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文学の散歩道8

  小説の神様、志賀直哉。
 その文章は達人の域を超えて「神様」という称号を与えられるにふさわしいものです。簡潔にして明瞭、余計なものを一切省いたその力強い文章は、まるではじめからそこに文章が存在しないかのような透明度を誇り、同時に文章があらわす内容を完全に視覚化するものです。こう言うと、大袈裟に聞こえるかもしれません。が、百聞は一見に如かず、実際に直哉の文章を見てみましょう。
 まずは「焚火(たきび)」(大正9年)から、小説の最後、夜の湖水で焚火の燃え残りを湖に向かって投げる場面です。

 Kさんは勢よく燃え残りの薪(たきぎ)を湖水へ遠く抛(ほう)つた。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行つた。それが、水に映つて、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。上と下と、同じ弧を描いて水面で結びつくと同時に、ジュッと消えて了(しま)ふ。そしてあたりが暗くなる。それが面白かつた。皆で抛つた。Kさんが後に残つたおき火を櫂(かい)で上手に水を撥(は)ねかして消して了つた。(※1)

 鏡のような湖の水面に火の粉を散らしながら飛んで行く薪が、目の前に浮かんで来ます。しかもその滞空時間、暗闇に映える火の粉の鮮やかさ、回転しながら水面に映る薪の様子、静けさを破る火の消える音までが手に取るように分かります。それでいて直哉の文章は短い。くだくだしい説明もありません。一体この文章は何でしょう。もう一つ、別の作品からも挙げてみましょう。
 「矢島柳堂(やじまりゅうどう)」4編のうちの一つ、「白藤」(大正14年)より、妹のお種とともに住む画家の矢島竜童が、坐骨神経痛を患いながら冬を越え、弟子の今西という青年と漢詩をめぐって冗談を言い、笑いあった後の場面です。

 五月に入ると急に陽気がよくなつた。未(ま)だ彼は起居(たちい)に
本統でなかつたが、痛みが少し遠退(とおの)くと却々(なかなか)家(うち)に凝(じ)つとしてゐられなかつた。風に当ると後がよくないといふお種の言葉も肯(き)かず、長閑(のどか)な日には籐(とう)の寝椅子を庭先の藤棚の下に出さし、半日、沼の景色を眺め暮した。
 殻を被(かぶ)つた白藤の莟(つぼみ)は三番叟(さんばそう/巫女の舞や神楽舞で用いられる三段状の鈴)の鈴のやうな形で一杯についてゐた。その殻が散り始めた。柳堂の顔にも胸にも足にもこぼれ落ちた。身動きも大儀(たいぎ/めんどうなこと)な気持で彼は眼をつぶつてゐた。そして全身それに埋まつて行くといふ空想に彼は恍惚(こうこつ/心を奪われてうっとりしているさま)としてゐた。
 郵便を持つて来た今西は彼が熟睡してゐるのだと思つた。そして腰の手拭(てぬぐい)をとり、静かにその殻を払ひ始めると、柳堂は眼をつぶつたまま、物憂(ものう)さうに云つた。
「オイ、余計な事をするな。今、涅槃(ねはん/悟りの境地)の夢を見てる所だ」(※2)

 白藤のつぼみの殻がその下で寝ている柳堂にたくさんこぼれ落ちている、その殻の色、形、質感が見事に伝わってきます。弟子の今西が、柳堂にこぼれ落ちた殻を手拭で払う場面たるや、払う殻の触感はもとより、柳堂の心の静謐(せいひつ/静かで落ち着いていること)さ、恍惚とした境地とでも呼べばいいのでしょうか、そういった目には見えない心的状況までもが完全に表出(再現と言ってもいいほどです)され、それを読む私たちもまた、今、寝椅子に横たわる柳堂の姿を目の当たりにしつつも、柳堂とともに涅槃の夢という静かな世界の中にたたずんでいるかのようです。━━━こう書き記すのでさえ手こずるのに、直哉の文章は実に短い。説明らしい説明もありません。一体この文章は何でしょう。最早神業というほかありません。

 「朝顔」は志賀直哉71歳の時に書いた、わずか3頁ほどの作品です。「暗夜行路」「清兵衛と瓢箪(ひょうたん)」「小僧の神様」「和解」「剃刀」「城の崎にて」など、世に知られる幾多の直哉の作品の中でも「朝顔」はすこぶる短い小説です。しかし、実に美しい。円熟した直哉の澄みきった豊かな心境がにじみでている絶品と言っていいでしょう。直哉にとっては、静かな日常の中で起こったほんのちょっとした些事(さじ /ささいなこと)を、
ごく自然に、さらりと紙上に写しただけのものなのでしょうが、その完成度は最上級の讃辞でも収まりきれないほどのものです。
 ━━━話は、早朝、裏山に建てた離れの書斎から、主人公の「私」が朝顔を摘んで母屋の方に降りていく時の事を書いたものです。
 この夏、「私」は子供や孫でいっぱいになった母屋から離れて、裏山の中腹に建てた書斎で過ごしています。年のせいか朝5時に目が覚め、母屋の家族が起きるまでは景色を眺めなどして、それを待っていなければなりません。書斎の四つ目垣(よつめがき/竹を粗く縦横に組んだ垣根)には虫刺されの薬になる朝顔を植えていて、「私」は煙草をのみながら、その朝顔を見ています。若い頃は朝顔をあまり好きではなかったが、この夏、夜明けに目覚めて、開いたばかりの朝顔のそのみずみずしい感じを非常に美しいと思うようになったこと、その時何故か不意に少年時代を思い浮かべたりしたことなどの感懐がつづられます。そうして、母屋から話し声が聞こえてきます。

 母屋から話声が聴こえて来たので、私は降りて行つた。その前、小学校へ通ふ孫娘の押花の材料にと考へ、瑠璃色(るりいろ/紫がかった紺色)と赤と小豆色(あずきいろ/茶色がかった赤紫色)の朝顔を一輪づつ摘んで、それを上向けに持つて段になつた坂路を降りて行くと、一疋(ぴき)の虻(あぶ/ここでは蜂に似たハナアブ)が私の顔の廻はりを煩(うるさ)く飛び廻つた。私は空いてゐる方の手で、それを追つたが、どうしても逃げない。私は坂の途中で一寸(ちょっと)立ち止つた。と、同時に今まで飛んでゐた虻は身を逆さに花の芯に深く入つて蜜を吸ひ始めた。丸味のある虎斑(とらふ)の尻の先が息でもするやうに動いてゐる。
 少時(しばらく)すると虻は飛込んだ時とは反対に稍(やや)不器用な身振りで芯から脱け出すと、直ぐ次の花に━━━そして更に次の花に身を逆さにして入り、一ト通り蜜を吸ふと、何の未練もなく、何所(どこ)かへ飛んで行つて了(しま)つた。虻にとつては朝顔だけで、私といふ人間は全く眼中になかつたわけである。さういふ虻に対し、私は何か親近を覚え、愉(たの)しい気分になつた。(※3)

 読み手は不思議な体験をしたはずです。まるで、今、目の前で虻が動いているかのようなのです。虎毛の尻をぴくぴくと動かしながら花に潜っていく虻の様子が手に取るように分かります。いや、もうこう言ってもいいでしょう、虻がそこに見えています!虻は本当に目の前にいるのです!━━━驚嘆とため息が読後感を支配するそのリアリティーあふれる文章は、日本文学史上絶対にして唯一のものと断言してはばかりません。

 志賀直哉はいかにしてこのような文章を編み出したのでしょうか?
 推敲(すいこう/文章を何度も練り直すこと)に推敲を重ね、元あった文章をさらに短く削り、簡潔にして強靭な文体の骨格だけを残すと、そこに余白が生まれます。その余白に読者の想像力が喚起される━━━これが直哉の文章の構造の一つだとは分かります。視点の交錯、主語の転換によって結ばれる映像の立体化、などなど理屈はいくらでも並べられるでしょう。しかし、簡潔に書けばいいというものではありません。いかに簡潔にしたところで、他の者には絶対に書けないという真理が志賀直哉の作品には強くにじみ出ています。もちろんこの真理はどんな作家にも当てはまるものですが、こと志賀直哉となると、この真理が鉄壁のように立ちはだかり、他の追随を許さぬ厳しさがあるのです。
 そのあたりの消息をこれから考えていくにあたって、もう一人の作家の言葉に照明を当ててみたいと思います。その作家とは、尾崎一雄。生涯直哉を師と仰ぎ自身も私小説、心境小説の第一人者として活躍した文士です。その尾崎一雄が、幸いにも直哉についての文章を多く残していますのでそれを見ていくことにしましょう。尾崎はいわば直哉の弟子にあたります。

 尾崎一雄は、大正5年、16歳の時初めて直哉の小説を読みました。その作品は「大津順吉」というものです。尾崎はそれを読んだ時の感慨を次のように述べています。

 この小説には文章がない!と驚いた。作者の言ふこと描くことが、そのままぢかにこつちにくる。間に何もはさまつてゐない。邪魔ものがないのだ。━━━文章といふものは、完全にその機能を果した場合、それ自体は姿を消すものだ、といふやうなことを考へたのはもつとあとになつてからだが、とにかく私は驚嘆した。(※4)

 こうして尾崎は志賀直哉にのめりこんでいきます。尾崎が作家を志したのは間違いなく志賀直哉への憧憬です。それほど志賀直哉の文壇への影響は多大でした。尾崎のみならず、たくさんの作家を志す者たちが志賀直哉に憧れ、慕い、文体を倣(なら)いました。しかし、決して上手くいかないのです。上手くいくはずもありません。「言葉」はその言葉を発する人の「世界」そのものです。いくら言葉だけ模倣しても志賀直哉が見る「世界」と全く同じものを見ることが出来なければ、その言葉は泡といっしょで、文字通りその努力は水泡に帰すでしょう。そしてそれは不可能なことなのです。
 例えば、「城の崎にて」の中で、直哉は道端の桑の木の、ある一つの葉だけが、風もないのにヒラヒラとせわしく動くのを不思議に思います。そして風が吹き出すとその動く葉は動かなくなり、原因が知れた、と納得します。この神経、感性は到底万人のものではありません。その時、その場所で同じものを見ていたとしても、同じように不思議に思い、やがて同じように得心が行く、というような感受性を一体誰が持ち得るというのでしょう。これが志賀直哉の文学の落とし穴です。つまり、「志賀直哉」という資質、特質があってこそあの神業のような文章が生まれるのであって、決して技巧が先にあるのではない、ということです。先にあるのは「志賀直哉」という人間なのです。

 言葉を換えてみましょう。何を、どう書くか、という作家の仕事は、「何を」から始まります。志賀直哉のこの「何を」を、他の誰も真似することは出来ません。直哉がどんなに物事に神経質な男だったか、「濁つた頭」や「剃刀」を読めばすぐ分かります。それは明らかに常人を超えたものでした。
 これから引用するのは、昭和2年、尾崎が直哉に会いに、その時直哉が宿泊していた長野県軽井沢の沓掛(くつかけ)に赴き、同じ宿にしばらく泊まっていた時の思い出話(談話)です。直哉はちょうど「邦子」を執筆中で時折その合間に尾崎のいる部屋へ来ておしゃべりをしています。そのおしゃべりの中で、直哉は「枝の先の葉つぱの先まで蟻が歩いてつたから、落つこちるかなと思つて見てゐたら、落つこちないで、踏み切りをつけて、パツと飛び降りた。」という蟻の観察の話や、直哉が宿の新しい女中の様子がどこかおかしい、何かが変だと思っていたら、その女中が脛(すね)を外へ出してお尻を直接畳につけるトンビ足という座り方をしているのが変だったのだと分かり、やっと落ち着いた、という話をしたということです。尾崎はこのくだりに続けて次のように述べています。

 ぼくは、蟻の話とか、トンビ足の話とか、いろんなことを聞いてゐるうちに、これはちょつと神経が違ふと思つたね、つまり敏感ですよ。普通の人間なら見過すところを、見過さない。だからのちに小林秀雄が、「見るんぢやなくて、見えてしまふんだ」つてことを言つてるでせう、そのとほりなんだな。ぼくは蟻が飛び降りようと、落つこちようとどつちでもいいやといふ程度でせう。女中の坐り方がちよつとをかしいといつたつて、そんなにいつまでも気にしてやしない。志賀さんはさういふことでも納得しないと落ちつかない、あるひは、落ちつけない、さういふふうなところがある。一事が万事さうなんだ、だからこはいんです。黙つてゐてもこはいわけだ。小説をしつかりと読んでゐる人には、志賀さんのさういふ神経がよくわかる。(※5)

 直哉の眼は透徹を超えて、異常に敏感でした。直哉は対象を人の気付かぬ細部まで見ているのです。いやむしろ、目に入ってしまう、と言った方が正しいでしょう。対象を人より余計に感受してしまっているのであれば、だからこそ、その簡潔化が求められます。見えすぎている対象をそのまま文章化すれば、その文章は流暢で締まりのないものに堕してしまうことは目に見えています。直哉は、自分の見えている対象をより鮮明にするため、全ての見えているものから、その対象を削り出す努力をしたはずです。それが、「どう書くか」です。これは常人とは逆の発想です。普通の者ならば対象そのものを浮き出させるために、そこに肉付けをします。目立たせる装飾をします。直哉の場合はそれでは駄目で、逆に余計なものを全て削り落とすことが必要だったのです。━━━これが直哉の文章の根源です。

 だから、憧憬と模倣だけで志賀直哉に近寄ると大怪我をします。「どう書くか」にばかりこだわり、「何を」に少しも疑問を持たない者は、その落とし穴から決して脱け出せるはずがないのです。
 昭和42年に、尾崎はある文学全集の1冊、志賀直哉集の解説の中で次のように述べています。これは解説としては異例のことかと思われます。

 だが、志賀直哉に魅されたいかに多くの人々が「出てゆく」ことができずに埋もれてしまつたことか!それは誇張でもなんでもなく、死屍累々(ししるいるい/死体が多く重なり合ってむごいさま)の有様だ。いつたんは世に出た人、出かかつた人、まだ出なかつた人で、さういふことになつた人の多数を私は知つてゐる。誰よりも知つてゐる自信がある。
 さういふ中の一人は、大正末年に秀作を書き、有望な新人として嘱望(しょくぼう/将来に期待をかけること)されながら、
「セザンヌと志賀直哉を知ることはわれわれの不幸だ!」と悲痛な叫びを挙げて陥没し、再び立たなかつた。
 大なり小なり、何かしら自分としての意地をもつことなしに志賀直哉に近寄るものは、必ず食はれてしまふ。しかも志賀直哉自身に、決して食ふ気なぞはないのだ。善意の人志賀直哉が生む芸術の恐るべき魔力。(※6)

 この文章で、いかに多くの人が志賀直哉の影響を受けていたかが分かります。「出てゆく」というのは、志賀直哉の影響から抜け出して書くことです。芥川龍之介はもとより、直哉の悪口を言った太宰治(このあたりが太宰らしいのですが)まで当時の文壇で志賀直哉の影響を受けなかった作家はいなかったように想像されます。尾崎もまたその一人で、この落とし穴から抜け出すのに実に5年の歳月を費やしました。それでも尾崎は幸運でした。直哉と自分との違いにはっきり気付いたのですから。大抵の人は自らの才能のなさに絶望し、志賀直哉という大きな壁の前に筆を折ったのです。憧れが絶望を招くというその皮肉な運命の影が、志賀直哉をより峻厳な、より人を寄せ付けぬ、巨大な高峰に見せたとも言えるでしょうか。

 武者小路実篤とともに同人誌「白樺」を立ち上げ、自己の成長を志した直哉にとって、「書く」ことは「生きる」ことでした。文学は直哉にとって、自分自身の人間形成の修道(しゅうどう/道を修めること)の場であったに違いなく、己自身を鍛え上げるかのような文章の錬磨は、そのことと密接に関わっています。異常に神経質で、さらに強い自我の持ち主であった直哉が、それをいかに安定させ、手なずけるか、おそらく直哉の「書く」行為の意味はそのあたりに帰着するように思えます。
 東洋の芸術を見るような静謐にして深い境地に立つに至った晩年の志賀直哉は、自然、寡作(かさく/作品を少ししか作らないこと)になりました。最早、書く必要がなかったからです。「朝顔」から、もう一度見てみましょう。

 虻にとつては朝顔だけで、私といふ人間は全く眼中になかつたわけである。さういふ虻に対し、私は何か親近を覚え、愉(たの)しい気分になつた。(※3)

 若い頃、あれほど「不快」という言葉を多く用いていた直哉からすれば、この時の自然で、何気ないほどの朗らかな心境は、自らが追い求めて遂に手中にすることができた、「人間」の理想の境地なのでしょう。
 ━━━小説の神様、志賀直哉。漱石に認められ、芥川、谷崎といった名だたる文豪が畏敬(いけい/おそれうやまうこと)してやまぬその巍巍(ぎぎ/高く大きいこと)たる峻嶺(しゅんれい/けわしい峰)を知らずして、日本文学は語れないでしょう。

※引用は次の通りです。
※1岩波書店「志賀直哉全集(1999年版)第三巻」から。
※2岩波書店「志賀直哉全集(1999年版)第五巻」から。
※3岩波書店「志賀直哉全集(1999年版)第九巻」から。
※4筑摩書房「志賀直哉」(尾崎一雄著)より、「志賀直哉━━作家と作品━━」から。(初出は昭和42年刊行の集英社版「日本文学全集24・志賀直哉集」の解説)
※5筑摩書房「志賀直哉」(尾崎一雄著)より、「志賀直哉」から。(初出は昭和52年8月発行 中央公論社文芸雑誌「海」)
※6※4に同じ
また、適宜括弧( )を付して読みと意味を添えました。



  


 


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