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祖母の黒い服 #6

 祖母の結婚生活は、たった15年しか続かなかった。

 戦中、病に倒れた祖父は、人吉の自宅で療養中に大量の下血をして、そのまま亡くなった。当時の便所では下血の量が分からず、止血剤の注射を渋って亡くなってしまったらしい。この話になると決まって祖母は、医者のくせに注射ぎらいでどうする、とこぼしていた。
 祖父が亡くなった直後に私の母が生まれた。生まれたばかりの赤子を含む8人の子供たちと戦後直後の混乱期に取り残されてしまった祖母。病院は別の医者の家族に譲った後も、10年近くもの間、亡き夫と暮らした土地で子供たちを育てた。しかし、だんだんと借金が嵩み、しまいには家財道具に差し押さえの赤紙が貼られてしまった。子供たちの将来を考えての決断だったのだろうか、ついに祖母は実家に戻る決心をしたのだった。

 懐かしい故郷は空襲で焼き尽くされ、ずいぶんと様変わりしていた。かつてはそれなりに裕福だった実家も頼れない状況だった。なんとか夫の親戚のつてで、戦後すぐに建てられた鉄筋コンクリートのアパートの、二間きりの部屋を借りることができ、そこで子供たちと暮らし始めた。

 当時のことを祖母はあまり話してくれなかった。戦後の厳しい世の中で、子連れの未亡人となった祖母の苦労や喪失感がどれほどのものだったのか、私には想像もつかない。ただ、8人もいる子供たちが誰ひとり死ななかったと、生前、何度も繰り返し言っていたのをよく覚えている。子供たちが全員揃って、無事に立派に育ってくれたことが、祖母のなによりの誇りであり、支えだったに違いない。

 やがて子供たちも巣立っていき、一人で平穏な余生を送っていた祖母のところへ、結婚に失敗した母が、幼い2人の娘を連れて戻ってきたのだった。

 大きくなったら、どこか遠くて広い世界に出ていきなさい。西日の差す部屋で、祖母はよくそう言っていた。映画や旅番組を観るのが大好きだった祖母自身が、外の世界にあふれている、美しいものや面白いものをもっと見てみたかったのかもしれない。一緒には行かれないけど、おばあちゃんの写真を一枚持っていってくれたらいいから、と笑っていた。そんな祖母と暮らした古いアパートが老朽化で建て壊されたのは、もう10年も前になる。

     黒い服ばかり着ていた祖母だったが、孫の私たちには、街では今これが流行っているのだと、赤いギンガムチェックのパーカーやボーダーのシャツなどを買ってきてくれた。無印良品ができた時は、シンプルなデザインを気に入って、文房具などをよく買って来てくれた。服でもなんでも、私は祖母が選んでくれるものが大好きだった。

 大人になってから、ふと、祖母の好んだ黒い服には、もしかしたら喪服のような意味があったのではないか、という考えがちらりと頭をよぎったことがあった。でもそれは、さすがにちょっと感傷的すぎる発想かもしれない。ただシンプルに、祖母が潔く選んだスタイルだったのだろうと、今ではそう思っている。

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