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痴漢されるのは女も悪い【ブッダという男/清水俊史】より

古代インドの社会における男女の観念は、現代のものと大きく異なる。2500年前のブッダが持っていた女性観は、当時の一般的な社会観と同じであった。
例えば、初期仏典には、女性が男性の堕落の原因であるとの言及が見られる。これは、古代インドの一般的な考え方であり、女性が男性の修行の障害であるとされた。しかし、これらの記述は古代の文脈におけるものであり、現代の観点から見れば、男性の堕落を女性の責任にする考え方は時代遅れとされる。

当時の仏典には、女性が男性を誘惑し堕落させるとの記述が複数ある。これは、バラモン教の教えにも見られ、女性が男性を愛欲と怒りに導く存在として描かれている。しかし、これは古代の社会観に基づくものであり、現代では女性を性悪とする考え方には批判が集まる。特に、男性が性的な誘惑に屈するのは男性側の責任であるとする現代の理解とは異なる。
古代インドでは女性に原因があるとされたが、これは現代では「痴漢されるのは女も悪い」という理解に似ており、多くの人にとって受け入れがたいものである。
このように、古代インドの文化的背景を理解することは重要だが、それを現代の価値観に適用することは適切ではない。ブッダの時代の社会観は、現代のものとは大きく異なり、その文脈でのみ理解すべきである。現代社会では、女性への偏見や差別を正当化するための根拠として用いるべきではない。

初期仏典のうちには、女性が男性を堕落させる原因であると執拗に説かれている
貪欲が邪な道と呼ばれます。貪りが諸々の教えの妨害です。昼夜に尽きるのは若さです。女は清浄行の垢であり、人々はこれに耽溺します(『相応部』一章八品六経)
托鉢修行者たちよ、女は歩いているときでさえ、男心を乗っ取ります。立っているときも、坐っているときも、横になっているときも、笑っているときも、話しているときも、歌ったりしているときも、泣いているときも、老いたとしても、また死んでいたとしても、男心を乗っ取ります。托鉢修行者たちよ、実に正しく話す人が、「悪魔のすべての罠である」と言うならば、正しく話す人は、まさに女性を、「悪魔のすべての罠である」と言うべきです。(『増支部』五集五五経)
女の五つ(外見・声・匂い・味・肌ざわり)の流れすべては、〔男の〕五つの感官(眼・耳・鼻・舌・身)〕に向かって流れ込みます。それらを堰き止めることのできる果敢な者は、目的を達成し、教えに安住し、有能であり、聡明です。彼は、楽しみつつも、教えと目的にかなったつとめを果たすでしょう。(『長老偈』七三九-七四〇偈)
これらの発言とほぼ同趣旨の主張が、バラモン教側の宗教的・社会的規範を記した『マヌ法典』(前二世紀後二世紀ごろ)においても確認される。
この世において、男たちを堕落させることが女たちのこの本性である。それゆえに賢者たちは女たちに心を許さない。女たちは、この世において愚者のみか賢者をも愛欲と怒りの力に屈服させ、悪の道に導くことができる。ひとけのない場所で、母、姉妹あるいは娘と坐ってはならない。感官の一群は力があり、賢者をも屈服させる。
現代的な価値観からすれば、女性に発情して堕落するのは「男性側に責任がある」と考えるのが普通であろうが、古代の価値観では、女性側に原因がある――今でもしばしば男が真顔で主張する「痴漢されるのは女も悪い」――という理解がむしろ常識なのである。

ブッダという男/女性の『本性』

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