第三十一回 魯迅『些細な事件』

ざっくりあらすじ

(1)魯迅が都会にやってきて6年。国内外で戦争やら革命やら、
 数々の大事件が起こったが、忘れられない出来事は、
 ある日の「些細な事件」である。
(2)魯迅は急いでいて人力車を雇った。
(3)人力車が老婆と接触事故を起こした。
(4)大したことはなさそうなので、早く行くように促した。
→じっさい、厄介な、クレーマータイプの婆さんだったのだ。
(5)しかし、車夫は老婆の身を案じ、助け、身近の交番に自首する。
(6)魯迅は取り残されるかたちになった。車夫あての金を巡査に渡す。
(7)魯迅にとって、恥と苦さの思い出であると同時に勇気と希望を与えられるエピソードなのだ。

魯迅の葛藤

この掌編において、2つの葛藤が見受けられます。
まず、作中人物としての魯迅。
この出来事により魯迅は

わたしをして慚愧せしめ

「恥ずかしさ」を告白しています。
ごくごく一般的な視点に立つと、恥を感じそうなポイントとしては、
正直な車夫に対して「いいから行ってしまえ」とけしかけた、
「ずるさ」だと読み取りそうです。
ただ、記述の比重としてはその後の

 わたしは思いめぐらすまでもなく、外套のポケットから銅貨を一攫ひとつかみ出して巡査に渡した。
「どうぞこれをあなたから車夫に渡して下さい」

この行為にスポットライトを当てているように思えるのです。
いわば「ひき逃げの教唆」にはたいして罪の意識を感じていず、
(車夫のまっとうさの対比としての記述に過ぎないような)
金を渡したことを後悔し、恥じているようです。

この気持ち、なんかわかるなあ、と。
時代劇でいえば、決闘に「助太刀いたす!」と申し出るも断られるような。
知らずにカップルの間に入ってしまう、というのもあります。
そう、妙に居心地の悪い感じ。
これは「完結している世界」に土足で上がり込む無粋、なのでしょう。

魯迅のエピソードでは、車夫の「裁判」は完結しているのです。
車夫は責任を感じ、それを償うために交番に向かった。
そこで物語は完結しているのです。
第三者の魯迅が同情を示す必要はない。蛇足です。
「バッキャロー、最後まで送りやがれ!」と
「客」として怒るのであれば、これは「まっとうな行為」だった、
と魯迅は後に恥じることもなかったのかもしれません。

2つ目の葛藤。「作者」としての魯迅の立ち位置。
これは難しかったのではないか、と思います。

読書会第二回目の『吶喊』において、
魯迅の文学の目的は「人民の精神を改造する」ことにある、
と宣言しています。
つまり革命的であり、破壊的です。
なにを破壊するか?それは旧来の儒教的精神です。
でも、この車夫はかなり「儒教的」好人物に思えませんか?
「理想的な人民」の姿が、いかにも中国的人物だった、
(そして合理的で新時代的で醜悪な自分)
という当初の目的との矛盾。
ときに素直さや心の弱さを見せてしまう。
こんな人間らしいところも魯迅の魅力です。

「理想」より「タブー」が教育効果が高い(?)

今回は現役の学生さんから鋭い意見を頂戴しました。

「魯迅の作品が政治的であるということは、つまり教育的だ、
ということですよね。でも、学校では『こうしちゃいけない』という
禁止要項ばっかりで、『こういうふうになれ!』とは言われないんですよ。理想を押し付けられても厄介だからいいんですけど」

人間とはそもそも「教育する生き物」です。教えることそのものが喜びになる、という本能を持っています。「教育欲」がある、と言い換えてもよい。
しかし、人類学の本で読んだのですが、アフリカには世界でも希少な「教育をしない部族」がいるということです。しかし、観察の結果、わずかに教育をしている様子があった、ということ。それは「共同体におけるタブー」についてのものでした。
弓矢の使い方は教えないけれど、それを仲間に向けることの危険性は伝える、という具合に。

子どもへの教育も「これしちゃだめ!」が多くを占めることから、
教育の基礎は「禁止事項」にあると言ってもよい。
「教えないと悪いことしちゃう」というのは性悪説だ、と言い換えることもできます。

ここから怖い話なのですが、
ざっくりした区分けでは
封建主義や資本主義は性悪説(利己的)、
共産主義は性善説(利他的)、
という前提で運用されたシステムなのでしょう。

じっさい生身の人間はそんな極端に割り切れるものではないですし、
ずるかったら悪、他者と喜びを共有すれば善、ではなく、
どちらも人間本来のものである、と考えるのが自然かと思います。

で、怖いのは性善説ではないか、と。
「人間はずるくない!」という前提にたつと、
それを揺るがすような「不都合な事件や人物」は
「なかったこと」にしてしまわないといけない...。
情報統制なぞ、どこにでもあると思いますが、
性善説サイドがより厳しいのはこういう事情なのではないでしょうか。

阿Q=バカボンパパ(?)

学生さんからもうひとつおもしろいご意見。
魯迅の代表作『阿Q正伝』について話していると
「『天才バカボン』も、作者に政治的・教育的意図があれば、そんな感じになったかもしれませんね」



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なるほど...。ほかにも毒マシマシの『サザエさん』も見てみたいかも...。
(それは『いじわるばあさん』か)
考えてみれば『ドラえもん』に『クレヨンしんちゃん』に『ちびまる子』、国民的アニメには社会風刺がありますね。
教育的意図がなくても、エスプリの効いた「おバカキャラ」は愛され、人気キャラたちのひとつの条件になった、というのは妙な歴史の変遷です。

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