「君の名前で僕を呼んで」という行為についての言語学的考察

この映画の美しいタイトル、「Call me by your name」を邦題で直訳したのは英断だ。初回の記事でこの映画の挿入歌について触れたが、今日はこの記事タイトルにある通りにすすめていく。まずはいつもどおりインターネットからあらすじを拝借してきた。

1983年夏、北イタリアの避暑地で家族と過ごす17歳のエリオ(ティモシー・シャラメ)は、大学教授の父が招待した年上の大学院生オリヴァー(アーミー・ハマー)と出会う。一緒に自転車で散策したり泳いだり、読書したり音楽を聴いたりするうちに、エリオはオリヴァーに恋心を抱く。やがてその思いは通じるが、夏の終わりが近づくにつれてオリヴァーが避暑地を去る日が近くなり……。(ヤフー映画より)

もはやこの映画のすばらしさについては語るまでもない。むしろ言葉を尽くすほうがもったいない。飛行機の中で初めて観たときめちゃくちゃ圧倒されて、時差ボケで爆睡している両隣を尻目にはらはらと落涙してしまった。英語の台詞が少なく、イタリア語には英字幕がついていたのでかなり助けられたが、なによりも二人がまなざしを交わす濃密でしっとりとしたひと夏の時間。その永遠で刹那的な愛を感じるのにことばなど要らない。だが、今日はこの映画を無粋にも、あえて言語学的に解剖してみよう。


この映画に執拗なまでにに立ち現れるキーワードがある。それは言語だ。
先述の通りイタリア語やフランス語、いくつものことばが飛び交っているエリオの家という舞台設定。彼の家には多くの外来者が出入りし、それぞれの言葉を交わす。
オリヴァーが初めてその並外れた知識をエリオの前で披露するのはアプリコットの語源。アラビア語からラテン語を経由して、エリオのまえに立ち上がる熟れた果実。
若いエリオの操る数か国語と鍵盤の上の音遣い。

ソフィア・コッポラは代表作「ロスト・イン・トランスレーション」の中で、言語の通じない異国における疎外感をテーマに東京で出会い別れる二人を描いた。言語とは最も意のままになるコミュニケーションツールでもありながら、使いようによっては人を隔て、孤独を感じさせることもできる。

本題に入ろう。
夏の夜の睦み合いの中でオリヴァーはエリオに提案する。コールミーバイユアネーム、アンドコールユーバイマイン。それは暗号で、まじないだ。情事を終えた二人のその秘密めいたささやきは、ふと思い出そうとするたびに、ただの部外者である我々の耳元にさえも、熱くあつく立ち薫る。

だが、その二人のたわむれは東洋の我々には耳慣れない遊びだ。恋人同士が名前を交換して呼び合って遊ぶ。そんなエリオとオリヴァーの一連の流れはまるで異国の呪文のように、我々の心にさざなみを立ててゆく。


前提として、エリオが音楽を好んで聴いていたことにも意味があるように思える。音楽は言葉を越えて、誰にでも通じる芸術だ。揺れて戸惑うことがない。音階というものは科学的にも聴覚的にもただ一つに定められるからだ。さらにそれを編曲することで我が物にしようと試みる。それはある種の自己防衛だ。多言語を操るが故のアイデンティティの危機から逃れるべく、彼はゆるぎのない音階に身をゆだね、イヤホンを通じてサティやバッハを耳に満たす。

そんなエリオとオリヴァーの最初の和解は、予告編にも挟まれて印象づいている、あの彫像を通じての握手だ。

あくまでも言葉同士のやりとりをこばむ二人の関係は、しかしタイトルにもなったCall me by your nameをトリガーにして大きく動き出す。

言語にはコミュニケーションの伝達にとどまらないいくつかの役割がある。たとえば、アイデンティティーとしての母語。たくさんの言語が飛び交うエリオの家を取り巻く環境、そして多国語をあやつるエリオの世界において、自分の名前は唯一、どの言語を話していても変わることのない最も根本的なアイデンティティーで、いわば人格の核となる部分だ。イタリア語でも、フランス語でも、エリオはエリオだ。

だが、call me by your nameで行われているのはその核じたいの交換だ。枕元の戯れ、恋人が捧げるのはほかならない自分そのもの。あまりにも無防備で、無条件な意志表示だ。

これはまさに言語の範疇化だともいえる。我々にとっては七色の虹が文化圏によって五つにも十にもなるように、言語の違いは我々の常識や前提ごと覆す。call me by your nameという行為はそんなふうに、エリオにそもそもの人格の脱構築を迫る。


この合図は二人の間にはとどまらない。もう一つの言語の役割として、自集団の他からの差別化というものがある。たとえばギャルがギャル語を駆使してその結束を高めるように、同じ言語を共有することは仲間内の信頼を獲得し、他と自分たちを区別する働きをもっている。この呪文によって立ち現れた「エリオ」と「オリヴァー」の交換で作り出すのは唯一無二の言語だ。両親や客人や女の子たちがそれぞれエリオ、と呼びかける。だが、この交換はたくさんの人が往来する彼の家で、なお階上の二人にしか通じない。

最後に一番ロマンチックな解釈。言語の最後の一面、忌み語や祝詞と同じ類の、文字通りまじないとしての役割だ。おさなごのような遊びで年齢の垣根を越えてゆく。そしてこの言葉を唱えて名前を交換するイニシエーションによってじぶんが「じぶん」、相手が「相手」である現実を拒む二人は、階下の日常をもまるごと否定して、二人の部屋をだけパラレルワールドに持ち込んでいるようにも見える。そして最後の猶予のイタリア旅行、アメリカからの受話器越し、願えばいつでも呼び出せる。君の名前で僕を呼ぶ限り、夏は終わらない。
何もかも忘れない。


この物語は、ひと夏を通してのエリオの少年から青年への成長を描いてもいる。未熟で成長途中の自分をそれでも慈しむということ。call me by your nameによってオリヴァーに根元から覆された彼自身の人格は、彼自身によってエリオ、と呼びかけることで、その当人オリヴァーのなかに立ち現れる。この奇妙で均整のとれた構図。つまりオリヴァーを愛することは、自分自身をまるごと愛することだ。

最後の長回しのシーン、暖炉から肩越しに母がエリオをテーブルに呼ぶ声がする。ユダヤの祭りであるハヌカの食事の支度をしながら呼ぶ母の声は、まるで夏の終わりにエリオに”エリオ”を返してあげているようにも聞こえた。そしてエリオはテーブルにつかなければならない、初めての望まぬ喪失とその替わりを、季節の移り変わりを受け入れて生きていく。そう思うと、最後に涙を拭って振り返りかけたその横顔に、かけがえのない夏の美しさがいつまでも彼の中できらめいていてほしいと、切に願ってしまう。

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