10/13(日)「麦秋」という作品

「麦秋」という映画を見たことがあるだろうか。私は台風の最中の土曜日の午後から二回目の「麦秋」を見始めた。行きつけのマスターの話と鼻歌で映画の風景を思い出して、二回目の「麦秋」鑑賞をした。一回目とは全く違った顔を見せた「麦秋」を見て、思わず言葉に纏めようとこちらに記すこととした。
劇中の感想を「ー」で囲い、その下にきっかけや鑑賞後の感想を後に載せる。

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冒頭の歌、もうそれだけで涙が出てしまった。一回目見た時とは全く違う感情、故郷に帰ってきたかのような感覚に陥っていたのだろうか。

最初は菅井一郎さんとオサムちゃんの画。ああ、なんて良いのだろう。すっかり最初の2分で心は満たされてしまった。ここまで充足してしまったら、この先の時間の過ごし方はどうなってしまうのか、一瞬不安もよぎった。

途中あれこれ語ってしまうと冗長になってしまうから、圧縮して書くこととするけれど、
家族での料亭の食事、「ミノル」と「オサムちゃん」が出てくる場面の数々と、淡島千景さんと原節子さんの「未婚組」vs「既婚組」の場面、杉村春子さんと二本柳さんの母息子での場面。これが良かった。
笠さん、原さんと三宅さんの兄弟での晩酌での話。男女間での違いの話だったと思う。料亭のシーンは数々、小津さんの作品には出てくるけれど、私はここが一番お気に入りかもしれない。
「ミノル」と「オサムちゃん」はいろんなことのいたずらを企てる。ミノルちゃんにそそのかされてしてしまったり、お互いに家出してしまったり。
ひょうきんな淡島千景さんと原節子さん。ただの話だけじゃなくて、お互いに走り回ったりする。
杉村春子さんが思いのままに言ったことが通じた後、二本柳さん演じる息子さんとの中で、何とも言えない表情があったと思うのだけど、経緯はわすれてしまった。

最後の麦畑。新郎新婦が歩いていく姿。
「どこに片付くのでしょうね。」と東山さん。
しみじみと風船の飛んでいくシーンを主に重ね合わせながら、映画の幕は閉じる。

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ここまでが思い思いに書き綴った二回目の「麦秋」である。映画を見終わった瞬間、大雨警報が発令され、一気に現実に戻された。こんなにうまい話があるのかと思わず唸ってしまった。

私はこの作品を最初に見るようになったのもふとしたことだった。茂木健一郎さんが「紀子三部作」という言葉をどこかのメディアでおっしゃっていたのを見かけたと同時に小津安二郎さんの映画も好んでみるようになったという二つの背景があり、図らずも見ることとなった。

また思い出してみると、「小津安二郎」という名を知ったのもふとしたことがきっかけであった。インターン先で一緒に働いていた派遣の方と帰りご一緒することとなり、たわいもない会話の中で、彼の名が立ち上がってきたのである。詳しくは忘れてしまったが、社内での関係のみだったので、お互いの個々の話、自己紹介みたいなこともこの場が初めてだったのは覚えている。だからいろんな話題を探りながらの中で、鎌倉と映画の話になり、そういう中で「彼」の名が紹介されたのだと思う。

私と小津さんの映画には、こうしたふとしたことがいっぱいに連なるのである。私の小話だけでなく、フィルムにも表れていると思う。家族の話の中に、戦争や男女差の話、戦後の風景などいろんなモチーフが詰まっている。それもどこかの話に傾斜がかかるのではなく、どれも健やかに描かれている。数多くの小津作品の中で、少なくとも「麦秋」や「秋刀魚の味」にはそういった要素は多いと感じる。

私は1996年生まれの23歳であるが、こういった映画を自分の世代はもちろんのこと、後世にも残し、引き継ぐ。より良い日本や世界にするためにも、こういった映画や文化の数々を見て、感得し、時代を作っていくことが私たちの世代の一つの使命ではないだろうか。

一回目見たときとは全く違う印象を抱いた、麦秋。小津安二郎という世界を広げてくれた方の言葉を最後に添えながら、この駄文も終わりにしようと思う。
「小津さんの作品はね、何度見てもいろんな発見があるんだよ。だから、いっぱい見てご覧なさい。」
私は作品の魅力をほんの一部しか知れていないし、まだまだ見ていない作品がいっぱいある。今村昌平さんの「にっぽん昆虫記」もこの前に見たけど、これまた良かった。このようにまだまだ未開の領域がいっぱいある。
千里の道も一歩からという言葉にもあるように、一本一本大事に見ていきたいし、何度も反芻しながら、映画や本、創作物の世界と現実の生活を行き来しながら、今後も生きていくことを約束する。


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