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あの日の講談と消えたシウマイと

人って、可能性の塊なんだな。言葉にしたらあたり前のことを言ってしまってるんだけど、ほんとにそう思う。というか感じる瞬間がある。

なんだろう。実際にその人を目の前にしたときに否応なく反応するのだ。自分の中の何かが。

何かの芽が出て、これからすごく茎や枝を伸ばしていくんだろうなというのを理屈抜きに感じる。エネルギーとして。

自然栽培の畑をやるようになったから余計にそう感じられるのかもしれない。

自然栽培では基本的にその風土、土壌の持っている力を生かして、そこに合った作物が土や土壌生物(微生物)たちのを借りながら育っていくように人間が世話をする。余計なお世話はしない。

あくまで主体は人間ではなく、その作物と風土なのだ。

彼らの元もと持っている力を生かしきれる環境を整えるのが人間の仕事。結構、難しいしおもしろい。まあ、この話は脱線しがちだし、なかなか「説明」は難しいので置いておいて。

で、人間の可能性の話。何かを続けてる人はそれが本人にはどんなにあたり前すぎて「え、べつにたいしたことしてない」と思うものでもそれ自体がすごいエネルギーだし、可能性の塊だと思う。

今から4年ぐらい前。僕は、こんなnoteを書いていた。

わざわざ昔のnoteに飛んでもらうのもあれなので載録しますね。

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この前「こんなこと」を書いたからというわけではないですが、予習なしで新しい世界の扉を開けてみましたよ。どこに入ったかというとザ・講談の世界。

Bar Bossaの林さんが企画された、Barでグラス片手に講談を聴くという、なかなかない機会です。

もう、結論から言いますね。なにこれ、面白い!! 神田松之丞さんすごい!

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一応、ものかきなんていう世界にいながら、これまで落語の高座を聴く機会はあっても「講談」はまったく縁がなかったわけですが。

いや、正直に告白すると、おじいちゃんおばあちゃんが楽しむものぐらいのイメージしか持ってなかったです。歴史物や戦記、怪談話もそんなに興味がなかったというのもあって。

そんなわけで「予習」もなしに行きました。あ、でも補足すると林さんが神田松之丞さんを紹介された文章を読んで、なんか理屈抜きに「わくわく」したんですよ。たしか、こんなの。

ラップを聞いていて心地よいみたいな、そういう「ことばのリズム感」を楽しむというちょっと高度な知的快感ってありますよね。
おそらく「講談」ってそのことばのリズムを楽しむという面が大きい演芸なんだと思うんです。
そして、天才的な演者特有の、あの登場人物が松之丞さんに降りてくる瞬間を何度も体験することができます。


演目が何かはあまり関係なくて(そもそも講談の演目をろくに知らない)とにかく、ことばの高度なラップを楽しもうと思ってBar Bossaに出かけました。


ほぼ9割が初見の客の前で松之丞さんがやったこと

当日は、ほぼ9割が「講談はじめて」のお客ということで、なんとも言えない空気なわけです。なんだろう。どこから何が出てくるんだろうのお化け屋敷スタンバイ状態。みんな無駄に構えてるという。

どうなるのかな、と思ってたら出囃子と共に登場した松之丞さん、早速、会場の空気を察知して場をいじるんです。

「今日、すごいですね。この空気、堪りませんね」と。これ、何気ないようで巧いんです。だって、ここで外したらもっと空気固まりますからね。

僕もものかきなのに、ごくたまに人前で喋りをやるけど「場」をつかんで「場」をつくる技術って、やっぱり持ってる人と持ってない人で違うんですよ。難しい。


昔の講釈師は、とにかくどんな場や空気であれ、お構いないしに決まったとおりに語ったそうで、落語でいう「マクラ」なんかもなく、それが講談の味でもありお客を選んでしまうところだったとか。

でも、それでは現代のお客さんは難しいですよね。ビジネス書なんかでもそうだけど、イントロや導入部でわかりやすい喩えや読み手いじりで「いい感じの空気感」をつくれると、本編にも入っていきやすい。

それを松之丞さんはリアルタイムでまず見せてくれました。何が待ってるのかわからず構えてる講談はじめてのお客さんを、ほぐすほぐす。

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そこから『寛永宮本武蔵伝 山田真龍軒』『しゅうまい』お仲入りを挟んで『淀五郎』と演じるわけですが、場の空気ができたあとはものすごい。
何がすごいかって、ことばの圧。3D(すでに古いですね)のことばを浴びてる感じ。

松之丞さんから空間に放たれたことばが、目の前で次々と立ち上がる。うわぁああって感じです。気圧されるってこのことか。

ふつうは誰かにことばで気圧されるって、苦しいというかやめてってなると思うんだけど、松之丞さんが演るとなんか楽しくなるんですよ。それでいて、まさかの崎陽軒のシウマイと淀五郎の泣き笑いの落差たるや、何のアトラクションかと。

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思ったのは、ちゃんと絶妙な距離感をつかんで演じられる人だからなのだなということ。そういう点では、とても演劇的です。

よくありがちな「自分が自分が」でひたすら自分をどう魅せるかで押し切ろうとすると、お客さんや場との距離感がつかめずに空回りします。そういう演者さんは多いけど。

講談と演劇を一緒にしていいのかどうかわからないけど、演じるっていうのは自分のためにするものじゃない。同じ舞台に立つ相手役や、なんなら同じ空間を共有するお客さんのため。

いかに相手役やその場を観察して、そこから受け取れてるか。その柔らかさとセンスがある演者が相手や場を利用して結果的に「いい芝居」がつくれるんだと。

これは僕の同級生の演出家から役者のワークショップで教えてもらったことですが。なぜ、ものかきの人間が役者のワークショップに入ってたのかはまた別の機会に書きます。


講談という新たなメディアの可能性

で、なんの話だっけ。そう、松之丞さんはきっと講談をやりながら、その場でちゃんと演目の中の相手役や空間とリアルに呼吸して“本当に相手を感じてる”んじゃないかなって気がしました。

ネットの時代になって、そういう生々しい空間で「人間の生き様」を伝えることばがやりとりされてる機会が減ってますよね。人間のことばややりとりが薄くフラットになってる。

としたら、講談は人間の本当のことばの持つ熱や力を再生させるメディアになる可能性がある気がします。いやマジで。


立川談志師匠は「落語とは人間の業の肯定である」と喝破されたけど、講談とは、あらゆる人の息遣いそのものかもしれない。それぐらい実はリアルだってこと。

いや、ほんと騙されました。これまでの講談イメージに。松之丞さんの講談は観るべき。ことばや舞台に興味がある人なら、観ないと人生損するレベルですよ。

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みたいなことを昔、書いていた。

あのときは、まさか松之丞さんの講談が気軽に聴けないことになるとは思ってもなかったし、崎陽軒のシウマイが忽然と消えるとはね。

そうなんだ。この時点では世の中で「講談」は、まだ一部の人たちの楽しみだった。少なくとも、いまみたいにメディアがわーきゃー言ってなかった。

それが、いまでは言うまでもないことになっている。

松之丞さんはあちこち引っ張りだこで、つい先日、真打昇進と共に6代目神田伯山を襲名した。

その舞台裏(もちろんテレビ用だけど)を録ってあった「情熱大陸」で観てあらためて思ったのだ。

時間はそれぞれの時間軸で必要。でも、傍から見たらストイックなほど可能性を耕し続けた人は必ずちゃんと自分の畑を持てるんだと。

そしてそのときの芽吹きのエネルギーはすごいし、周りで見ていても気持ちいいものなんだなと。

つい最近も、また全然違う世界で、そんな可能性の芽吹きをどうしようもなく感じさせる人がいた。

素直に応援したいと思ったし、それだけじゃなくどこかで繋がっているものを通して、自然界のものたちが共生するように一緒に何か育てられたらなと思ってる。人の持つ可能性ってやっぱりすごい。