「エゴ」でも「我」でもなんでもいいけど2

 いつもの一発書きで、しかも時間が無いのでわかりにくいかも知れない。

 完成した自我とは内的に自己の存在の根拠を知り、自己の限界と世界の有り様とを知っている。それ故に自分の限定状況を冷静に見定めて理解している。
 つまり自我の存在自体が現在の限定状況を生み出していることを理解している。
 だから自我を消滅させることが解答になると知っている。
 この時に2つの方向がある。1つは過去に戻ること。アキレスになることで、もう一つは現在レベルの自我を乗り越えて進むこと。こちらについてはシュタイナーが色々と参考になることを言っている。
 もっとも神智学も人智学もつまるところは天圏流出論なので、全然オリジナリティーは無い。
 要はプロティノスの子孫であり、実際にその設定を遡ればスフラワルディー辺りがパクリ元になっているんじゃないかと思う。キリスト教御得意のあちこちの宗教をパクって来てつぎはぎで設定を組み上げるという手法なので、そこは念頭に置いて読んだ方がいい。参考にはなるけれども。

 さて瞑想をしていくとどうしても天圏流出論を体験するというか、体験がそっちに流れやすい傾向があるので、これ又そこは意識しておいた方がいいと思う。
 体験の内容はその人の個性と、その人の抱えている世界設定に左右されるので現代人よりも昔の人の方が個人差が激しかった筈だが……というのは現代では瞬く内に多くの情報が共有されるからだ。
 ちなみに仏教の場合は如来蔵とかそっちに行くらしい。判る気がする。
 そういえば哲学者でも凄い人などはシェリング(ドイツロマン派の)なんかと比較して如来蔵思想を研究してるようだが、これも判る気がする。ヘーゲルなんかは大批判したがそのヘーゲルも階層的な意識の進化モデルを出した辺り天圏流出論じゃんと思うのである。
 とにかくそうしたレンガを一個一個積んでいくようなやり方で迫っていくというのは、イブン=ルシュドの道というか、なんか凄く大変そう。
 なので私はそういう方法は採らない。だったらガッザーリーでしょうとなる。
 勿論イブン=ルシュドはガッザーリーを批判している。それはそうだよね。
 これがラーメンの好みの違いというか、立場の違いという奴です。

 話を戻そう。

 完成した自我は自分の置かれた状況をよく理解しているから、やるべき事が何も無いということも理解している。
 その意味ではいつでも死ぬ準備が出来ているとも言える。到達してしまっているのだから当たり前だ。
 状況をありのままに捉えたとき、苦しみが無くなるなんて事は有り得ない。
 苦は苦でしかない。それが自我に対して外部から向かってくるという点において、苦楽が「入力情報」である、として一致するというだけだ。苦が消えるわけではない。
 譬えるなら水もガソリンも液体という点では一致するが、ガソリンは飲み物ではないと言うようなものだ。
 だからガソリンを美味いか不味いかという点で論議するのはそもそも怪訝しい。議論の立て方自体が間違っている。しかしスピ系のサイトを見ていくと意外とこの事に気付いていない人がいる。
 その場合、悟りや自我の消滅を万能鍵、銀の弾丸と思ってしまう危険性がある。それは危なくはないが勿体ない。時間が。何故なら堂々巡りになるから。
 臨済録などを読むとこのことを臨済が何とか伝えようと凄く努力しているのがわかるが、まさにそれで、内にも外にも求めてはならないというのはこのことを指している。
 ともすると自分の内に答えが有るのではないかと思ってしまうわけだ。
 違います。内にも外にもありません。あるとすれば「今ここに有る」し、「今」とも言えるし、「ここ」とも言えるし、「そもそも無い」とも言えるし、それは「答えではない」とも言える。言葉でなんかどうとでも言えるので、いくらでも普通の人を煙に巻くことは出来るし、ちょっとリリックな言葉をあちこちからパクって来れば、感性の敏感な人達をカモにして金儲けすることも出来たりする。そこを嫌と言うほど判っていたから「求めるな」と臨済は言うわけだ。
 まあ古今東西の覚者達は、いざ語る状況に立たされると必死になって伝えようと努力するわけで、その必死さの部分にそれぞれの味わいがあるわけだけれども。
 神秘修行が進んでいくと、ある段階から覚者達の言葉が物凄く明解に感じられる時が来る。どれを読んでも、言葉の選定や配列が実に素朴で直撃的だなと感じられる段階が来る。
 それが自我が死の手前まで来たというサインだ。

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