信じるということ

 一番重要なテーマの1つだと思う。書く前からちょっと緊張する。
 ところで私のnoteはどれも一発書きで、ほとんど全体が書き上がってから細部を手直しするという方法で書いている。
 つまり前もって細かいことを考えているわけではないので、書きながら思い付いたことを織り込んでいくスタイルだから、話がふらふらとあっちこっちを彷徨ってしまう。
 読んでくれている人には苦労をかけるけれども、勘任せのこのやり方の方が納得がいくものが仕上がるのだから仕方がない。
 そういうわけで「信」ということについて、いつものように例を引きながら私なりの考えというか、感じていることを書いていきたいと思う。
 まず最も重要な事としてこのnoteを読む人に知って貰いたいのは、「何かを信じるかどうかを決める力は自分には無い」という事実だ。
 これは散々ツイートの方でも書いてるから知っているとは思うけれども、なぜ私がそう考えるに至ったかという事を今回は書いていく。
 そして私が考えるこの結論は、もっと間合を拡げて考えていくと、そもそも人間の考える「自由」というのはかなり限定されてるものだよな、という所へと流れていく。
 すっぱり言い切ってしまえば「人間には本当の意味での自由意志は無い」という事になる。
 西洋人は発狂間違いなしのこの結論は、実はカスタネダの本に登場する呪術師ドン・ファンによっても断言されていた。
 人間には自由意志なんぞ無い。それは幻想だというような事をドン・ファンは言っている。
 ただしその場合、「自由」とか「自由意志」がどういうものかという定義というか、共通了解みたいなものを設定しておかないと誤解が生ずる。
 言葉の使い方というか、意味を決めておくのは凄く重要だ。

 例えば以前の「脳味噌の話」で触れたジュリアン・ジェインズも随分誤解されたので、それにかなりうんざりしたらしく、本の中で彼の考えるところの「意識」というものについて丁寧に説明を書いている。私は「意識」という言葉をこういう意味として使っていますよ、という説明書きがあるわけだ。
 それでもまだ誤解して反論してくる学者がわんさか居たらしい。
 文句を言った手前、引っ込みが付かないのか、そもそもジェインズの論旨を読んでいないのか、それとも理解する力がないのか判らないが、衝撃的な意見は大騒ぎを起こしてしまうという好例だと思う。
 別段、私の意見程度が騒ぎを起こすとは思えないが、話を判りやすくするために私の場合は「人が自分なりの価値基準に従って物事を選択する能力」を「自由」としておく。
 そしてその意図を「自由意志」としておこう。あんまり厳密に考えて書いているわけではないが、言いたい事は伝わると信じる。
 要するに「自由」とは自分で何か好きなことを考えたり、選んだりしている能力のことで、そしてその時に人が「自分で選んでいる」「自分がその選択を支配している」と感じているような状況を言うわけだと思って貰いたい。
 ボブ・マーレーが言ったような豊かさや自由のような、気高く美しく気の利いた事を言いたいわけではない。
 例えば昼寝がしたければ、そのまま横になって寝てしまうというような、そんな感じの話だ。
 そして「そんなものはない」とドン・ファンは言ったわけだ。
 で、私もそう思う。

 人間の選択とか思考とか行動は、反応性というか反射というか、この場合はこうなるよね、というルールの束だと私は考えているから、そこに自由とか自由意志という言葉を使うのには抵抗がある。
 私の考え方から見ればそうなるというだけの話でしかないのだけれど。
 さて長々と自由についての話を書いたが、今回のnoteのテーマはそこではない。
 今回のテーマは「信じる」ということについてだ。
 重ねて言うが、私は「人は自分自身の意志で何かを信じることは出来ない」という事を主張したい。
 信じようと努力することはできる。
 それは努力しているという夢かも知れないし、妄想かも知れないけれども、少なくとも自分を言い聞かせて努力することはできる。
 一般的な言い方をするならば、顕在意識に指令を下して潜在意識へと「これを信じなさい」という命令を送る作業とでもいう事になるだろうか。
 でもそれは信じるということではない。
「信じる」というのは自分では動かせない、いわば疑いえない確信が自己の内部から湧き上がってきて、目の前のことを無視できない状態、それが自分の希望とか好悪とかを完全に無視して、「そうとしか受け取れない」事実を突き付けてくることだ。
 つまり自分の都合では信じるかどうかを決めることは出来ない。
 自己の内に確信が湧いてくれば「信じるほかない」状況に追い込まれるからだ。
 だから「どう考えてもおかしい。けど信じるしかない」みたいな状況だって起こってくる。
 もちろんここで人は自分なりの真贋チェックを行うだろう。そして目の前の事態がそれら全てのチェックを潜り抜けたとしても、「まだ自分の知らない判別方法があるはずだ」とか「それでも自分は信じない」とかの信念なり、直感なり妄想なりを抱くことはできるわけだ。
 ただし一旦自己の内部で「こいつはどうやらそういう事らしい」という確信が立ち上がってしまうと、いくら表面上で「そんなはずはない」と否定しようが、自己の内部分裂(それに気付いているかどうかは別の話だが)を進めるだけでどうにもならない状況へと追い込まれていく。
 とにかく自分では説明が付かないけれど、直面した事態に「信じるしかない」という状況へと追い込まれるわけだ。
 そしてこれが「信」が成立するということなのだ。

 例えば何かを信じるために証拠を探すという方法がある。「タイムリープが真実だという証拠を見せろ」みたいな話だ。
 これは証拠があれば信じるという事だが、その内部構造をもう少し考えてみると、「これが間違いなく証拠だ」と、疑念を持っているその人が感じてしまうもの、そうした感覚を否応なくその人に抱かせてしまうもの、それを提出しろということなのだ。
 ということは誰であれ、人が「これは真実だ」と判定を下す場合、その基準には個人ごとの違いが出てくるという事になる。
 何せ何かが「本当であるかどうか」という判定はあくまで、判定しているその人個人の内面で起こっている事だからだ。
 つまり「本当」の基準には複数のものがあり得るという話になる。
 ただし一般的には、物事の真贋を判定するには(この地球というか物理世界では)主観的な認識と客観的な事実との間に一致が見られるか、という方式が採られている。
 ところが実は絶対に、認識は客観には到達できない。
 何故なら認識自体が人間の内面で起こってることだからだ。そのものずばりの外側のことなど、その仕組み的に絶対に知り得ない。そもそも接触しないし、出来ないのだから当たり前だ。
 例えるなら人間は潜水艦とかの中で、ソナーとかレーダーで外部の状況を拾っている観測手のようなものなのだ。実際に外に出ることは出来ないし、それは有り得ない。認識という行為自体がソナーやレーダーを仲介したものだからだ。
 だからそもそも捕まえる事の出来ない客観なんぞを頼らないで、そもそもどういう時に自分はその物事を真実だと受け入れざる得ないのか? と考えた方がいい。
 例えば目の前でナザレの男が水の上を歩くのを見れば、「マジか?」と思うだろう。
 そしてそれを「マジらしい」とはっきり思ってしまえば、もうその事に対する「信」自体は自分の意志というか、選択では動かせない。
 そもそもそのように「思うかどうか」も人は自分では決められない。
 ナザレの男は水の上を歩けるのだ。普通じゃねえぜ。ということが自分の中で事実として立ち上がってしまえば、もう信じるしかない状況に追い込まれてしまう。
 これが「信」が成立するということなのだ。
 自分の意志というか、意思力というか、根性で、必死に何かを信じようとすることは出来る。でもそれはここで書いている「信」ではない。
 それはむしろ「信じる」と言うより「忠誠心を持つ」という事に近いのではないかと思う。

 だから人は「自分の都合では何かを信じるかどうかを決めることは出来ない」と書いてきたのだ。
 それはある意味で外からやって来るというか、自分の中に否応なく浮かび上がってくるものだからだ。
 これを「啓示」を得られるかどうかという言い方で私は書いてきた。
 ただしこれに「啓示」という名称を与えたのはガッザーリーだし、アウグスティヌスはそれを「恩寵」と言ったのだけれど、とにかく「それ」が無い限り、神秘修行の世界において確信が成立することは絶対に無い。
 で、この恩寵なり啓示なり、まあ名前は何でもいいのだけれど、それは誰もが遭遇できるとは限らない。
 つまり一種の籤運的というか、不公平感というか、そんなものがある。
 キリスト教的に言えば神様の気分次第ということで、そしてその問題をクリアできねーかと神学は延々と議論していく事になるのだが、これまたガッザーリーが言ったように、それは議論で決着が付くことではない。
 理性に基く「知」という方法では超越である「信」には到達できない。
 体験するしかない。古今東西の神秘スクールはその事実をよく熟知しているから、生きるか死ぬかという話になってくるのだ。
 山田孝男さんの本の中に、ある神秘スクールに入門した際に「神秘修行に命を懸ける覚悟があるのか?」と聞かれたという話がある。
 物凄く誠実な指導者だと思う。その本の中でも「現在ではそんな質問をされることは稀だろう」と山田さんも書いてらしたが、だから逆に危ないのだ。
 ガチの神秘修行は生きるか死ぬかという話になってくる。そしてそれなりに本格的な修行体系を指導していけば、生徒の中に効果が出て来る可能性は高くなる。
 それはその教室の経営者がビジネス気分でやっているか、それとも結構マジにやっているかどうかとは関係ない。神秘修行はアクセスポイントがそれなりに正しければ、効果が出る可能性は高い。
 だからカルチャーセンター気分でいると危ないのだ。
 この話に関して、知人に「雑誌ムーに出ていたオウムの宣伝文句はガチだったんだよな……」という人がいる。
 そりゃあムーの紙上で「悟るか死ぬか」という広告文句を見れば「格好つけた宣伝だなあ」と思うのが、世間一般的な感想だと思う。
 ところが、web時代になってそれがガチだったと判ったわけだ。
 オウム真理教は神秘スクールの歴史で言えばごく普通の秘教結社だったので、当然一般社会から見れば狂った団体であり、迷惑な団体であり、危険な団体という事になる。
 そしてそれは神秘修行の世界においては「ごく普通の」話でしかないのが恐いところで、だから団体に所属するのはよくよく考えた方がいいぞ? という話になるのだ。

 世界線移動(タイムリープ)をしようなどという決断は、世間一般の世界像からすれば狂ったものになる。現在の世間一般を主宰する信仰教義からすれば、それは全く不可能とされているので、そう思われても仕方がない。
 だからこそ旅立つ準備を進める航海者達は不安になる。
 タイムリープのスレを見ていても「本当だという証拠を見せろ!」的な、焦りや恐れを感じる発言は多かった。
 自分が異端だという自覚があるからそうなるのだ。だから事実であると確めたくなる。異端の信仰を保証して貰いたくなる。その気持ちは物凄くよく判る。
 大丈夫。全てはきっとよくなる。Everything's gonna be all right! だ。確信を得た者はそう言う。けれど得ていない者にその言葉は届かない。
 私も一時期占いに凝ったり色々やったりした時期がある。けれど啓示を得た結果(まさに啓示だ)疑念は木っ端微塵に粉砕されて、今ではそういったものには興味がない。絶対確実な勝利の確信があるからだ。
 もしも残り時間が限られているのでなければ、必ず訪れる差し迫った破局がないのであれば、肚を括って道を進んでいくしかない。いつか啓示が訪れると信じて。
 タイムリミットのある人でさえ、その瞬間までは死闘を演じているのだ。
 完全無欠であることを心掛けつつ、戦いを続けること、それしかない。
 戦士にあるのは戦いだけだ。

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