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初詣


 この寺が有名になる前は参拝客もまばらで、古い回廊が取り囲むひなびた雰囲気と、国立公園を望む寺からの眺めがお気に入りだった。今ではすっかり変わってしまい、いつ行っても混雑している。うっかり仏教の祭日に行ってしまったときには、境内に混み合う参拝客と白く立ち込める線香の煙に酔ってしまいそうになったほどだ。とはいえ、何しろ家から近いので、参拝客の少ない裏山の参道を、運動不足解消や気分転換に時々ふらっと上っている。

   その日も軽い運動が目的だったが、新しい年になって初めてお寺に参拝するのだから初詣だと、寺に向かう途中で気が付いた。
 寺まではバイクで10分もかからない。「ドーイカム(金の山)」という名前の小さな山の天辺にあり、タイ航空が空の安全を願って建立したという巨大な仏像が座している。遠くからでもそのシルエットは見え、この辺りのランドマークにもなっている。
    寺の名前は、山の名前と同じ「ワット・ドーイカム(ドーイカム寺)」という。小さな寺だが、その歴史はチェンマイの都より古く、1300年前に建立されたといわれている。

    昔むかし、この山には鬼の精霊が住んでいた、という話が伝わっていて、参道の入り口の祠には2体の鬼の像が祀られている。 初めてその祠の前を通ったときは、牙の生えたおじいさんとおばあさんの、かなりリアルな像が鎮座しているのが見えてどきっとした。祠は鬱蒼とした藪に覆われていて、昼間でもどこか不気味だった。
  近頃は観光化が進み、祠周辺もきれいに整備されている。が、今でも毎年雨季の初めのころになると、鬼の精霊に水牛の生贄を捧げるというセンセーショナルな儀式が行われていて、この地域の人々の信仰を集めているのだった。

   しかし、この寺が多くの人に知られるようになったのはそんな伝説のせいではない。
   5年ほど前に、この寺の名を国中に轟かせたニュースがあった。それは、この寺にお参りした後に宝くじを購入した若い女性が、一等の約3000万バーツ(日本円でおよそ1億円)に当選したというものだった。 
 その後も参拝後に宝くじに高額当選したという人が現れ、寺の噂はあっという間にタイ全国に広まり、参拝客が押し寄せるようになったのである。タイの人たちは宝くじが大好きなのだ。

 宝くじの当選祈願をしたい人は、本堂横にある電話ボックスほどのこぢんまりした祠に祀られた「タンジャイ仏」にお参りをする。願いが叶ったあかつきには仏像にお礼参りをするのだが、その仕方がちょっと変わっていて、ジャスミンの花輪を数百本から、内容によっては数万本も捧げるのである。普段、仏像にジャスミンの花輪を捧げることはあっても、せいぜい3本くらいのものだから、その数は尋常ではない。手のひらに乗りそうな小さなタンジャイ仏はジャスミンの花輪にうずもれ、祠の前には花輪を山盛りにしたお盆がずらりと並んでいる。          だから、寺に向かう車道沿いには、ジャスミンの花輪を売る屋台が約1キロにわたって軒を連ね、前を通る車に手招きをする光景が今ではドーイカム周辺の風物となっているのだ。

 コロナ禍も長くなってくると、人々の暮らし方もウィズコロナへと変わっていった。ワクチン接種もスムーズに進み、国内観光はずいぶんと活気を取り戻しつつある。 新年明けたばかりのこの日は、ドーイカム寺までの車道は混んでいるに違いなかったが、裏山の参道では、不思議なくらい誰にも出会わなかった。

     山肌に作られた徒歩専用の参道は、さっさと登れば20分もかかからない距離だが、それなりに傾斜は大きい。私は息を切らしながらゆっくり登った。日本の四季ほどのドラマチックな変化はないものの、参道に小さな自然の移り変わりを見つけるのがささやかな楽しみなのだ。
  枯れ枝の隙間にひょこっと顔を出した小さな茸や、誰かが木の幹に植え付けたらしい蘭の可憐な花を見つけては、いちいち足を止めてしまうので、大した運動にはならないが、木々の間を歩くのは気分がいい。

 参道のクライマックス、漆喰の龍の装飾が施された長い階段を登り切ると、寺の展望台に出た。正月休みの家族連れやカップル、県外からの団体客などの参拝客で大いににぎわっていた。 寺のスピーカーからは、「願い事をする時はまず自分の名前を唱え、願いが叶った時にはジャスミンの花輪を何本差し上げるかタンジャイ仏に誓ってください」、などと、かなり具体的な願掛けの作法を説明する放送がエンドレスで流れていた。
  その音と一緒に、線香とジャスミンの花の香りが展望台まで漂っている。せっかくの森林浴が台無しになるような気がして、結局、仏塔にも宝くじの当たるタンジャイ仏にもお参りはせず、展望台の暇そうな寝釈迦仏に手を合わせると、さっさともと来た参道を下ることにした。

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 龍の階段を下りきるところから、参道は山の中の道になる。そこまでくると、さすがに境内の喧騒は何も聞こえなくなった。虫や鳥の声だけが響いている。やわらかい風が吹いてきて、階段に落ちる木漏れ日を揺らした。私は山の中の階段を一歩ずつ踏みしめるように、ゆっくりと降り始めた。

 山中の参道は緑がうっそうと生い茂り、階段は落ち葉に覆われ、なぜか登って来た時よりも腐葉土の匂いが濃く立ち込めているような気がした。コロナで外出禁止令がでたことで、海でも山でもこれまで姿を隠していた野生動物たちが戻ってきているというニュースを見たが、ドーイカムでも同じことが起きているようだ。写真でしか見たことがなかった水玉模様の長い尾羽をもつ野鳥が、手の届きそうなほどすぐ側に姿を現した。高く澄んだ虫の声はいつまでも途切ることがなく、どんどん重なり合って脹らんでいく。人が入らなければ、自然はこんな風に勢いを取り戻すものなのだ。気が付いたら、匂いも光も、明らかにいつもの参道とは違っていた。霊山の持つエネルギーなのか、自分の中の自然が響き合っているような不思議な一体感に包まれて、嬉しくて何度も立ち止まった。

 参道の階段を降りきったところで一息ついた私は、上着のポケットに手を突っ込んでバイクの鍵を探した。 駐輪場には、私のバイクが一台停まっているだけだった。

 そのバイクに、見知らぬ人が腰をかけていた。   
 周りには、私とその人のほかに誰もいない。日本では、知らない人のバイクに勝手に座ったりしないものだが、こちらでは、停めてある他人のバイクを束の間ベンチ代わりにすることはよくある。私のバイクは東南アジアに多いタイプのありふれたカブで、高さ的にも座りやすかったのだろう。
   でも、ふつうは、持ち主らしき人が現れたら、ごめんなさいとすぐに降りるものだが、その人は私が近づいているのに気付いても微動だにせず、じっと座ったままである。

 見知らぬ人の、妙に大きな態度に少したじろいだが、勇気を出してもう一歩バイクへ近づくと、その人はじろっとこちらをにらんだ。

    どこで買ったのか聞きたくなるような、冗談みたいに大きな黄色いメガネをかけていて、その中の小さな目は笑っていない。そして、私をじっと見据えたまま、まるで風に吹かれているかのように微かに前後に揺れている。 
 その人は私よりも小柄だけど、大きなメガネが邪魔をして、年寄りなのか、それともまだ子供なのか一見よくわからない。性別すら微妙な感じだ。ひざまであるクリーム色の合羽を着て、手には大きな黄色い傘を持っている。    確かに、その日は乾季には珍しく明け方にぽつぽつ雨が降ったので、折りたたみ傘を持っていくかどうか、私も家を出る前に少し迷った。それにしても、お湿り程度の乾季の雨に、雨合羽と傘で完全防備をしているというのは、なんだか奇妙である。
 すみません、それ、私のバイクなんですけど...。とにかくバイクから降りてもらわないと困るので、ていねいに声をかけると、その人は黙ったまま、私から少し目をそらせた。そして、口元をぴゅっと尖らせたかと思うと、面倒くさそうにバイクから下りて、素足にはいたゴム草履でペタペタと歩き始めた。
   駐車場の出口の方に行くのかと思いきや、反対の、寺の参道の登り口へと向きを変え、ゆらゆらペタペタと進んでいく。そして、参道の階段に足をかけたとたんに、跳ねるような軽やかな足取りで勢いよく登りはじめた。その背中には、薄い合羽がひらひらと、まるで薄羽のように翻っている。
 私はバイクの横につっ立ったまま、雨上がりの参道の濃い緑の奥へと消えていく、その人の後ろ姿を見ていた。


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