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祖母の黒い服 #4

 祖母には神戸に親戚があり、娘時代はよく船に乗って遊びに行ったという。そんなころ、神戸の駅で偶然見かけた、「白い軍服を着た海軍の将校さん」の姿があまりにも美しくて、思わず同じ電車に乗ってついて行ってしまったことがある、という祖母の昔話に、子供のころの私は心底驚いた。話を聞いたときは恋も知らないほんの子供で、まずはその動機の意味が分からないし、街に電車なんて通らない田舎育ちだから、行先も分からないまま電車に乗ったら絶対に迷子になる! と、想像しただけでどきどきした。たかが一駅とか、たまたま方角が同じだったとか、おそらく祖母がオーバーに話しただけだとは思うが、昭和初期の白黒映画にでも出てきそうなそのシーンを、私は頭の中で繰り返し想像した。

 毎年、秋が深まってくると、祖母は百人一首の上の句を、まるで歌でも歌うように高らかに詠んだ。一緒にお菓子を食べている時でも、買い物に行く道すがらでも、どこででも唐突にそれは始まった。私と妹は祖母の節回しを真似て、下の句を唄って返した。祖母が下の句を唄えば上の句を返す、という遊びである。祖母の部屋で、祖母が札を詠み、妹と一緒に札を取り合ったりもした。そんな祖母の仕込みのおかげで、お正月に集まった親戚のおじさんやおばさん、年上のいとこたちに混じって百人一首で遊べることが、子供心にとても嬉しかった。大好きな祖母も伯父伯母も、子どもの頃、お正月になると同じように遊んでいたのかと思うと愉快だった。正月と盆は、祖母の小さな部屋が人であふれかえる、祖母が一番待ち望む季節だった。

 たった6畳一間の祖母の小さな部屋は、明治から昭和の激動の時代を生きた祖母の記憶と共に、遠い昔と繋がっているように感じられた。

 部屋の壁には42歳で亡くなった、おじいちゃんと呼ぶにはまだ若い祖父の遺影が一枚、飾ってあった。

   祖母が見合いの話を受けたとき、祖父は医者の卵だった。苦労すると思ったのか、祖母はその話を一度断っているが、どうしてもと懇願されて、最後には承諾したらしい。もしかしたら、祖母の兄が撮った見合い写真の効力だったのかもしれない。

   結婚式は昭和7年、清々しい秋の始めの吉日に行われた。花嫁衣装の、白い鶴が幾重にも舞う着物の柄について、祖母はことあるごとに話して聞かせてくれたので、私はまるで婚礼を目撃したかのように、心に焼き付いている。

 その後、祖母は8人もの子宝に恵まれた。

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