写真_2013-11-11_7_26_02

noteが大人の教科書になってる話

朝からマジであかんなと思った。表現があれなのは許してほしい。心の声だから。

何があかんのかというと日本の文章教育(書く技術、ライティング)だ。小学校にまで遡ると「作文」「感想文」と呼ばれてるもの。いまさらだけど。

だいたい「作文」「感想文」って何? ものすごくふわっとしてる。教える側は「思ったことを書きなさい」「大事に感じたことを書きなさい」ぐらいのことしか示さない。

具体的に踏み込んだとしても「いいと思ったこと、良くないと思ったこと」「自分の気持ち」を入れなさいぐらいだ。

それで文章を書けと言われましても。多くの人が子ども時代に、そんなふうに漠然とした作文・感想文指導をされて「何をどう書けばいいのかわからない」「作文苦手、嫌い」というルートを辿っていく。

僕は国語教育の専門家でもないし、教育現場にいるわけでもないので(身近には結構関係者がいるけど)偉そうなことを言う資格はない。わかってます。

でも、文章で食べる仕事をしていて、いろんな仕事の現場で行き交う文章を眺めていて、やっぱり何か根源的なところに「問題」があるのを感じることがよくある。

すごくざっくり言ってしまうと、大人になっていざちゃんと文章を書こうと思っても基本的に「子どもの作文」と同じ書き方しかできないので本人も周囲も困ることが出てくるのだ。使う単語が大人の世界になっただけで、文章としての構造や強度は大人仕様になってない。

これって、どういうことなのか。

いや、その前にお前の文章だって――というブーメランが飛んできそう。わかります。

このnoteでは堅苦しい文章なんて誰も読みたくない(というか僕みたいなライターが硬いことをそのまま書いてもほぼ読まれない)と思うので、あえてくだけたトンマナでお届けしてますが、一応ちゃんと考えてどう書くか「選択」してます。

         ***

で、話しを戻すと、大人になっても文章(ライティング)で困るのは、そもそも子どものときに、ちゃんと「本当の意味での作文技術」を教えてもらってないからなんじゃないかと。

ふわっとした作文指導だけで「子どもらしさと心情への共感」重視の作文が「○」をもらえるので、みんなそこに寄せて同じような作文を書く。文章技術についてそれ以上のことを教えてもらう機会もないまま大人に。

僕の場合、たまたま社会人になって文章のプロがいる環境でハンズオンで文章の構造とか、いろんな種類の文章の書き方を学ぶというか身体で覚えさせられただけなので、そうじゃなかったら気付いてないと思う。

大人になってから「文章を書くってこういうこと」をまっさらな気持ちでアップデートできる人もいるけど、数は少ない。エッセイ・ライティング(論理的文章)、クリエイティブ・ライティング(創造的文章)に限らず。

どうすればいいのかなんて、すぐに答えはない。でも、毎日いろんな人のnoteを読んで、そこから自分に入ってきたものを自分の中で再構築して、自分の文章にして書くというのをやってみるのも、すごくライティングの身になると思うんだ。

なぜなら、noteを書く人は基本的に「文章」をアウトプットのツールに使ってるけど、その前段にちゃんと「その人の生き方」「その人の世の中との関わり」があるから。

なんだろう。文章のための文章、アウトプットのためだけの文章を書いてる人はあまりいない。いろんな世界を行き来するVehicleとして文章があるのだ。

サトウカエデさんの記事もそう。


個人的には娘ちゃんの小学校で作文課題に出された“今日の一枚”の画像が「タイトロープのシマウマ」だったことに、心の中で1万いいね!をあげたい。

ニュージーランドの作文教育がいろんな意味ですごく立体的で、ちゃんと「生きる力(どっかで聞いたことあるな)」になってるのがいいなと思うのだけど、そういう世界をフラットに見せてくれるnoteの人たちもやっぱり素敵だと思う。文章と世界をつないでくれる大人の教科書だよなー。

そういう意味でも文章の学びに「もうこれでいい」なんてないんだろうね。

この記事が参加している募集

noteでよかったこと