三輪車の女_のコピー

すべての道はnoteに通じていない

つい自分が居心地いい世界にいると、その世界がすべての世界につながってるような気がする。けれどそんなのは錯覚だ。

noteなんかのメディアもそうかもしれない。ときどき、すべての道はローマとnoteに通じているような気がして、それはそれでなんだかおもしろいし、いいなと思うのだけど同時に「そうじゃない世界」のことも思う。

もちろん、同じ空気感の中で快い感覚を共有できたり、プロアクティブな意見を重ねたり。できないよりはできたほうがいい。

note愛と誰かが言ってたけれど、欲と毒にあふれたネットメディアの世界で「愛」で語られるnoteの世界は貴重だと思う。何より好きだし。

だけど、一方ではそんな自分たちとはまったく違うレイヤーを生きてる人も当たり前にいる。向こうからすればこっちが逆によくわからない存在かもしれない。

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みんなそれぞれ違うレイヤー(自分にとっての世界)を生きている。そんなの当たり前すぎていちいち言語化することでもないのだけれど、うっかりするとそのことを忘れてしまう。忘れるまでいかなくても、おざなりにはなる。

僕だってそうだ。東京に暮らしてたときは日本中で東京と同じものを見て、それをベースにした価値観や考え方、ベクトルで多くの人が生きてるように思ってたかもしれない。無意識レベルでだ。

だけど、そんなことはない。国家的(この言葉も変な感じがするけど)イベントとか、なんでもいいけどメディアのトレンドだって、東京を一歩離れれば「そこまでじゃない空気」をすごく感じる。

同じようにnoteなんかのメディアや、いろんなプラットフォームだってその世界にいて、その世界の中を行き来してるかぎりでは、そこが居心地がいいと他のレイヤーの人たちをつい忘れてしまうかもしれない。

本当は読んでほしいけど、たぶん一生noteとは無縁に生きる人たちもいる。そんなの全然あり得ないことじゃないし、そんなものだ。

だけどその人たちを意識から消してしまっては駄目なんだ。そうしないと、すごく狭い世界しか見てないことになる。

他の人が生きる他の世界と関わりはしなくても、その世界があることを感じることはできる。それは世界のあらゆる出来事との関わり方にも通じることなんだろう。

今日、ふとある人の姿を見て思った自戒と戯言です。