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「よしくーん」と叫ぶおいちゃんの圧とメディアの戸惑い

滅多にリアルタイムでテレビを観ないのに、そのとき偶然飛び込んできた“おいちゃん”に捕まった。
 
二歳の男の子を光の速さで捜し出した、捜索ボランティアの“おいちゃん”だ。世間のニュース的情報をふだんから追いかけてないので、そんな事件が起こってることも知らなかったのだけど、おいちゃんの姿は鮮烈だった。
 
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何かといえば、テレビに映る人にしては限りなく例外的に「自分の声」でしゃべりまくってたからだ。すごい圧だな。僕はポカンとしながら、おいちゃんの話す捜索の一部始終を聞いていた。
 
と同時に、テレビが映し出していたのは気圧されるメディアの姿だ。明らかに通常よくある「メディア的感動画」が吹き飛ばされている。メディアが用意したストーリーや声には乗っからず斜め上をビュンビュンいってる。
 
おいちゃんは、それがテレビだとかそんなのはどうでもよくて、道ですれ違って呼び止めたおばあちゃん(千鶴さん82歳)に話すのと同じように自分の行動とその場の状況、気持ちの昂り、心の震え、汗、大事な命とのコンタクトを懸命に話していた。

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僕はその中に一緒にいるような感覚でおいちゃんの話を聞きながら、きっとおいちゃんはずっと「自分の声」を持って生きてきたんだろうなと思った。苦しいときも嬉しいときもだ。
 
今ではなかなか出会えない(メディアでは特に)「自分の声」の持ち主だから、あの二歳の男の子も「よしくーん」という叫びに反応できたのかもしれない。
 
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人はみんな「自分の声」を持っているつもりでいる。これが自分の声かどうかなんてこともいちいち考えない。だけど、気づかないうちに、誰かに合わせ、空気に乗っかりして「自分の声」を失っていく。

ここでいう「自分の声」とは単なるVoiceのことではない。生き様やら何やら含めたブレない声。全然関係ないけど『グレイテスト・ショーマン』のビハインド映像の歌声を思い出した。This Is Meだ。

おいちゃんのもとには今も全力で乗っかろうとしているメディアや出版社やら興行師やら怪しげなエージェントが押し寄せてるだろうけど、おいちゃんならきっと、そこでも「自分の声」で戸惑わせてくれるだろう。