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毎日同じことを続ける自分を鼓舞するための僕なりの考えについて

 書くという行為も、筋トレと同じく日々の積み重ねで成長していくと仮定すると、書かなければ書くことは上達せず、よりよい「書く」を求めるのであれば書く以外に道はない。
 けれど、「続けることはむずかしい」ということをぼくはこれまでの自分を通じて知っている。もちろん「ただ書けばいい」というわけでもない。自分なりに「よく書けた」と思えるものを、できる限り毎日書き続ける。その過程で少しずつ書く筋肉がついていき、気がつけば今までの自分よりも軽く、心地よく書くことができる日を迎える。
 しかし、その日の自分のベストを尽くすというステージと、それを持続するというステージには海より深く、山より大きい隔たりがある。

 敬愛するダウンタウンの松ちゃんはあるテレビ番組で、「ホバリングが許される時代ではない」、「高く上がっててちょうどいい」と語っていた。ここでいうホバリングとは「停滞」を意味していて、松ちゃんほどの地位にいる人でさえ、いやだからこそなのか、常に自分のベストを出し続ける姿勢の大切さを教えてくれている。
 また、敬愛する星野源さんの「日常」という歌はこんな一節から始まる。

無駄なことだと思いながらも それでもやるのよ
意味がないさと言われながらも それでも歌うの

この歌を聴くと、「自分が自分であること」の大切さを考えさせられる。ぼくの表現はぼく自身のものであることは当たり前のはずだが、「受け入れられそう」と思うものだけを選択しすぎると、もはやだれのなんのための表現なのか自分でもわからなくなってゆく。つまりは、書きたいことを書けばいいのだ。
 たとえ受け入れられなくとも、どれだけ稚拙と思われようとも、面白くなかろうとも、まずは自分が書きたいと思うことを堂々と書く。星野源さんの「日常」はそんなふうに背中を押してくれる歌だとぼくは感じる。

 しかしながら、毎日同じことを続けることが面倒くさくて苦手なぼくは、決まって次の新しいことに興味をそそられる。新しいドラマ、読みたかった本、気になる映画、惹かれる音楽。それらをかじりながら暮らす生活は手っ取り早くて楽しい。 一方で、できないことをできるに変えることは、ひどく時間のかかることで地味だ。
 けれど、毎日同じことを続けることで広がってゆく「せかい」がきっとあるのだ。その「せかい」を歩くことは、なによりも興奮と感動に満ちた冒険だと思うのだ。そう信じて、ぼくは今日も好きなことを書く。

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