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”ほぼ初”だった我が家のお盆と、祖父のこと

 お盆といっても、それに絡む何事も、したことがなかった。
 だいいち仕事だった。
 出版業界(とりわけ雑誌)でよく使われる「お盆進行」という言葉は、だいぶ人口に膾炙した感もあるが、印刷や製本が休みだとしても、編集にはやろうと思えばできる仕事は山ほどある。経営者が編集出身だったりすれば、やろうと思えばできる仕事をやらせようと考えるのは自然だろう。もちろん日程をずらして少しばかりの「夏休み」は取得するが、それが「お盆休み」でないのは明らかだ。
 そんなような理由から、就職して以来、まともにお盆という行事に関わった憶えはなかった。
 ついでに言えば、それ以前の子ども時代や学生時代に、お盆に絡んだ何かを行なったという記憶もなかったりする。
 これは自分というよりも、あまりそういうことを重視しない家庭だったということの方が大きいだろう。ただ、9月におはぎを持って某霊園を訪ねた記憶はふんだんにある。お盆の頃には旅行とかにも行くしちょっと無理なので、その代わりにお彼岸には墓参りに行こう、という理屈なのだろう。そういう両親だったのだ。

 それほどお盆と縁遠かった私が、今年は結構、お盆らしいことをやった。
 取り立ててこれという理由はない。今の私の立場は一応フリーの編集者ということになるが、既にその状態で数年を過ごしているので、会社勤めを止めて時間ができた、という理由は当たらない。
 強いて言えば、罪悪感、だろうか。今まであまりにも何もしなかったことへの。ここ数年、お盆の頃になると、我が家の猫は空間に視線を彷徨わせる。それを見て、なんとなく「いらしている」ような気がして、今年はちょっと、やってみようかなという気になったのだ。
 とはいえ、それほど大仰なことはしていない。キュウリとナスで馬と牛を作り、お供えの果物を買い、迎え火と送り火を準備したくらいである。
 迎え火も、電池式のランタンに、コピー紙を横長に切り、家族がイラストを描いたものを巻き付けて簡易にも程がある盆提灯っぽいものを作っただけ。それでも、部屋の電灯を落としてランタンを点けてみると、なかなかどうして迎え火らしさが出た。
 これで今年は、少しはご先祖に顔が立っただろうか、などと考えて盆を過ごしたのだが、御利益なのか、いつも夜型な私にしては珍しく早起きできる日が続いた。あるいは、あまりに寝覚めの悪い私に業を煮やして、ご先祖の誰かが私の頭でも叩いて起こしてくれたのかもしれない。

 先祖という言葉から、いつか私は父方の祖父のことを思い出していた。
 祖父は大正生まれ。昭和を生き、平成の半ば(この言い方も、今になってこそ言えることだ)を見ずに亡くなった。
 私が育った家は祖父の家の裏手で、よく「集金」と言って競輪場に出かけていった祖父が、逆に集金されて帰ってきて、祖母に叱られているのを見ていた。同じように近所に住んでいた伯母には、戦争に行って、帰ってきたら大酒飲みになっていたよ、とも教えられた。
 私に対しては何だかいつもにやにやしていて、風呂にはあまり入らず、私の家の庭に植わっていた蜜柑の木が実を結べば、断りなくもいで皮も丸ごと食べてしまう。そんな祖父を、小学校に上がる前の私は叩いたり蹴っ飛ばしたりもしたものだけど、心から嫌い、というのとは少し違った。
 祖父が何をして父や伯母たちを養ってきたのか、戦争の話ともども聞きそびれてしまった。けれども、私が物心ついた頃には、自分の家の上がりがまちの一角に手動式の小さな活版印刷機を置いて、近隣から受けた名刺や年賀状の印刷をやっていた。その小さな印刷機を「テキン」とか「テフート」と呼ぶということは、つい最近、活版印刷を題材にした小説を読んで初めて知ったことだ。
 ずるっぺたん、ずるっぺたん、という、テキンが印字する音を幼い私は気に入って、両親とも不在の時には、祖父の家でその音を聞きながら遊ぶことも多かった。父は全く別の仕事を選んだけれども、私が文章だの編集だのという仕事を選び、続けているバックグラウンドのどこかには、たぶん祖父が居るのだろう。
 手足の伸びきった私を見て、珍しくしみじみとした調子で祖父が「いい若い衆になった」と呟いたのは、その死の数年前だった。

 自分も平成年間以上の時間を生きてきて、そろそろ“手が届くこと”と“届かないこと”の区別が見えてきそうではある(もちろん、安易に“届かない”を増やすつもりは毛頭ないけれども)。
 ただ、それでも、それなりにちゃんとは、生きないと。もう平成ではない来年、帰ってきた祖父たちが、変わらず心やすく居られるようにはしないと。ランタンの送り火を見ながら、そう思った。
 頑張る理由は他にも山ほどあるけれど、これは割と、長持ちしそうな動機付けである。

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