっと言えば、身体がどう動きたがっているか。どこに自分の身体が向かおうとしてるのか。頭で考えるのではなくわかるときがある。

嶋津さんのSpacesでもスピーカーをされたある鍼灸師さんの話。

「身体が痛みを発してるのは、生きようとしてるから。死に向かう人は痛みを発しない」「人間は身体の痛い方に一生懸命になるけど、本当は逆。痛くないほうに、心地良いほうに集中したほうが良くなる」

こういうのも身体の声。


◇「楽」とか「楽しい」がなぜ日本では軽視されるのか


僕自身もこういうことになって「楽しいことしかしたくない」という身体の声がすごくしてる。だから、そこに素直に従うというかシンクロしてる。

でも日本ではなぜかしんどいこと、苦手なことに挑戦して「克服」するほうが評価されるし理解されやすい。自分の楽な方、楽しいこと、得意な方に動いてても「そんなのでいいの?」「それより、苦手なことに挑戦したほうがいいよ」になる。

僕も、身体が喜ぶことを基準にして楽しそうにしてると「がん患者なのに、大丈夫なの?」という目でよく見られる。

これも「身体の声」が聴けない弊害のひとつかもしれないけど、「らしさ」の病ってすごくある。もちろん、らしさにも二方向あって、何かを目指すときに守破離のように、まず「らしさ」を身につけて、そこを破っていくのもある。

そうではない「らしさ」の呪縛はなんだろう。子どもらしくないとか、大人げないとか。おそらく自分の身体の声がないと、「らしさ」に頼ったほうが安心なのかもしれない。

そしてそこからはみ出たもの「らしくないもの」は不安になるから、そういう他者に対しても防御的に攻撃的になるのかもしれない。

「らしさ」は裏返せば、周囲からどう見られるかがセットになってる。そんなのより目の前の自分の心地良さ=身体の声を大事にしようよって思う。

「でも、そんなの現実的じゃない」「身体の声は嫌がってるけど、やらなきゃいけないこともあるじゃん」

わかる。だからこそ、僕はいま日々、ほんとに自分が楽しい、うれしい「身体の声」だけでも生きられるってことを実践してみてる。本来ならいま、こうして生きられてなかったかもしれないんだから、やってることは全部プラスなんだし。


◇身体の声は時間を忘れさせる

みたいな対話を嶋津さんと「ことばのアトリエ」で喋ってたのだけど、ほんとにあっという間だった。

誰もが経験あると思うけど、相手によって自分の時間の感覚も違ってくる。

頭でしか考えない、頭でしか言葉を発しない人とは時間のマネジメントを強く意識させられる。効率よくとかタイミングよくとか、その時間の生産性とか。

そうじゃない身体の声で生きてる人とは、そんなこと気にしない。いつの間にか時間が経ってる。短く感じたりする。

それだけ深く濃く時間も「いま」を味わってるんだと思う。

僕もそうだけど、何があっても「身体の声」が聴けていれば、新しい生きるをつくっていける。

そんな「生きる」は始まりも終わりもなくて、ずっとうれしい。