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「自己表現」のための表現をしない子が増えてる

いつどこで、そんな話になったのか覚えてないんだけど。

たぶん舞台とかの関係者がいる場所だったのかも。今の子(便宜上、そう呼んでます)は自己表現のための表現ってしたがらないよね、というくだりがあって、最近また、ふと「なんだろうな、それって」と思って。

そのときは、べつにそこで深い話をしたわけでもなく、へーそうなんだぐらいの感じで流れてたのが、どういう時空なのか、ふと何きっかけかわからないけど考え始める。

ないですか、そういうこと。僕は結構あって。

どうやら自分の場合、特になんてことのない会話の断片とか、日常のどうでもいいような切れ端をいつの間にか拾って、小さな缶とかジップロック的な袋に入れておく習性があるみたいです。まあ、ほとんど役に立たないものです。

もっと役に立つもの集めればいいのに、と自分でも思わないでもないんですが。


自己表現のための表現はしない――。

これ、あらためて考えてみてもなんかおもしろい。表現とは何かみたいな話。

たぶん、一定世代の人たち(これも便宜上)はわりと「表現=自己表現」になってると思うんです。もちろん、そうじゃない人もいますが。自分を出す。自分をわかってもらう。自分の中にある何かを「表現」というかたちにして知ってもらう。

結果的に「表現」によって自分の存在を問うとか、もっと言えば評価を得て仕事にするみたいなところにもつながってた。

だけど、今の子たちが言う「自己表現のための表現はしたくない」は、もしかしたら「自分を出すとかそういうのはもういいんで」ということなのかも。

なんか、そこで「表現」をめぐる世界が、たとえば「下積み→表現者」みたいなわかりやすいリニアなものではなくなってるみたいです。

なんていうか、もっと進化していて「自分」と「表現」はうまく切り離してやれるし、そうしないと気持ち悪いよねってなるのかもしれないし。

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いつも言うことだけど、こういうの「どっちが正しい」とかないです。どっちも正しいかもしれないし、どっちも正しくないのかもしれない。そんなの誰にわかるっていうんだろう。

ただ、やっぱり今の子たちは自分を見せるチャネルに合わせて「自分を最適化」するのがうまくて(スマホネイティブ)、そんな生身の自分なんて出さないし、そこは「表現」と関係ないと思ってる。いや、思う思わない以前に生身の自分という概念があまりないんじゃないか。

TikTokとかもそうだけど、どううまく使っていい評価をもらえるか、シェアされるかが「大事」で、それは「自己表現のための表現」とはレイヤーが違う。

結論はないです。ただ昔ながらの「表現」の世界と「評価されシェアされる表現」の世界には隔たりがあって、そこをどっちも行き来できるといいんだろうな。