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迷惑かけて生きています

二列で並ぶ駅のホームに電車が滑り込む。ドアが開くのに合わせて待機の列は左右に分かれる。降車優先なので乗客が降りるのを待つ。そのとき片側の列で先頭にいたオッサンが、まだ降りている人がいるにもかかわらず我先にと乗り込みだした。

すると降車の客はもう片方のスペースからしか降りることが出来なくなり、自然と僕が待機するほうの列はすぐには乗り込めず、全員が降り終わるのを待つことになる。ようやく乗れてもマナーを守らず片側から先に乗り込んだ連中が空いた座席を悪びれる様子もなく確保してスマホをいじり出している。

頭にきた僕は、片側から先陣を切って乗り込んだ腐りかけのロールキャベツみたいな皺と脂を顔面に刻んだ息の臭そうなオッサンの前までツカツカと歩き、オッサンが手に持っていたスマホを取り上げ「今あんたがケツを休めながらクソみたいなソシャゲをゆったりと満喫できる時間は周りの誰かが守ったマナーの上に成り立ってんだよ!」と車両全体に響き渡る声で腐りかけのロールキャベツのうえから降らせた。そのまま手早く強引にスマホを取り上げ、ナイフとフォークで柔らかな体温をこじ開けるように、半開きのオッサンの口のなかにiPhone12をねじ込んだ。去り際「そう生き急ぐなよ。人生100年時代になったんだから」と静かに吐き捨て、目を見開いて震えるロールキャベツからそっと離れた僕は近くのドアに肩を預けてやれやれと溜め息をつき、流れる街の景色をボーッと眺めた


という妄想が終わると、電車は次の駅に着いていた。

何が言いたいかというと、ひとは無自覚のうちに他人に迷惑をかけており、無自覚のうちに他人の敵意に火をつけており、また無自覚のうちに(多くの場合は瑣末なことだと看過され他人の慈悲によって)許されているのだ。
この前提を忘れないほうがいい。

先述のエピソードは定期的に出くわし都度腹が立つ出来事ではあるものの、事後10秒もすれば忘れるし、世の中に溢れる影踏み合戦のなかでは相当ミニマムな問題提起だろう。

ただ世の中にはとんでもない角度から着火してくる本物の"モンスター“が平然と生息しているので怖い。誰かの反感や敵意を無自覚に買っていれば、またそうでなくても思わぬタイミングで身勝手なモンスターの餌食にされることはある。

僕は数年前に駅のコンコースを普通に歩いていたらいきなり後ろから蹴りを入れられたことがある。

一瞬なにが起きたか理解ができず、反射的に振り返ると40後半ぐらいの見知らぬガテン系の男がこちらを睨みつけていた。まるで意味が分からず状況の把握に戸惑ったので問いただしてみると「俺の前でチンタラ歩いてんじゃねぇよ」と返してきた。

チンタラ歩いていた自覚はないし、万が一歩いていたとしても蹴られる筋合いはないし、億が一蹴るほどの怒りを覚えたとしても瞬発的に沸騰して本当に蹴るというアクションにまで移せてしまうコイツは人間の皮を被ったモンスターだなと瞬時に理解をした。

とはいえ納得がいかず、「理由になってない。おかしいでしょ」と僕も気付いたら言い返しており、しばらく押し問答になった。埒があかないので「駅員のところか警察に行こう」と話したらようやく面倒だと思ったのか、男はその場からブツブツ言いながら立ち去った。

あれはわかりやすくヤバいエンカウントだった。
たまたま"怖いよりも腹立つ"が勝るケースだったものの、運が悪ければいきなり刃物でサクッといかれて「無敵のひとです。ジョーカーです」ってパターンもあったはずで。

それでもしばらく思い返しても理不尽で腹が立って「駅なんて今そこら中に防犯カメラがあるからいくらでも通報して立証できたな」とか「ラフな格好で歩いていたからナメられたかもしれない。服装や姿勢も大事だな」とか考えた。「暴行罪ってどこから?傷害罪の範囲は?」とか調べて「簡単な法律は頭に入れておかないとな」なんてことまで思った。

昔から他人の敵意や悪意、感情の機微や変化に敏感だった。それは大人になるにつれさらに研ぎ澄まされてきた気がして、公共の場や人混みの中にいるとひどく消耗する。この感度の高さによって避けられたリスクや仕事に生きたバランス感覚もあったが、やはり強い感情や理不尽な心理に遭遇すると、人一倍「もらって」しまう。気を付けている自覚もちゃんとあるからこそ「なぜ?」という疑問も浮かぶ。HSPという言葉を認知したときには妙に腑に落ちた。

誰しも生きているだけでひとに迷惑かけるわけだから、"迷惑かけないように生きます!"なんて考えは立派なようでいてむしろ傲慢。だから「きちんとひとに迷惑かけていることを自覚したうえで謙虚に生きる」というほうが正解。最近読んだ禅の本にはそう書いてあった。


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