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気分は崇高

暑い。うちの Koo ちゃんは早朝には出かけてしまう。わたしが仕事に出るときには、もう床で寝転がっている。朝活は猫にとってもベストらしい。徒歩で駅に向かうとき、最近は雲が気になる。巨大だ。しかし巨大さを感じるにはコツがいる。心のなかでGoogleのマジック消しゴムのように建物を消さないといけない。すると背の低い木が数本と地平線だけになって、あとは青い空と入道雲になる。そんなふうに想像して、ようやく巨大な感じ、宇宙の果てしなさ、地球のデカさをイメージできる。圧倒的な風景を前にしたとき、さびしくなるのは何でだろうと思っていたけど、ショーペンハウアーを読んでわかった。これが「崇高」とよばれる感情らしい。

子どもじみていると思われるかもしれないが、むしろ子どもの頃はわざわざ建物を消す想像はしなかった。崇高なんか知らない。巨大さを感じられるようになったのはいつだったか。そして、わざわざ想像力を働かせてでも巨大さ(崇高さ)を感じたいと思うようになったのはいつだったか。

およそ10年前、異国に駐在していた頃、インフラが未整備な地域をたくさん回った。カラカラに乾いた荒野のような厳しい環境で、木が一本も生えていない岩山を四輪駆動車で移動した。さびしいような、ひれ伏したくなるような、そんな光景だった。車線もない。街灯もない。信号もない。電線もない。かろうじて舗装された道が伸びているだけ。村に着くまでは、ほとんどなにもない。太陽のまぶしさ。熱さ。生き物が見当たらない。まるで火星の山々だった。夜も印象的だった。暗闇のなかを慎重に進むヘッドライトだけが闇に浮かび上がる。車をとめて外に出れば、満天の星空に震え上がった。太古の昔から人類を拒絶してきた峻厳な岩のつらなりが暗闇の向こうに広がっていた。ここはわたしの知っている地球ではない。だけど、これこそが地球という惑星なんだと実感した。

人間を圧倒する風景。人間に無力感をあたえる偉大な自然のたたずまい。それらは人間をさびしくさせる。でも、それは良いさびしさだ。崇高な気持ちになると旅に出かけたくなる。だけど、この夏も忙しいから行けないだろう。いつもの言い訳。書いていて気が滅入る。知らない土地の知らない誰かに会いたくなる。あの人も、この人も、かわいいあの子も、崇高さのなかで生きている。

労働というと重いけど、一般的に仕事というのは疲れるものだ。いろいろな疲れがある。驚くほどの多様性。だけど自分の疲れは自分だけの疲れなので、いつもパターンが一緒だ。息苦しくなる。見知らぬ他人のしごとを想像して、他人の疲れに思いをよせることで、わたしはわたしの疲れとようやく向き合える。わたしだけじゃなさそうだとホッとする。そこには崇高な感じがちょこっとある。帰宅ラッシュの車両のなかで座れないのは辛いけど、まだ足腰は丈夫だから、人のなかに飛び込んで吊り革にぶらさがる。朝とはちがう人混みの弛緩した空気は好きだけど、疲れが淀んでいるようにも感じるから、マスクで遮断する。電車のなかで目をつむって、イヤホンから流れてくる英語のニュースに耳をかたむける。知らない言葉はわたしを拒絶する。だけど、わたしが拒絶された気がするだけで、人類全体が拒絶されているわけじゃない。おもしろい。言葉はしゃべると伝わる。意味なんか後からついてくる。だから好きだ。明日なんかわからないし、しらない。みんなそうじゃないのか。

帰ると、猫の姿がない。また出かけている。雨がもうすぐ降りそうだ。ところで、Kooちゃんはご近所の風景をどう感じているのだろうか。人の言葉をしゃべれないから、わからない。しゃべりだしたら化け猫だ。でも聞いてみたい。崇高さを感じることはあるのだろうか。ニャゴニャゴいいながらウサギちゃんのぬいぐるみにマウンティングしているとき、もしかしたら昼間散歩した都市文明の崇高さを思い出して、さびしくなっているのかもしれない。

ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』を寝る前に一編だけ。タイトルはもう忘れたが、若い女性の話。家族を離れて、船乗りの恋人といっしょに外国へ行こうと思って、やっぱり止めてしまう。とてもよかった。何がよかったのかは言葉にならない。だからこそ小説という表現がある。

ポッドキャスト「ゆる言語学ラジオ」の天才MCのうちの一人、水野氏いわく「小説が読めない。何を読んでも『器用に立ち回ればいいのに』と思ってしまう」。この言葉は名言で、そういう意味では、この短編の女性も「器用に立ち回ればいいのに」でピリオドだろう。だが芸術の感動や救いはそこからはじまる。

あのとき、どうしてこうなってしまったのか。ままならない。理由もわからない。わかったところで、どうしようもない。まさに不器用。だけど、そういう人間として存在している。そういう存在がこの瞬間を生きている。あるいは生きた。せいいっぱい生きた。言葉によってあざやかに切り取られた彼女の物語のワンシーン。こんなふうにさり気なく語ってくれる人がいる。こんなふうに見てくれる人がいる。うつくしい映画の忘れられないカットのような感動。宗教的な、といってもいいくらいの感激があった。

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