「エゴ」でも「我」でもなんでもいいけど
スピ系の世界とか日本の禅宗とか、その界隈を見ていると「エゴ」とか「我」とかその辺をとにかく抹殺しよう、抹殺しよう、問題点はそこだ! みたいな傾向を非常に強く感じる。
その所為か「エゴ」という言葉には悪いニュアンスが含まれている感じがある。
スピでも精神系でもその手のwebを見ていても、いいニュアンスで使われているのは見たことがない。
その事について少し書いておきたい。
先ず最初に言葉の問題。それを「エゴ」と言おうが「我」と言おうが、発言者の意図がはっきりしてれば内容的には同じなのでその文脈で読めばいいと思う。
多分、そうした界隈では「エゴ」という言葉を、個体意識の欲望とか衝動というような意味で使っていると感じる。
けれど私はエゴを自我という意味で捉えているので、そこで一瞬「んん??」と言ったような自分的再翻訳というか、置き直しが脳内で起こるので混乱してしまう。
その後で振り返って解釈して、「ああ個人的な欲求とかそんな意味か」と考える。
それで、話はそこから始まる。
先ず前提として「そのエゴとやらを抑圧するのは止めた方がいい」とは言える。
抑圧すると必ず反動があるからだ。
つまり反撃、反作用がある。これは自己の内面の他の部分に必ず、ある種の祟りをもたらすので止めた方がいい。
ではそのエゴとやらを「見ないようにする」とか、そこに集中している「エネルギーを他の場所に反らす」とかはどうだろうか? 実はこれもあんまり効果が無い。
その場凌ぎの弥縫策だからだ。
覚者達が指摘するように、こうしたエゴの問題というのは、犬が自分の尻を追って、ぐるぐるその場で廻転しているようなものなので、犬の中に状況に対する理解が生まれない限りはどうにもならない。
そもそも問題というものは、その問題自体の中に埋没しているからこそ問題たり得るわけで、内部からでは絶対に解決できないからだ。
問題が解決する時というのは、それが問題では無くなったとき、つまりは自分が変わってしまったときになる。
上の例で言えば、犬が「これは私の尻尾だ!」と理解に目覚めたときに解決する。
シャンカラ式に言えばそれは「明知」に達した状態、そしてぐるぐる廻っている状態が「無明」というわけだ。
困るのは、それがどのように起こるのか、どういう時にそうなるのかは自分では(問題の中にいる人には)全くわからないという事だ。
救いは必ず外部からやって来る。それは本人にはどうにもならない。
もう一つ。その「エゴ」とやらを癌細胞みたいに敵視すること自体を止めた方がいい。
個体意識は確かに幻想であり、勘違いの結果でしかないのだけれども、純粋意識にはそもそも個体性というものが無い。だから個体意識の立場から何を言ってもそれは無意味になってしまう。
私の本質は確かにアートマンだが、それは例えば風邪引いて寝床でヒーヒー言ってる個体意識の「私」には関係ないという事だ。
まあ確かに不二一元論の「アートマンは一切に関係ない」という結論は正しいなと、熱に浮かされた頭で考えるその「私」こそが個体意識であり、それがこのnoteで述べているエゴという事になるだろう。
そしてこの「エゴ」とやらは肉体を持って生きてる限り無くならない。
少し脱線するけれども、その「エゴ」は色々なものを糊付けした集合体だとも言える。
つまり要素というか構成部品に分解が可能だ。この辺の作業をしていく神秘スクールが、唯物論とか機械的反応性に立脚した世界像を組み上げるのは理解できると思う。
そしてこの構成要素をくっ付けている「糊」こそがいわゆる「カルマ」なのだ。
ということは、カルマを全て滅却した先には何が待っているのかは容易に想像が付く。
要するに個体性の崩壊、死である。
この事を明確に意識して目指していくのがつまりヨーガなのだ。その意味でヨーガとは消滅のためのテクニックだと言える。
話を戻すが、生きている限りこの「エゴ」とやらはなくならない。
ヨーガで言うところの生前死者という境地に至ってもそれは変わらない。
この事についての説明の一つとして輪廻転生というストーリーは利用もされる。それはいい。重要なのは生という運動状態の中に在っては常に新規の材料と、その加工の機会が投下されるという事(生きてる限り本当のゴールは有り得ない)と、何より、何よりも、その「エゴ」は自己という全体性の一部だからだ。
その意味で抑圧したり、抹消しようとしたりするのは見当違いだと思うし、危険な話だとも思う。
だからといって一足飛びに「そのままでよい」とも言えない。
そう述べた覚者は多分多いだろうし、それが記録に残っているものもある。
例えば――何もしなくて良い。今そのままが既に到達なのだ。その真実自由な状態こそが仏である――そんなような発言を、どこかで見たことがないだろうか?
けれどもこれでは説明が全く足りていない。
例え同じ「そのまま」の位置だったとしても、一周廻った「そのまま」と、文字通りの「そのまま」とは明らかに違うし、同列に話してよいものではない。
覚者という連中は明らかに違う。
それは幼稚園児が叫びを上げてる中庭に、突如として天から降り立った理知的な大人のような者であって、何から何まで普通ではない。違うのだ。
では問題はどこにあるのか?
結論から言うと、「自我」があまりに幼いことにあるのだ。
人間が「自我」を手に入れたのはつい最近の話だという考えを私は支持しているから、こういう結論になるのだけれど、色々考えていくとどうしてもそう結論せざるを得ないと感じる。
そしてこの事に関して重要な時期が紀元前1000年頃だったろうという事については、過去のnoteで書いているから繰り返さない。
それよりも私が考えているというか想定している「自我」、すなわちエゴとはどういうものかと言うと、主観的自己意識、内省的自己意識、外部世界をヴァーチャルに内面に取り入れて、その中で自在な世界構成を可能にする閉じた意識の事だ。「意識」そのものと言ってもいい。
場合に寄っては「心」と言ってもいいけれど、心と自我を一緒に考えるとマズイことになるので分けて考えた方がいい。こっちの話をしていくと二元論から唯物論とか西洋人の自明性の話になっていって凄く大変なので今回は省く。
私はその意味で人智学の分類と考察は素晴らしくよく出来てると思う。
この「自我」が心を統御してるというか、統御しようとする試みが、いわば人類の歴史だというのが私の考え方になる。
そして「自我」に対して心、つまり感情は遥かに古い歴史を持っていて、簡単に言えば自我よりも強いのである。
この心というか感情しか無い状態、つまり自我が無い状態がどういうものかというと、例えばイーリアスの登場人物達になる。ただしジェインズはそれを「意識が無い」という言い方で書いているけれど。よりショッキングな例を挙げれば、やはりジェインズの本に出て来たコンキスタドールの記録ということになる。ラス=カサスの記録かも知れないが憶えていない。
ちなみにここから類推して、私は日本では結構、江戸時代位でも意識の無い人間(自我が無い人間)がいたのではないかと思ったりもしているが(その辺を題材にしたのが『蜜の島』だ)、それはさて措き、心、感情と言ってもいいし、煎じ詰めれば反応性と言ってもいいけれど、それをどうやって飼い慣らすかが人類の一大課題なのだ。それは昔も今も変わらない。
そして人類種としての、その解答が「エゴ」を持つ事、つまり自我を持つ事だったのだと私は考えている。
では自我を持つ前は? その時代の人類は何を指標に行動していたのか。
それがつまり「神」だというのがジェインズの意見だ。
自我、ジェインズ式に言えば「意識」を手に入れる前の人類は「神の声」に従って生きていた。その「神の声」こそ右脳の囁きであり、古代人は右脳と左脳の連結が現代人よりも遥かに未熟だったがために、言わば二つの心を持ったものとして存在していた、一種の高貴な自動人形だというのだ。
当然想像は付くと思うが、この結論に西洋人達は発狂した(笑)
連中の依存する薬物を取り上げるような結論だったから当たり前だが、それはともかく、このジェインズに関連してこれまた前にも書いたが、シュタイナーはこの辺り一連の人類の変遷史を、自我の発達という観点から説明している。つまり自我が何に依存する形で存在してきたかという観点から説明するわけだ。
例えばある時代には自我は外部の構造物に依存していたとシュタイナーは言う。古代のオベリスクなどがそれだと。自我がそうした外部構造物に依存している状況では、何か事件のあった場所にオベリスクなどを建てる。
すると人々はその場所に行ってそのオベリスクに遭遇した時だけ、その事件のことを想起するというのだ。自我は記憶だと言ってもいいくらい記憶と結び付いているから、この説明は非常に興味深い。
そして音楽や、外部の構造物など、色々な段階を踏んで、遂に人類は自己の内面に自我の根拠を持つに至ったとシュタイナーは述べる。それが現代だと。
しかしそれでもまだ自我は四つん這いの赤ん坊のようなものだとも述べている。
自我に先行するその他の構成要素に比べれば、遥かに幼いと。それはそうだろう。自我は人間が手に入れた「最新の部品」だからだ。
だから自我を否定すればアキレスに戻ってしまう。先祖返りだ。
マンガの『ハーモニー』では、それは非常におだやかな状態だと描いてあり、その予想は半分だけ正しい。
つまり半分間違ってもいる。もし常にそうした満ち足りた穏やかさのみになるのだとしたら、アキレスの嘆きと怒りはどうなるのか。己が体を示し、その反応を示して訴えることしか出来ないアキレスは。
アキレスには「エゴ」が無い。だからイーリアスは「女神よ、怒りを歌い給え」と開始されるのだ。怒るのは女神の役目なのだ。
主観的内省意識たる自我、「エゴ」を持たないアキレスには「我々現代人が抱くような怒り」は持ち得ないのだ。
「エゴ」則ち自分という意識を持たないアキレスが、そのどうにもならない苦しみに悶えているとき、やはり指示を下したのは神だった。
眼光輝く女神アテナはアキレスを押さえ付けてこう言ったのだ。
「アガメムノンを殺してはならぬ」
アキレスはこれに従い、アガメムノンを殺す役目はアガメムノンの妻と間男が請け負うことになった(笑)
レヴィ=ストロースは「地獄とは我々自身のことだ」と言ったらしい。
してみると我々は地獄からは逃れられない。
自分自身と地獄が=なのだから当たり前だ。
そこで救われるために何とかしようということになる。それが多くの神秘スクールの課題になってもいる。
ところがそれが単純な先祖返りの為の稽古になっている場合には話がこじれ、おかしくなるのだ。
禅寺で「まだ我がある! まだ我がある!」と怒鳴られながら蹴りまくられても、それでどうにかなるとは限らない。骨折したり死んだりする人だって多い。実際、禅寺は暴行殺人の巣窟だったのだから。
棒で殴られなくても、内省を繰り返す中で暗澹とした苦しみに陥る形もある。
むしろ現代のスピ界隈、精神世界では大流行の不健康な方向性で、こちらは禅寺と違って理屈や考察を挟む分だけ取っ掛かりはある。
まあ「考えない」という手法があれば、逆に「考える」という手法もあるというだけの話だが、ともあれそこに機械的に「自分という意識そのものが諸悪の根源なのだ」という「エゴ犯人論」とでも言うべきお題目、記号が入ってくると、やはり禅坊主の棍棒やキックと同じような事態というか、問題が発生するわけだ。
折角考察や観察の方向性から入っていた所へ、記号、お題目で思考停止してしまったのだから当たり前だが、とにかく情報の損得を嗅ぎ分ける嗅覚というか直感? が重要だ。
例えるなら危険を察知する野生動物の勘だ。
思うにやはり善悪という価値判断を自明性の中に埋没させていて検討しないから、迷路に迷い込むのだ。
善悪、行動規範を教えるという意味で言えば、その原初のテキストは神話や伝説になるのだが、その社会的な効用としては明らかに心を飼い慣らす方法という面が存在している。
知っているのだ。人類は。大昔から判っていた。
初めは神の声に頼り、やがて神々が遠ざかり、沈黙して、代わりに自我が現われた。
神は死んだのだ。我々が殺したのだ。血を流して神は死んでしまった。そして我々が神になった。ところが我々は余りに幼く、ものの道理がまるで判っていない。
そこでマニュアルが役に立つ。例えば神話がその一つだ。
そして神話を必要としない人達がつまり覚者だ。
その意味では覚者は普通の人間ではないとは言える。時代の平均値を逸脱してると言ってもいい。
この事は同時に人間社会には共同体の秩序を維持する為の、何らかの認識装置が必要だという事も意味している。
つまり人間社会には神話とか、そんなものが必要であり、そいつが無くなるとえらいことになるという話だが、この事についてある聡明な神話学者がインタビューでこんな会話をしている。
「神話を失った世界が知りたければ新聞を読みなさい」神話学者
「そこに書いてあるのはなんでしょうか?」インタビュアー
「今日のニュースです」神話学者
全くその通り。いかにしてこの巨大な、受動的性質の台風とも言える心を制御するか。
問題はそこなのだ。
「私という意識が苦悩の原因である」
これは確かに正しい。けれど何故そうなのかについては一切答えていない。
答えは単純だ。まさにその「私」とやらが未発達で、弱いからだ。
だったら鍛えればいい。強くなる為に格闘技を習ったり、筋肉を鍛えるのと同じレベルの話でしかない。
私としてはどうして自我を鍛えるという方向に行かないのかが不思議でならない。
もちろんここで言う「自我」は、今問題にしている通俗的に否定されるところの「エゴ」ではない。あれは私に言わせれば野放図な心と、混乱した自我のブレンドであって、「自我」そのものではない。
主観的な自己意識、外部世界を内包する閉じた世界、その中に確かに存在していると感じさせる「私」という感覚、その認識、それが自我だ。
すべきことは鍛錬。首尾よく鍛錬が進めば、自我の核というか、本体が見えてくる。
それは何か?
これには人智学が的確な解答を与えている。
則ち自我とは「内的に自分自身の存在の根拠を自覚できるような魂のあり方」の事だ。
それはなにものにも依存せず、根拠を持たず、無始であり、無窮である。
おやおや? それってどこかで聞いた話ではないですか?
そう。それこそ根源の観察者、究極の見、あなたはそれである。
それは一瞬で起こる。というか起こった時は問題にならない。判らなくなるから。
気が付いたらオタクになっていた、みたいな話だ。
ではそれで問題は解決するのか? 問題は消える。それは間違いない。
けれど生きている限り変化は起こり続けるし、それに曝されることにも変わりはない。
映画を見たって涙は出るだろう。
ただ「それは映画だ」と判っているに過ぎない。
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