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ラーチャプルックの熱風

 体感温度45度を越える熱風を受けながら、片側3車線の端っこをバイクで走っている。通常の暑さなら、バイクで走れば風を受けて少しは涼しく感じるものだが、4月の酷暑期は、いくらスピードを出して走ろうが、まるでドライヤーの熱風を受け続けているかのような熱風地獄である。停まっていても、強烈な日差しとアスファルトの照り返しを受け、背中をつーっと汗が流れる。特に今年はエルニーニョ現象の影響で例年以上に暑く、つい先日の4月15日はターク県で最高気温44.6度を更新したばかりだ。
 
 そんな暑さに騒ぐ人間をあざ笑うかのように、道端の多くの街路樹が色とりどりの花を咲かせている。不思議なもので、タイはこれほど暑いのに、日本の春と同じように3月から5月に花を咲かせる植物が多いのだ。
  そんな中でも酷暑であればあるほど黄色い花を満開に咲かせ、神々しいまでに光り輝くのが、ゴールデンシャワーだ。タイ語では「ラーチャプルック」といい、タイの国の花に指定されている。地方によっていろいろな呼び名があるが、北タイでは「ロムレーン(強風)」とも呼ばれ、その名が示すように、この時期特有の突風を伴う嵐がきて無残に花を散らしてしまうのだが、その雨の後はすっと気温が下がる。局所的な暴風雨が直撃すると屋根や木を吹き飛ばしてしまうこともあるので、かつてこの地の人は、どうしても嵐を避けたい時にはこの木の葉を用いた呪いで避けていたという。しかし、今年はその嵐自体が少ない。
 ゴールデンシャワーの花が満開になると、すっと伸びた木に、藤の花のような見事な花房が無数にぶら下がる。桜と同じように葉が出る前に花が咲くので、満開時は樹木全体が黄金色になる。木の下に立って花を仰ぎ見れば、金色の霧雨めいた光のシャワーが顔にキラキラと降り注ぐ。街路樹として植えられた場所は、今、花盛りを迎え、通り全体が明るく華やかで生命力に満ちている。

 今年は熱中症のニュースも多く耳にする。
   8年前のちょうどこの時期も記録的な猛暑だった。その年、私は暑さで倒れた。
 熱中症だとばかり思い込んでいたが、後からそれはパニック障害だと知った。いずれにしても、初めの発作は猛烈な暑さが引き金となったことは間違いない。屋外の取材先で倒れた私は、滝のような汗と止まらない震えと割れるような頭痛と腹痛と恐怖の渦中で、こればかりは経験のある人にしか分からないと思うが、このまま死んでしまうのだと思った。頭の中で非常ベルがけたたましく鳴っているのに、体は地面に引きずり込まれるように重く、動けなかった。助けてもらった車の窓から見た空だけは、いつもと変わらず、あっけないほど青かった。それは一度に限らず、いろいろな場面で起きたが、暑さが起因となることが多かったので、その年の暑季の間は、昼間に外出することがほとんど出来なかった。
 遮るもののない大通りをバイクで疾走しながら、思い出していた。今年はあの時と同じくらいの暑さだが、私は元気だ。それだけでありがたい。生命力と死の恐怖の渦巻く、盆地サウナの中をバイクで走り続けていても、意識はこんなにしっかりしている。

  ふと、隣の車線を赤いアンティークカーが走っているのが目に入った。私は車に詳しくないが、おそらくヨーロッパ製の古い車だろう。最高時速はせいぜい80キロくらいか。ボディの赤に黒いフェンダーのおしゃれなツートーンカラー、バンパーなどはメッキがピカピカに磨かれていて、大切にメンテナンスされているのがわかる。
 そして、今日のような強烈な日差しにおいても、それはオープンカーなのだった。
    白いシャツを着たおじさんがひとりで運転している。背筋がぴんと伸びているのは、シートが熱されていて、背もたれにもたれると熱いからに違いない。ほとんど毛のないおじさんの頭の天辺が、猛烈な日差しを照り返している。熱中症にならないかと本気で心配になる。どうしてこの酷暑の中、わざわざこんな車に乗っているのか。なぜ、ホロを使わないのか。何かこの車でなければならない理由があるのかもしれない。もちろん、すてきな車には違いないが、この猛烈な暑さで、家族や車好きな孫たちでさえ、誰ひとりとして同乗してくれないのだろう……なんていう勝手な想像が膨らむ。やはり今だけは、屋根が付いたクーラー完備の車がありがたい。
   猛烈な熱風を顔面に受けつつ、ピカピカのアンティークカーを運転するおじさんは、その顔こそ見えないが、きっとご機嫌な笑みを浮かべているに違いないと私には思えた。

 その赤い車の反対隣りを、今度はさも高級そうなビッグバイクがブオンと鼻息荒く追い越していった。チェンマイではコロナ以前からビッグバイクが増えている。けっこう若い人が乗っていることが多く、調子に乗ってスピードを出すので危ないし、実際に事故も多い。
   ふん、いくら速くても、受ける風はみんなと同じ熱風に変わりないのだからと、通り過ぎたバイクの後ろを睨んだら、ライダーのお兄さんの肩に、なにか黄色いものが乗っているのが見えた。
 赤信号でビッグバイクに追いついた私は、すばやくその左肩の黄色を確かめた。
  それは、大きなピカチュウのぬいぐるみだった。通りすがりのビッグバイク野郎のことは何も知らないが、ピカチュウが大好きであるということだけは間違いないだろう。

 猛烈な日差しを受けながら、赤信号の交差点の前列に、赤いアンティークのオープンカーとピカチュウのビッグバイク、そして青いボロバイクの私、の3台が並んだ。アスファルトはいよいよ鉄板のごとく熱されて、足元からゆらゆらと熱気が立ちのぼる。おじさんの頭頂の輝き、ピカチュウの黄色、パニックの恐怖、ラーチャプルックの黄金。熱が全てを溶かし、揮発して上昇しながら、底抜けに青い空に混じり合っていく。
 信号が青になった。ビッグバイクのお兄さんは、ブロロロと大きなエンジン音をまき散らしながら走り去った。ピカチュウの黄色があっという間に小さくなっていく。続いて、赤い車。おじさんの背筋は伸びている。
 そして、私も走り出した。私は、元気だ。
 人目なんか気にしない、そんな風に生きていく。


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