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【9章 願った通りの場所に行く】

この記事は「耳で聞くやさしいYOGA哲学フミママラジオ」の原稿になります。本編が気になる方は、下記のラジオをご視聴くださいませ。
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”何に心を向けていくか?”

向けていくことで、それと一体化する、安心を得ることができます。

心を向ける対象も、自分の好みに合った対象で良い、と前回お話しました。
どの対象も、大いなる自然の摂理(イーシュヴァラ)の側面なんですよね。

神社に行き、手をあわせる

祈ることも、自分以外の大いなる力を理解し
(たとえ理解していなくても、どこか少し、自分以外の力があるのでは?と思う感覚、ありますよね?)、

そこに向かい願いや祈りを向けています。初詣、交通安全、合格祈願・・・自分の力以外の力を借りてそれを叶えようとする気持ち・・・

気持ちを向けることで、安心する。心が落ち着くというのは感じたことがあると思います。


今日は「人は願った通りの場所に行くよ」 というお話をしたいと思います。


9章25節

神々に心を向ける人々は、神々の世界へ行く。先祖に心を向ける人々は、先祖の世界へ行く。精霊を敬う人々は、精霊の世界に行き、
自然の摂理を理解する人々は、摂理その物にたどり着く。


ここの内容は、

身近にある、神社や、地方の神々、お地蔵様とか。そしてご先祖様とかそこに、心を向ける人は、その世界に至るでしょう。

意味としては、ご先祖さまに手を合わせているとき、とても落ち着くし安心を得ることができる。それと合わせて、肉体を離れた後に、その世界に行く。

この9-25節は、そう表現している。

例えば、ヴィシュヌに気持ちを向けて、とても心が落ち着く人、寛ぎを得ることができる人は、今、ヴィシュヌと一体化している。そういう意味でもあります。


精霊というのは、森の精霊ある種、悪霊みたいなもの、そんなものいないよーとも思いますが、自然界の中で肉体を持たず漂うように生きて居るもののこと。インドもこの辺は認めているそうですよ。

そちらに心を向けている人も、その世界で寛ぎを得る。

そしてメインは、自然の摂理を理解しようとする人々は、その自然の摂理、そのものにたどりつきますよ。
たどり着く、、、とありますが、実際は、自分を世界は離れていないんだということがわかる。

人間が漠然と抱いている恐れや不安、私は世界から見捨てられている!!といった勘違いが取れていきますよ。

祈りにはちゃんと結果がもたらされます

何に手を合わせ、何に心を向けるかによって、その人に、もたらされる恩恵がそれぞれ違ってきます。

限りないものを望む人は、限りないものに、理解を示し、その結果として限りないモノとの繋がりを得ていくことになります。

それぞれに心を向けたスケールに合わせて、結果はもたらされる。

どのレベルでも、その人が満足であればそれで良い。

恐れや不安がなく、ご先祖様がいつも傍らについていてくれる!!と感じるのであれば、安心するのであれば、それでOK!!

(もっと、もっといろんな理解が深まっていき、)


様々な神々が世界にはあり、この世界全体を動かし循環させている力の。それぞれの側面が信仰の対象になっています。

全てこの世界を生きて居る人々を動かしている、まぎれのない大いなる力、イーシュヴァラとサンスクリット語では言いますが、それに理解を示す人は、

それによって深い理解と、それによる満足、不安や恐れの無さを手にしますよ。ということを言っています。

どうせなら、より頼り甲斐がある方、イーシュヴァラに心を向けて言うのはどう?とギーターは言っています。

今日一日も皆様にとって素敵な一日になりますように。

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