見出し画像

10/18の日記 失って手に入るもの

今日は朝から野暮用で車で1人病院に行く。本当は写真の成城石井のピザトーストが食べたいのだけれど、最近はグラノーラにヨーグルトをかけるのにはまっていて(手軽だから)今日もそれを食べてから家を出る。
麻酔科医に3年前の手術のときはどうでした?と聞かれて初めて「そうかそんなこともあったっけ」と気がついた。当時も身内にしかそのことは言っていなかったけれど、コロナ禍に突入したばかりの2020年の冬に婦人科系の手術をしたのだった。あの時の自分にはとても大きな出来事だったけれど、3年も経ってしまうと人はあっさりと忘れているものである。さらにその1年前は仲間と起業したけれど決裂して無職になったりして散々だった。その頃は時々ふとあった出来事を思い出してはお腹に黒いものを感じる日々が続いていたけれど、今はもうすっかりどうでも良くなっている。何でもかんでもそんなものだ。

そういえば、3年前は今のようにnoteもTwitterもやっていなかった。代わりに本当はつながりたくもない知り合いしかフォロワーがいないInstagramをやっていたがそういうものは今は全て辞めてしまった。友人は減ったけれど(旧友だっただけで元々友人と呼べる人はそこにはいなかったのかもしれない)その代わりに新しい世界は広がった。あの時は映画の感想を何かに書いたり、Podcastで話したりするという日が来るとは思ってもいなかった。自分のような感覚を持った人には出会えないだろうと思っていたけれど日本のどこかにはいるんだと思えて勇気づけられたりするような日が来るとも思っていなかった。

人はたとえ何かを失っても何か新しいものが手に入るものだ。言い方を変えれば、きっと、執着しているものを手放して初めて、新しいものが手に入るものなのかもしれない。

昨年末ぐらいから、新しい仕事を始めたり、今年は自分の状況も少し変わって付き合う人も知らないうちに変わっていた。でも、15年来の友人とはなぜだか急に疎遠になってしまった。
今日も運転をしながらそのことを考えて少しナーバスな気持ちになっていたけれど、それも後になってみたら何か気がつけることがあるのかもしれない。

帰りに抹茶とかほうじ茶が得意なカフェで軽めのランチをし、百貨店で足りないものを買う。(私はなんで百貨店がこんなに好きなんだろう。本当は色々買いすぎてしまった。)

最近は山田太一の小説にハマっていて今も読み進めているのだけれどとんでもなく面白い。近年はどうも日本人の書いた小説がいまいちハマらず、翻訳本ばかり読んでいたのだが久々に電流が走ったかのような感覚がしている。
昭和のノスタルジーととても普遍的な人間の本質が、冷めているような温かいような不思議な温度感の文体で紡がれている。なぜこんな傑作を長年読み逃していたのかと、今は焦るようにして読書に勤しんでいる。これらはすべて、父親の書斎にあったものを借りてきた。父の昭和の親父的なところは今もちょっと苦手だけど、映画や観劇や文学に造詣が深いところはやっぱり好きだから、思うことは色々あるけど全部帳消しにしようと思う。

しばらく文章を書いていなかったけれど、たまにはとてもラフに思ったことを誰のためでもなくこうやってかいていこうなとおもう。(自分のことだから続くとは限らない)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?