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‐旅立った母へ‐ 来世でも宜しく頼みます

 2020年12月11日午前9時11分、私の母は24年の闘病に幕を下ろして旅立っていきました。ずっと、ここから出たいと言っていた病室からやっと出られました。望んだ形では決してないけれど、最期は穏やかなものでした。

 「どこかで、親は死なないと思っていた」と、私と同世代でお父様を数年前に病気で亡くした知人が話してくれましたが、まさにそれです。入退院の繰り返しで、今秋以降は日に日に状態が厳しくなっていく中でも、どこかで、なんだかんだ言って、いやいやそんなこと…と思いながら過ごしていましたので、現実に起こったときの衝撃たるや、想像以上です。母が「もしものことがあったら…」と話してくれていた保険のことや手続きのこと、もう少し気に留めておけばよかったと思っても今更仕方がありません。

 別の友人に「悲しい気持ちが終わる気がしない」と言葉を漏らしたら、彼女も経験者で、「この類の悲しみは、何年たっても終わらないから、そういうものだよ」と教わりました。彼女は当時気持ちのやり場が無くて、心の整理がつかなくて、ネットを検索したり同じ経験を持つ友人に話したりしたらしいですが、これと言って解決方法はなかったそうです。7年たってもバスの中などで突然涙が出ると言っていました。まじか。街に、駅に、こんな気持ちを抱えながら歩いている人が少なからずいるだなんて、考えたこともありませんでした。私はまだ亡くしたてだから、時々呼吸をするように涙が出しまうのかと思っていたけれど、そうではないようです(人によるのだろうけど)。

 実はこの夏には医師からすでに「年が越せないかもしれない」と言われていて、病院から自宅に戻っていた時は兄と交替で面倒を見ていたので、仕事は若干セーブをしていたし、約束ができないことが多くて、場合によっては理解を得るために少し事情を話さなくてはならないことがありました。急に病院から呼ばれて、仕事の用事をドタキャンしたこともありました。そんなとき、親を亡くして悲しい思いをしたことがある人とそうでない人の言葉の温度差というか、慮る深度は、それだけで見分けがつくほど明らかでした。経験のない人たちも、もちろん十分配慮をしてくれて、協力してくれて、すごく助けられたし支えてもらいました。私が逆の立場だったら、ここまで優しくできたかなと顧みずにはいられないくらい、よくしてもらいました。感謝しています。でも、経験している人たちは、それでも仕事をしようとする私に、真っ直ぐ食い入るような眼で、諭すような声で、「後悔の無いようにしっかりとそばにいてあげなさい。今は何を置いてもお母さんが優先だ」と口を揃えて言葉をかけてくれました。ドタキャンのフォローに行った初対面の取引先の方に言われたときは、知人に言われるより何より説得力がありました。

 私は父も既に亡くしているけれど、別離の方がその15年以上前でした。ずいぶん経ってから知らされましたし、ひどく悲しい気持ちや悔いる気持ちにはなりませんでした。少し思い出すことはあっても、ちょっと記憶の片隅がひんやりと空虚な感じがするくらいで、親を亡くして悲しい、という認識までは無かったと言ってもいいかもしれません。だから、こんな感情を経験しているかどうかでこういう風に周りに対する接し方に差が出るのかと、40歳も過ぎて改めて感心してしまいました。要らぬアドバイスだと思いますが、経験のない人は、親がそろそろ危ないという人がもし周りにいたら、ていのいいことを言おうとせず「それは大変だね」と、その人の心を労わってあげるのが一番だと思います。

 まだひと月も経たなくて、うそみたいで、のりたまのふりかけを見て泣いたり(子供の頃ごはんを食べない私になんとか食べさせようと母が時々取り出したのがふりかけでした)、ファミマのお惣菜〈お母さん食堂〉のパッケージの〈お母さん〉の文字に不意を突かれて泣いたり、悲しみに吸い込まれそうになりながらの毎日です。悲しい出来事は非日常にしておきたいのに、ふとした瞬間に向こうから日常に割り込んできます。

 母が自宅に戻っていた時、一緒に食べた最後のお昼は私が作ったナポリタンでした。お団子ひとつくらいの小さなおにぎりを食べるのがやっとだったのに、一人分を半分こして出したら美味しいと言って完食してくれて、私の分も少し取り分けて追加してあげました。母も食べることができたと満足そうで、うれしい時間でした。しかしその次の週に入院して以来、家に戻ることはありませんでした。私は多分、しばらくナポリタンは作れません。

 コロナの感染防止対策で、入院中はほぼ面会できずでしたが、もうそろそろいよいよという時期から、本人の生きるモチベーションを保つために呼ばれて会いに行くことができました。料金も特別な、特別室というところに入らないといけないのですが、生きるモチベーションはもっと前から保たなきゃいけなかったんじゃないかと疑問もありつつ、最期はほぼ毎日会えただけよかったです。

 自分で身体も起こせない状態で病室の天井と壁ばかり見て、衰えていく視覚に怯えながら、酸素と点滴を繋いだまま、どんどん様子の変わっていく身体をどうすることもできない毎日。まだ元気なころは「他人様にトイレの世話をしてもらうようになってまで生きていたくない」と言っていた母が、それでも看護師さんに声を振り絞ってお礼を言っているのを見て、不本意でも感謝しお礼を言うことがどれだけ母の自尊心を傷めつけているのかと思うと、苦しくて胸が詰まりました。

 「世界で一番悲しい」みたいな顔してちゃいけないと思うのですが、いま母を亡くしてこれ以上の悲しみはないと思います。同じくらいの悲しみは他にもあるかもしれないし、私だけがこの一番悲しい気持ちを経験しているのではないですが、この気持ちは世界で一番悲しいです。

 葬儀までの間に、安置のお部屋で母の顔を見ながら親戚が言いました。「事故で突然亡くなったりする人もいるけど、子供たちにしっかり看取ってもらって幸せ者だよ」と。そうかもしれません。でも、何かと比べてまだよいとか、ここにない状況をどんなに引き合いに出して比べられても、母が亡くなったこと、還らぬ人になったことには変わりません。その事実がある限り、何と比較されても、一滴も悲しさが薄まることなどありませんでした。

 母が亡くなる数日前、私は母からいつもと違うにおいを感じて、予感がしました。何の根拠もないけれど、直感的に別れが近いことを感じました。だからその日に、私は母に「生まれ変わってもまた母娘になってね」とお願いしました。母は、頷いて、私の手をさすってくれました。だから、私は生まれ変わるまでを楽しみに、少し前を向くことができます。

 それから、私がいま崩壊せずに済んでいるのは伴侶のおかげで、これは、本当に、かけがえのない存在です。これまでは、振り向けば必ず母がいて何があっても無条件に愛してくれたから、いろいろなことを乗り越えてこれました。これからは、この人と支え合っていけるようにならないと、という気持ちで暮らしています。

 取り留めもない文章を最後まで読んでいただきありがとうございました。皆さまどうぞ、よいお年をお迎えください。

※表紙の画像は、2020年のお正月に母が体調を崩しながらも意地で作ったおせちのお煮しめです。今でも口の中に味が蘇ります。

 おわり



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