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行けば思うこと_2024年3月8月/快晴

ほかの人はどうしてるのか知らないけれど、
わたしは、ある場所にいくと、いつも
この前と同じことを考えてしまう。
いつもというより、そうでないことはないみたいだ。
よく学校とか店とか、思い出の場所にいって、
あの頃の「あの考え方」をしてしまうこと、あるでしょう。
さっきまでは自信満々だったのに、
そこに立って、まわりを見たら、いつのまにか
「できるかなぁ」なんて考えてることもある。

これが、家のなかでも、結構そういうことがあって。
引っ越し後で「思い出」がない、まっさらの部屋だからわかりやすかった。
うまく言えないのだけれど、
昨日は、
タンスを開くとき、「春ものコートがほしいな」と思い、
着替えるときには、「頭が大きいんだよ」と鏡の前で嘆き、
トイレにいけば、「小窓を掃除してすっきりだ」と明るくなって、
玄関の前では、「べつに盗られるものもないけど」と気楽に鍵をかけた。
よく、それをきっかけに「思い出す」というけれど、
それよりも「自動でそう考えてる」が近いかもしれない。
「からだが記憶する」ということを聞いたことがある。
気持ちも考え方も、からだぜんぶから湧いてくるような。
いくところ、いくところでその一瞬、「場所」がキューになって、
たちまち、からだがそれぞれの曲を再生する感じなのだ。
からだは休むことなく、その場の唄を奏でている。
これって、スーツを着ると気が締まるのと同じなのかなぁ。
じぶんは「気づかずに前の続きを考えている」
ということに、引っ越してから気がついた。

わたしは、いかにもじぶんで考えているようでいて、
じつは、なにかにそう考えさせられているのかもしれない。
たしかに、わたしは新しいことを考えるのだけれど、
それはいつも自然と、「その場で前に思ったこと」から考えているわけだ。
「場所」に反応して、からだが「前の続き」をもちだしているんだよね。
そんなこと考えていたら、
これは「場所」に限ったことではないぞと思えてきた。
「人」や「もの」や「できごと」に会ったときも
「前の考え」をひきずっている。
仲直りしたいなと思う人がいて、再び会ったとして、でも
その人を責めた理屈が湧いて顔がこわばることもある。
こういうことを「そうなのか」と思うまでに、
それなりの時間がかかっていたりして、
わたしは、不器用というか鈍感なのかもしれない。
だけど、「そうなのか」となるまでの道のりが、
「考え方」「生き方」を変えるもとになったりするんですよね。

からだが前の続きをやっているということを、
逆手にとると、ほかの道がみえてくるんです。
いろんなことについて前の続きをしていると思っていれば、
「もっといいことを考えてもいい」
と考えられることになるでしょう。
嫌な人をみるとムカムカするという人は多いけれど、
からだだって、好きでムカついてるわけではないんですよね、たぶん。
その嫌いな相手も、またムカつくことを言ったとして、
嫌いな相手のからだからすれば、こっちは「キュー」にすぎない。
そういうことを知っていながら、ではどうしようかと考えられるのも、
「自動再生」に気づいたおかけだったんですよね。

いつも同じというのも、からだがやってたことなんだね。





よんでくださった方、ありがとうございます! スキをくださった方、その勇気に拍手します! できごとがわたしの生活に入ってきてどうなったか、 そういう読みものをつくります! すこしでも「じぶんと同じだな」と 思ってくださる人がいるといいなと思っています。