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弥生時代に水田風景は広がっていなかった?

弥生時代は、一般的には稲作が始まった時代というイメージがあります。

  •  縄文人は主に狩猟・採集を営んでいた

  • そこに朝鮮半島から渡来人が稲作を持ち込み、弥生時代が始まった

  • 日本列島には、弥生時代を通じて、水田風景が広がっていった

 ※トップ写真は登呂遺跡(弥生後期)の水田の復元(写真AC)

荻原浩さんの小説『二千七百の夏と冬』(双葉文庫、2017年)は、弥生時代の稲作の伝来をテーマにした秀作です。一般的な弥生時代のイメージにぴったりで、弥生時代が歴史小説(恋愛小説・サスペンス小説・反戦小説)になるんだとと驚きました。大河ドラマで観てみたいと思うぐらいです。

現在の考古学ではより厳密に、朝鮮半島から九州北部に「水田」稲作が伝わった年代をもって、弥生時代の開始とする見解が共通認識になってきているようです。 

ただ、冒頭に書いた弥生時代のイメージは事実なのでしょうか? 佐藤洋一郎さん(元静岡大学、農学博士)は考古学者とは違う観点から異説を投げかけます。

この記事では、日本への水田稲作の伝来に関連して、主に佐藤さんの説を紹介しながら、以下(目次1-6)の6点を確かめてみたいと思います。


1.縄文の稲作

:混作と休耕

「渡来人が稲作を持ち込み、弥生時代が始まった」と書きましたが、実は縄文時代にも稲作があったことが知られています。

縄文後期の岡山県南溝手[みなみみぞて]遺跡から出土した土器に、稲籾の跡が見つかったのが1991年。翌年にはイネのプラント・オパール(葉の細胞に形成される小さなガラス成分。植物ごとに形状が異なる。イネのプラント・オパールはイチョウ型)も見つかりました。石包丁などの収穫具も出土しました。さらに紀元前15世紀頃の土器からもイネのプラント・オパールが発見されました。

稲作ことはじめ(岡山県古代吉備文化財センター、グラフおかやま1997年8月号)

(上記のリンク先サイトで一部「南満手遺跡」とあるのは「南溝手遺跡」の間違いです)

 イネには大きく3つの品種があります。

  • 温帯ジャポニカ(水稲) 日本人が一般的に食べている米。水田で育つ

  • 熱帯ジャポニカ(陸稲) 乾燥にも強く畑でも水田でも育つ。東南アジアに多い

  • インディカ  (タイ米)深い水田で育つ。長粒、パサパサ系

縄文遺跡から水田跡は見つかっておらず、縄文のイネはすべて畑のイネである熱帯ジャポニカです。

畑のイネといっても僕たちはなじみがありません。佐藤さんは畑の稲作のイメージをつかむために、1998年以降、ラオスを訪れて調査しています。

そこで見られたのは、混作(多様性)と休耕の稲作でした。1つは、畑で栽培されている農作物の種類の多さ(イネ=熱帯ジャポニカ、バナナ、ゴマ、レモングラスなど20種類以上)。もう1つは、急峻な斜面の焼畑によって耕作と休耕を繰り返す稲作だったのです。

佐藤さんは、ラオスの焼畑の稲作の収量は約2.5t/haと、現代の日本の水田稲作(5.3t、2020年)の5割ほどの反収が見込めると試算しています。コストは焼畑のほうがずっと小さいです。焼畑の稲作が水田稲作に比べて劣っているとは言えないと思います。

熱帯ジャポニカが縄文人の日本列島渡来とともに日本にもたらされ、低湿地で、アワ、キビといった雑穀と一緒に生えていて、食べられていたのだと考えられます。

佐藤さんは、イネと雑穀の混作は利点があると言います。

〇(古代日本でも)川の河川敷や湖の湖畔のような土地を…春先の水位の低いうちに草原やそれに隣接する森を焼き払い、夏の間は高くなった地下水位に支えられて稲作を行う
〇このやり方だと、イネや他の雑穀を混作する利点がはっきりと現れる
〇渇水の年には、イネに代わってアワ、キビなど乾燥に強い雑穀の収穫が見込めたのだろう
〇反対に雨が多く湿った年にはイネが多く収穫できたことであろう
〇その意味では…「水陸未分化」の稲作というのがより適切なようにも思われる

『稲の日本史』(佐藤洋一郎、角川書店、2002年)

佐藤さんは「縄文の要素」を強調します。僕はキーワードは、混作と休耕の2つだと理解しました。

ちなみに、インディカは聞き慣れませんが、タイ米を思い浮かべてもらえればいいと思います。カレーや炒飯によく合います。東京のあるタイカレー専門店で25年前に聞いたところ、タイ米の高級品は「コシヒカリよりも高い」と話していました。現在もメニューのお値段は1500円(当時の倍以上)です。

2.水田稲作伝来の年代

:前9世紀が有力

それでは水田稲作が日本に伝来したのはいつぐらいのことなのでしょうか。図表1のように主に3つの説があります。

水田稲作の伝来年代(=弥生時代の開始年代)は、かつては前3~4世紀頃というのが通説でした。仮定に仮定を重ねたもので、もともと根拠はあやふやでした。

これに対して、国立歴史民俗博物館が「弥生時代の開始年代は前10世紀」と発表したのが2003年。水田稲作開始期の土器型式の土器付着物の炭素14年代測定から導いた年代でした(2005年論文)。その正確性をめぐって議論が噴出しました。

弥生時代の開始年代-AMS-炭素14年代測定による高精度年代体系の構築-(藤尾慎一郎他、総研大文化科学研究、2005年)
http://www.initiative.soken.ac.jp/journal_bunka/050509_fujio/thesis_fujio.pdf

一方、藤尾慎一郎さん(歴博)は、テンミニッツTVの動画(2019年、3:30~4:30ぐらい)で「(歴博にとって)残念なことに、弥生時代の開始年代は、紀元前800年頃(=前9世紀)が最も賛同者が多い」と述べています。

その前9世紀の説を唱えているのが、宮本一夫さん(九州大学)です。

宮本さんは佐賀県宇木汲田[うきくんでん]貝塚から出土した炭化米の炭素14年代測定によって、年代を推定しました(図表2)。

僕も宮本さんの前9世紀説を支持します。理由は単純で、土器付着物よりも炭化米そのもののほうが年代推定に適していると思うからです。

※僕のnoteの箸墓古墳の実年代の記事でも触れましたが、僕は土器付着物は炭素14年代測定には問題があると思っています。

宮本さんの説は最有力とされながら、ネット上にほとんど情報がなく、論文「弥生時代の開始期の実年代再論」(考古学雑誌、2018年)を読まないと詳細がわかりませんでした。『古代史の定説を疑う』(宝島新書、2022年)といった書籍でも、(歴博の説は紹介されながら)宮本さんの説は紹介されていません。

2021年になって九州大学の学術情報リポジトリの報告書で、宮本さんの説の概要がわかるようになりました。以下は報告書の「まとめ」からの引用です。

※この記事では、黒川式、夜臼[ゆうす]式、山の寺式、江辻SX-1式といった土器の型式名はわかりにくいため、できるだけ使わないようにします。

5)…(宇木汲田貝塚の)Ⅹ層には、多量の炭化米とともにアワ・キビが少量出土しており、…唐津平野では稲作農耕とともにアワ・キビ栽培が始まり、穀物農耕が始まっている
6)…炭化米とアワ・キビの放射性炭素年代は紀元前9世紀~8世紀のものであり、…この年代を弥生の始まりとすることができる
10)…初期農耕段階は、縄文的生業である狩猟採集活動とともに、イネやアワ・キビの穀物農耕を行う複合的な様相が認められる
11)…(宇木汲田貝塚の)炭化米は熱帯ジャポニカからなり、初源的なイネである。これは天水田などの本格的な灌漑農耕導入以前の粗放的農耕による可能性があり、そのため環境変異に強い熱帯ジャポニカが導入された可能性が高い
15)(より年代を下った)Ⅶ層…の段階は(福岡県)有田遺跡出土炭化米の年代から紀元前6~5世紀にあたる。この時期が、板付[いたづけ]式土器(遠賀川[おんががわ]式土器)文化が唐津平野を含む玄界灘西岸地域や瀬戸内・近畿に広がっていく段階である
・初期に唐津平野に流入した米は熱帯ジャポニカであり…福岡平野を中心に流入した稲が温帯ジャポニカであった

宇木汲田貝塚:1966・1984年発掘調査の再整理調査報告書p112-122(九州大学学術情報リポジトリ、2021年)(開くまで時間がかかります)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/4372000/11_p112.pdf

このように、宮本さんは日本への水田稲作の伝来を2段階で捉えています。

  • <第1段階>
    前9世紀後半 唐津平野に水田稲作が伝来=弥生早期
    熱帯ジャポニカ 
    灌漑施設なし

  • <第2段階>
    前6~5世紀 福岡平野から瀬戸内・近畿に拡大=弥生前期
    温帯ジャポニカ 
    灌漑施設あり

第1段階の水田稲作が、水田で熱帯ジャポニカを栽培していたというのが不思議です。宇木汲田貝塚から出土した炭化米10粒を遺伝子分析したところ、9粒が熱帯ジャポニカだったのです。

東北アジア農耕伝播過程の植物考古学分析による実証的研究(宮本一夫、他、九州大学学術情報リポジトリ、2019年)p156表34(リンク先下部の第8章)

3.弥生の水田風景

:水田風景が広がっていたというのは幻想

生き残った熱帯ジャポニカ

宮本さんの指摘のように、弥生時代は前期以降、水田稲作が全国に広がった時代とされています。水田稲作ですから、イネの品種は温帯ジャポニカのはずでした。

ところが、佐藤さんは1990年代に、青森県高樋Ⅲ遺跡、滋賀県下之郷[しものごう]遺跡といった弥生遺跡から出土した炭化米を遺伝子分析して目を疑います。分析結果が熱帯ジャポニカを示していたからです。

熱帯ジャポニカの割合は以下のとおりでした。

  • 『稲の日本史』(2002年):13遺跡約120粒中50粒ほど(約4割)

  • 『米の日本史』(2020年):22遺跡342粒中91粒(27%)(花森功仁子さんの分析)

対象となった遺跡には、日本で最初に水田跡が発掘された登呂遺跡をはじめ、近畿の池上曽根遺跡、唐古・鍵遺跡などを含みます(図表3)。 

弥生早期の唐津平野だけではなく、前期に日本列島に伝わっていった段階でも、熱帯ジャポニカが一定の割合を占めていたのです。

熱帯ジャポニカは畑に種を播けば育つのに、弥生時代にはわざわざ水田で熱帯ジャポニカも育てていたことになります。

いったい、どのような「水田」だったのでしょうか?

雑草が繁茂していた「水田」

静岡市の曲金北[まがりかねきた]遺跡(古墳中期)は5haもの広さに1区画が3~4畳の小さな水田が1万枚も広がっていた水田跡の遺跡です(現在は消滅)。ほとんどすべての区画からイネのプラント・オパールが出土していました。

〇この時点で多くの人が、富士山を望む広大な平野に見渡す限りの水田が広がる風景を思い描いた。

『稲の日本史』(佐藤洋一郎、角川書店、2002年)

ところが、佐藤さんが「水田が広がる風景」に疑問を抱き、水田跡で雑草種子の数を調べたところ、1㎡当たり以下のような結果になりました。調査したのは1万区画のうち、97区画です。

  • (参考)現代の水田 420個/㎡

  • (参考)登呂遺跡の現代の復元水田(無農薬)1600個/㎡

  • 曲金北遺跡 20000個超/㎡(97区画中19区画)、1600個超/㎡(85区画)

佐藤さんによると、登呂遺跡の復元水田は雑草種子が1600個ですが、1600個でも「田んぼの中は相当草だらけのイメージがぬぐえないほど雑草が繁茂」しているそうです。

何と、曲金北遺跡では9割近い区画(97区画中85区画)で雑草種子が1600個を超えたのです。最も多い種子はヤナギタデでした。

ちなみに、2割の区画(97区画中19区画)では2万個もの種子が落ちていました。少なくとも1㎡に40株ぐらいのヤナギタデが生えていたことになります(1株の種子が500個とする)。 

そんなにたくさん雑草の繁った場所でイネを育てることはできません。しかし、プラント・オパールは出土していて、稲作を営んでいたことは間違いないのです。

この事実が示すのは、曲金北遺跡の多くの区画では、ある時期はイネを育てていたけれども、別の時期は休耕して雑草が繁茂していたということです。つまり、曲金北遺跡は水田区画と草ぼうぼうの区画が入り混じっていたことになります。

それはまさに耕作と休耕を繰り返す縄文の稲作です。

〇水田での稲作の作業の中で、一番骨がおれる作業は草取りである。草取りは…除草剤が開発されるまではもっとも過酷な農作業のひとつだった。暑いし湿度は高い。元気に伸びたイネの葉…の縁はガラスのように鋭い。…無数の切り傷ができる
〇イネを踏みつぶさないように、水の張った地面を這いずり回りようにして草を取る姿勢は腰や背中に負担をかける
〇当時の…人びとはどのように草取りをしたのか。人びとはその当時から勤勉でまじめだったのか

『稲の日本史』(佐藤洋一郎、角川書店、2002年)

〇弥生時代に水田の遺構が急速に増えたという事実は、その土地の全面が継続的に水田として使われていたことを意味するとは限らないのである。むしろ多くの場合、いったんはイネを植えられたことがある、というほうが適切なのかもしれない
〇そうだとすれば、弥生時代に水田稲作が一気に普及したというのは一種の幻想に過ぎず、実態はむしろ開田しては…廃絶し、また新たな土地を田に開くということをくりかえしていたのではないかとさえ考えられるのである

同上

これは衝撃です。弥生前期になって水田稲作が東進しても、混作と休耕という「縄文の要素」が駆逐されることはなかったのです。

登呂遺跡ではトップ写真のように水田風景が復元されています。

大阪府安満[あま]遺跡(弥生前期)の展示館シアターでは、水田風景の映像が映し出されます(2023年3月現在、機械トラブルにより休止中)。

 群馬県かみつけの里博物館では、榛名[はるな]山麓に広がる小区画水田(古墳時代)での農作業風景がジオラマで再現されています。

ひょっとすると、これらはすべて幻想の可能性があるのです。

登呂遺跡を発掘した考古学者の苦労はよく理解できます。ただ、遺跡の発掘は、自らがイメージしたとおりにしか発掘できないものだそうです。考古学者が現代の水田風景と同じ姿をイメージしてしまったのも仕方ないかもしれません。

水田跡の発掘は、曲金北遺跡と同じように、雑草種子の調査も望まれます。

4.弥生人の食生活

:意外と米を食べていなかった

以上は弥生の水田跡(供給側)からの分析ですが、弥生人が主に何を食べていたのか(需要側)からの分析でも、弥生時代に水田稲作が一気に広まったわけではないことが裏づけられています。

僕は2021年11月に、谷畑[たにはた]美帆さん(明治大学)の講演を聴きました。谷畑さんの専門は古人骨を分析する古病理学です。著書や関連する論文も読みました。

『コメを食べていなかった?弥生人』(谷畑美帆、同成社、2016年)

「青谷上寺地[あおやかみじち]遺跡出土人骨の炭素・窒素同位体と放射性炭素年代」(米田穣、他、『青谷上寺地遺跡発掘調査研究年報2019』)https://www.pref.tottori.lg.jp/secure/1228331/04_jinnkotu.pdf

人骨のコラーゲン(たんぱく質)を構成するアミノ酸の炭素同位体比、窒素同位体比の比率から、たんぱく質の由来が米・どんぐり(C3)だったのか、雑穀(C4)だったのか、海獣だったのか、魚介類だったのかなどを調べることができるのだそうです。

ちなみに、人骨からは性別・年齢・身長・病気などもわかります。

例えば結核…朝鮮半島と鳥取の遺跡の人骨に結核の跡(亀背)が残っており、骨病変からも両地域間の交流が裏づけられています。

コラーゲン分析をしたところ、弥生時代になっても人々の生業が稲作中心になったとか、食生活が大きく変わったというわけではないことがわかりました(図表4)。

〇本州の弥生文化では水田稲作農耕と家畜の導入によって、イネを含むC3植物生態系への依存が強まると想像されたが、縄文時代と同じく水産物が重要なタンパク源であり、農作物や家畜への集中はみられなかった
〇少なくとも骨の同位体分析からは、本州周辺の弥生文化は縄文時代の食文化の影響を受け継いでいるようにみえる

米田譲「同位体分析からみた家畜化と日本人の食」
『野生から家畜へ (食の文化フォーラム 33)』(松井章編、ドメス出版、2015年)

漁労や採集が引き続き行われていて、稲作は小規模にとどまり、縄文時代の食事にプラスして米という位置づけだったようです。

そう言えば、佐賀県吉野ケ里遺跡も遺跡周辺に水田跡が見つかっていないという説明が現地にあります。あれだけ大きな集落でも、水田が広がっていたわけではないのです。

書籍や論文のポイントを僕なりに整理してみました。

  • 米食に特徴的な虫歯が増えていない集団がある(島根県古浦[こうら]遺跡、鹿児島広田遺跡)。※一方、福岡県金隈[かねのくま]遺跡では虫歯の比率が10%に跳ね上がり、縄文人の2倍になっている

  • 稲作労働(前かがみ)による変形性脊椎症が増えているとは言えない(弥生人は良好な人骨が少なく、正確に把握できないが)

  • 石包丁よりも釣針やヤス等の鉄製漁具の出土が多い遺跡もある(福岡県御床[みとこ]松原遺跡、佐賀県大友遺跡)

  • 米の需要は時期差や地域差があり一様ではない。稲作地域でも米の依存割合は高くない

  • 例えば、渡来系人骨の多い福岡内陸部(隈・西小田[くま・にしおだ]遺跡)は米食中心だが、山陰(山口県土井ヶ浜遺跡、鳥取県青谷上寺地遺跡やは米・海産物両方、縄文系の長崎県深堀[ふかほり]遺跡、佐賀県大友遺跡は海産物中心である

  • 関東は稲作が遅れたというより稲作をしなくても、狩猟・採集で暮らしが維持できた

  • 水田開発による自然破壊は古墳時代から始まる

  • 水田風景が広がりはじめたのは室町時代から

  • そもそも日本人が米をたくさん食べていたのは明治から昭和前半のみ(宮沢賢治の『雨ニモマケズ』では「一日ニ玄米四合」と詠んでいる)

できることなら、地域(遺跡)ごとに、コラーゲン分析、顔面形態分析(縄文系の低顔か、渡来系の高顔か)、DNA分析などが一覧になっているとわかりやすいと思いますが、そういうものはないようです。

魏志倭人伝に登場する卑弥呼は渡来系(高顔)で米食中心だったのでしょうか? それとも縄文系(低顔)で魚介類中心だったのでしょうか?

5.水田稲作伝来の背景

:縄文人が持ち帰った?

水田稲作はどうして朝鮮半島から日本に伝わってきたのでしょうか。水田稲作の伝来を前9世紀とした宮本さんは、気候の寒冷化が要因だとしています

寒冷化の年代はいろいろな説があります。宮本さんを含め、炭素14年代較正曲線から寒冷化の年代を読み取っている論文を見かけます。僕は本当に炭素14年代較正曲線から気候変動が読み取れるのか疑問に思っています。

近年、気候復元で注目されているのが、中塚武さん(名古屋大学環境学研究所)が中心に開発を進めている酸素同位体比年輪年代法です。ただ、酸素同位体比は残念ながら前600年までしかデータがありません。

前10世紀のデータとして、僕が現段階で最も確かだと考えているのが、阪口豊さんによる群馬県尾瀬ヶ原の泥炭層に積もったハイマツ花粉の分析から、気候変動を復元する方法です。

阪口さんは泥炭層のハイマツの花粉の出現率を2cmの層ごとに調べ、気温低下→ハイマツの生育域拡大→花粉出現率増大と見なして、過去7700年間の気候変動を調べました。図表5はそのうち後半の3000年間を切り取ったものです。

確かに前11~10世紀に寒冷化があったことがわかります(赤丸)。この年代の寒冷化によって、渡来人がより水田稲作に適した土地を求めて、朝鮮半島を南下したという考え方です。水田稲作が日本に伝わったのは、前11世紀に寒冷化が始まって200年経ってからということになります。

これに対して、佐藤さんは、水田稲作を持ち込む際の生活基盤(日本列島で水田稲作を始めるまでの食糧等の調達)を重視し、3つの可能性を指摘しています。

  • 屯田[とんでん]

  • 難民

  • 縄文人による持ち帰り

 1つ目の屯田というのは、秦の始皇帝の徐福[じょふく]伝説のように、少人数の集団(渡来人)が誰かに命じられて日本に持ち込んだという可能性です。

2つ目の難民は、寒冷化や大雨・洪水のような気候変動もあるでしょうし、戦争(例えば中国北方民族の圧力)によって、水田稲作をしていた人々が南に移動を余儀なくされたというような事態も想定されます。難民の場合は生活基盤は脆弱です。水田稲作を簡単に定着させられたでしょうか。

僕がおもしろいと思ったのは3つ目の縄文人による持ち帰りです。

〇もうひとつの可能性は、九州に住んでいた縄文人の集団のなかにみずから半島に出かけてゆき、そこで水田稲作の技術を習って持ち帰った可能性である
〇これならば、生活の基盤を持って人びとが稲作という新しい事業を始めるわけだから兵站の心配はない
〇こちらもなかなかに魅力的な説である。しかしそれにしても(屯田と同様に)九州と半島にそれだけに政治的な力がなければできることではない。

『米の日本史』(佐藤洋一郎、中公新書、2020年)

初期の水田稲作は熱帯ジャポニカを水田で育てています。もともと九州北部の低湿地に生えていた熱帯ジャポニカを、見よう見まねの水田で育てた可能性もあるわけです。

確かに朝鮮半島と九州北部の水田稲作には石包丁など共通する収穫具があり、朝鮮半島の磨製石剣も墳墓の副葬品として伝わっています。水田稲作が朝鮮半島から伝わったことは間違いありません。

かといって、寒冷化によるそこそこの規模の渡来人の移住があったとは断定できないと思います。もともと日本列島にあった熱帯ジャポニカの水田稲作は、縄文人が朝鮮半島から水田稲作を持ち帰った可能性を示唆します。

6.水田稲作の伝来ルート

:中国直接ルートがあったのかは保留

水田風景から話が離れますが、水田稲作の伝来ルートについても触れておきたいと思います。

佐藤さんは朝鮮半島以外にも伝来ルートがあったという説を唱えています。ジャポニカの発祥の地とされる中国南部、長江下流域からの直接伝来です(図表6)。

佐藤さんの根拠は2つあります。

  • イネの遺伝子

  • イネの多様性

 1つ目の遺伝子は以下のサイト記事(佐藤さんのインタビュー記事)に詳しいです。朝鮮半島にはないイネの遺伝子(RM1-b遺伝子)が日本に存在することを指摘しています(図表7)。

2つ目の多様性について、佐藤さんは『米の日本史』(中公新書、2020年)の中で詳しく論じています。僕なりに整理すると以下のとおりです。

  • 日本には高緯度の地域で早い時期に開花する「早生」のイネから、遅い時期に開花する「晩生」のイネまで、品種の多様性がある

  • 水田稲作が朝鮮半島から伝来したのであれば、高緯度だから「早生」の品種のはずである

  • しかし、早生の品種から(突然変異などで)晩生の品種が生まれることは理論上も経験上もない(晩生から早生が生まれることはある)

  • 日本のイネの多様性は、高緯度の朝鮮半島経由のほか、少なくともさらに低緯度の地域からの「晩生」の品種の渡来を想定しなければ説明できない

根拠としては1つ目のRM1-b遺伝子のほうがずっとわかりやすく、動かしようのない事実だとも思うのですが、佐藤さんの最新刊の『米の日本史』では、RM1-b遺伝子について全く触れていません。これはどうしてなのでしょうか? ちょっと気になるところです。

僕としては、現段階では朝鮮半島を経由しない中国直接ルートがあったのかどうかは、保留としたいと思います。

7.記事のまとめ

最後にこの記事のまとめです。

水田稲作伝来は前9世紀

  • 縄文の稲作は低湿地での熱帯ジャポニカ(陸稲)と雑穀の混作だった

  • 朝鮮半島から九州北部に水田稲作が伝わったのは、炭化米の炭素14年代測定により、前9世紀後半と考えられる

  • 渡来人が持ち込んだのではなく、縄文人が朝鮮半島を訪れ、水田稲作を知り、九州北部に持ち帰った可能性もある

  • 水田稲作はその後、前6~5世紀に日本列島に広まったが、イネの約3割は引き続き、熱帯ジャポニカだった

耕作と休耕を繰り返す

  • 静岡県曲金北遺跡の水田跡からは大量の雑草種子も出土した

  • 曲金北遺跡の「水田」では、ある時期はイネを育てていたものの、別の時期は休耕して雑草が繁茂していたことを示す。見渡すかぎりの土地が継続的に水田として使われていたわけではない

  • 熱帯ジャポニカとの混作や休耕という「縄文の要素」は、水田や温帯ジャポニカ(水稲)が広まっても生き残った

  • 登呂遺跡などの弥生遺跡では水田風景が復元されているが、弥生時代に水田稲作が普及したというのは幻想であり、耕作と休耕を繰り返していた可能性がある

  • 弥生人の人骨からコラーゲンの由来を調べても、米の依存度は高くなく、水田稲作が一気に広まったわけではないことを裏づける

佐藤さんの異説としては、以下の3つということになります。

  • 水田稲作は渡来人が持ち込んだのではなく、縄文人が朝鮮半島から持ち帰った

  • 水田稲作の伝来ルートには、朝鮮半島経由のほかに中国直接ルートがあった(僕はまだ賛成できず保留)

  • 弥生時代になっても、遺跡によっては、見渡すかぎりの水田風景が広がっていたわけではない

(2023/7/12最終更新)

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