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【短編小説】 終わりかけの味

恋人の誕生日当日に、胃を痛めた。 

家で何か豪華な料理でも作ってお祝いしようかと目論んでいたのだが、外は雨が降っているし、今日は土曜日で久しぶりの休みだ。ゆっくり寝ていたい気分だった。

「申し訳ないけれど、今夜の夕飯は何か買ってきてもらえないかな」と彼に断りを入れ、私は一日中ベッドで横になり天井を見つめて過ごしていた。

夜になると、恋人が仕事から帰宅した。
無添加がウリの惣菜屋のおかずを電子レンジで温め直して、器に盛る。これがなかなか美味しい。ミートソースのかかったハンバーグ、麦ご飯のドリア、ルッコラのサラダに、カニクリームコロッケ。付け合わせにポテトやブロッコリーまでついている。洋風のおかずがテーブルに並ぶと、立派な誕生日ディナーになっている。

恋人は、こういうものを選ぶセンスがいつもずば抜けている。私の場合は、つい欲が出てしまい和洋折衷の雰囲気のないおかずを選びがちだ。ビュッフェなんかもそうだ。
「この人の、こういうところが好きなんだよな」と、呑気なことを考えながら、私はぺろりと目の前のおかずを平らげた。
食べ終わる頃には、私の胃の痛みもすっかり治ってしまっていたのだ。

翌日の日曜日、元気になった私は、昨日の埋め合わせにと、とんかつ屋へ彼を誘った。好きな食べ物は何かと聞けば、彼はいつも「とんかつと蕎麦かな」と答える。なかなか渋い好みの持ち主でもある。

今日は昨日とはうって変わって、よく晴れている。春のあたたかな風が心地よく私たちの頰を撫でてくる。桜はもうすっかり散ってしまい、そろそろ新緑が目を出し始めている頃だ。

私たちは、数年前に改装してすっかりきれいになった行きつけの老舗とんかつ屋の暖簾をくぐり、店の中へ入った。

「いらっしゃい。奥の階段から2階へどうぞ」

お店に入ってすぐ右手にあるカウンターから清潔な白いシャツと帽子を被った板前がよく通る声で言う。

狭いカウンターの奥には、3人の板前がきびきびとした手つきで肉を扱っているのが見えてくる。とんかつ屋なのに、店内で最初に感じるのは、建物に使われているヒノキの爽やかな香りだ。

昔からずっと変わらない、この店の職人の手慣れた仕事ぶりをチラと見て安心感と期待感で、胸を膨らませる。

私たちは、2階の座敷席に通された。
ロースもいいがヒレもいい。たまには肉で野菜を巻いたロールカツもいいかもしれない。どれにしようかと迷いながら、頭の中で想像を巡らせメニューをめくる。ここはいつも、どれを食べても間違いはない。

彼はこの店で1番のイチオシの黒豚のロースカツを注文し、私はエビフライとロースカツのセットに決めた。

遠慮する彼を押し切り、「松竹梅」の他にあるロースカツの中で最も高級な「特吟」をお願いした。彼は嬉しそうに笑い、「やったー」とピースをしてみせた。

しばらくすると、最初にサラダが到着した。四角く、黒い重みのある器に、スライスした玉ねぎと人参の入った千切りのキャベツが盛られ、一番上にはクレソンがのっている。お店オリジナルのとろりとした玉ねぎドレッシングをかけ、2人で黙々といただく。器も冷たく冷え、柔らかい繊細な野菜が美味しい。

私たちはいつも、外での食事中にはあまり会話をしない。大体どちらかが「美味しい」と小さく言って、もう片方が顔を上げて大きく頷く。それだけだ。

通路を挟んで隣のテーブルでは、20代前半ぐらいの若い男性2人組が、ロースカツを頬張っている。「インスタもですけど、YouTubeもあれですよね×××やはり広告的には×××・・」話の内容から察するに、彼らはWEB関係の仕事でもしているのだろうか。2人とも今時の若者風でありながら、この店の雰囲気にもあう、さらりとした品のいいシャツを着て、髪は綺麗に整えられている。静かに、けれども美味しそうに食べている姿にどこか好感が持てる。

すると、新しくひと組の若い男女のカップルが入店してきた。
二人は、アウトドアブランドのお揃いのパーカーを着ている。
彼らは私たちの斜め後ろに着席した。まだ付き合い立てなのか、どこかぎこちなさもあるようだ。彼らは席につくなり、じっくりとメニューを見ている。一体、メニューを選ぶのに何分使っているのだろうか。私が店員ならば気が遠くなるほどの時間に思えた。


周囲の様子を眺めているうちに、私たちの席にメインの料理が運ばれてきた。私の目の前には大きなエビフライが二つ、それにロースカツ一枚分が5つに切られている。ほかほかのご飯に、豆腐とわかめの入った赤だしの味噌汁。香物。

サクサクの衣の奥で豚の香りがふわっとする。噛むとジュワッと肉汁が滴り出てくるが、最後にはレモンの爽やかな香りが喉の奥を通っていく。彼の特銀のロースカツは今まで見たカツの中で一番分厚いのではと思うほどのボリュームだ。こちらから見える断面からもジューシーな汁がしたたっている。
少々値は張るが、やっぱりこれにしてよかった。肉、エビ、肉、エビ。好物を交互に食べられるとは贅沢である。私たちは互いに声をかけることまなく、ただいつも通り、頷きあいながら料理に夢中になった。

気がつくと、隣の若い男たちはいなくなっていた。
そして、ようやく若い男女のカップルのところにも、長い時間をかけて選んだと思われる料理が到着した。

横目でチラリと彼らを見ると、男の方は、私と同じ「エビフライとロースカツのセット」。それに、味噌汁をプラス200円で、アサリにしている。
女の方は「ヒレカツの梅」だ。このお店の中で最もリーズナブルなセットである。この女のようにシンプルなメニューを選ぶのも粋なのかもしれないな、などと思っていると、あぐら姿勢のまま女が口を開いた。 

「なにそれ、エビとカツって。もう2人分じゃん?え?これいくら?うわー高っ!ほんと、あんた変わってるよなぁ。ランチにそんな豪華な物、食べなくない?」

女は猫背のままテーブルに身を乗り出し、上目遣いで彼に話しかけている。戯れてるつもりなのだろうか。
男と同じメニューを食べている私は、自分の皿の上に目を落としながらも左耳を大きくした。

「そんなことないだろ。」

男は無表情で、それ以上の言葉を言わずに目の前の料理を食べ続ける。
その対応、正解だ、男。食べることの価値観を押し付ける人間を、私は好まない。

女は自分のヒレカツを箸で触ったり離れたりしながら男に畳み掛けて話している。顔はニヤニヤと笑っている。食べるか話すかどちからかにしたらどうか。

「え、味噌汁、あさりにしたの?あさりってジャリジャリしてるじゃん。よくそんなの食べるよね。やっぱりあんた、変わってるよ。」

あなたの普段食べているあさりは砂抜きが足りてないんではないでしょうか。男、さぁ、なにか言ってやれ。私は気がつけば心の中で男を応援していた。

「別にそんなことねーだろ。俺あさり好きなんだよね。パスタもいつもボンゴレ。」

男は、それだけ言うと味噌汁を啜り、それ以上女には構わないという様子だ。

実にいい対応だ、と私は思った。
それに、結局女はエビフライを一切れ、彼にもらっているじゃないか。恩恵を受けているくせに、全く変わってるのは、どちらの方だ。


「どう?そろそろ行く?」

唐突に彼に声をかけられた私は、急いでお茶をすすり、それから席を立った。
カップルの顛末(そんなものは無いだろうが)を見届けたい気持ちをこらえて店を出た。

「あぁ美味しかったね。やっぱり間違いないね、ここは。」

満腹になったお腹をさすりながら、店の外で満足げに彼に声をかける。

「いやーごちそうさま。本当にいい誕生日ランチだったわ。ありがとう。ところでさ、さっき俺たちの後ろにいたカップルなんだけど。」

「あ、アサリの?あの女の方、ちょっとないなーって思っちゃった。私ああいう人無理。」

「やっぱり思った?ちょっと嫌だよなぁ。あの2人、上手く行くのかなぁ。」

「うーん。別れるんじゃないの?男の方、全然彼女のこと好きに見えなかったよ。顔も呆れている感じしたし。私が男だったら別れるかなー。」

「たしかにな。なんかさ、女の方、自分の考えが絶対正しいって感じがしたもんな。でも、男の方もメニュー決めるのに相当時間かかってたよな。あれはどうなんだろうな。」

「確かにそうよね。でもね、あのカップルは結局、男の方が女を追いかけるような気もするの。恋愛って結局そういうものじゃない?あーあ。そう考えたらなんか悔しい気持ちになってきちゃったわ。」

「ははは、それはムカつくけどな、それにしても悔しいってなんだよ。でも、なんとなくわかる。」

「私たちは価値観が合っててよかったよね。でなきゃさ、同棲なんて絶対してなかったよね。」

私たちは恒例のごとく店内で見かけた人間たちの妄想話に花を咲かせながら、車を停めていた駐車場へと歩いた。

「あ、ねぇ。今夜の夕飯どうする?スーパー寄ってってもいい?たしか、魚がお得になってたんだよね。お刺身でも買って帰ろうかな。」

車に乗ると、真っ先に私は言った。


「えー、昼飯の余韻に浸ってたのにもう夕飯の話かよ…今はちょっと考えられねーな。なんでもいいよ。腹も減らなそうだしな。」

「ちょっと、そんな他人事みたいに言わないでよ。いつもご飯を作るのは私なんだから。それに今、冷蔵庫に何も入ってないよ。そんなこと言うなら、これからはあなたがご飯作ってよね。日曜日なんだから買い出しに行かなきゃけないんだし。」

「なんだよそれ…今はそういう話じゃないだろ。それに、そんなことで怒るってどうなの、そっちだっておかしいだろ。」

「今にはじまった話じゃないのよ、これは。ご飯を作る方はね、作る前からその仕事が始まってるのよ。あなたは洗濯と掃除だけしてればいいって思っているんでしょうけど。」

「ちょっと、だから、そういう話じゃないって言ってるだろ」


それから2人はまた、店内の時と同じように互いに沈黙になり、車の中でただただ、家に着くのを待つことになった。

あれだけ美味しかったとんかつや海老フライの記憶は、満腹の今の二人にはなんの救いにもならなかった。

まぁでも、「食べ物の恨みは…」ってよく言ったものだ。冷静になると、喧嘩をしていたことが、だんだんと可笑しい話に感じてくる。

「で、どこのスーパーにする?いつものところでいいんだよな?」

彼は、運転席から目を離さずに、隣の私にそう声をかけた。

私は無意識にリズムを取っていた左手の人差し指を車の手すりから放し、トレンチコートのポケットの中に手をしまった。

そうしてから少しの間、鼻筋の通った彼の横顔を見つめた。
3年前、私が惚れた男の顔が、確かにそこにあった。


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